世界が、生まれ変わる日
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、『最後の治療』が始まりました。ギムレックの不屈の魂が、イザベラへの道を切り開き彼女は、ついに世界の歪みの中心であるコアユニットへと、清浄な生命の設計図を打ち込みました。 赤黒い『歪み』と青白い『調和』。その二つを飲み込む絶対的な白い光。全てが終わります。
音はなかった。
光だけがあった。
全てを等しく無に帰す、絶対的な白。
私はその温かく、しかしあまりにも広大な光の海の中に浮かんでいた。
体はない。重さもない。
ただ意識だけがそこにあった。
(……ここが死ですの……?)
不思議と恐怖はなかった。
ただ心の奥深く。
最後に聞いたあの懐かしい声が、優しく響いていた。
《……お見事です、お嬢様》
アルフレッド……。
私はあなたの誇りであれたでしょうか。
その白が、ゆっくりと収束していく。
まぶたの裏側を焼いていた絶対的な光が、潮が引くように消えていく。
そして最初に私の目に入ってきたのは。
あの赤黒く脈打っていた冒涜的な二重螺旋ではなかった。
そこにあったのは。
巨大なガラスのシリンダーの残骸の中心で。
まるで生まれたての星のように穏やかな、青白い光を脈打せる清浄な生命の塊だった。
私が突き立てた最後の一片。
『星の癒し手』。
それはあの狂った【エデン】システムの悪意の塊を食らい尽くし、そしてそのシステムそのものを乗っ取ったのだ。
破壊ではない。
治療。
私の最後の科学的介入――上書きは成功したのだ。
「……あ……。ああ……」
か細い声がした。
聖女セラフィナだった。
彼女はその場に膝をついていた。その聖母のようだった完璧な笑みは消え失せ、まるで道に迷った子供のような混乱と恐怖の表情を浮かべていた。
「……聞こえない……。神の声が……。私の完璧な『秩序』が……消えていく……。寒い……。私は、私は、何をすれば……」
彼女を構成していた絶対的なプログラムが消去されたのだ。
彼女を神の代行者として動かしていたナノマシンとの接続が断ち切られたのだ。
彼女はもはや聖女ではない。
ただ一人の無力で、そして怯えた人間に戻っていた。
「……親方……!」
私はもう一人を探した。
「……がっ……はっ……。けっ、てめえ……。とんでもねえ光景を、見せやがる……」
ギムレックだった。彼はボロボロの体を引きずり、しかしその不屈の瞳だけでセラフィナを睨みつけていた。
彼の内なる溶鉱炉の光は消えかかっていたが、その魂の熱までは冷めていなかった。
「……どうだ聖女様よぉ。てめえのそのくだらねえ『秩序』より、よっぽど俺たちのめちゃくちゃな『混沌』の方が、しぶとかったみてえだなあ……」
その時だった。
地響きとともに玉座の間全体が激しく揺れ始めた。
「……まずい! 嬢ちゃん!」
ギムレックが叫ぶ。
「このタワーそのものを支えていたナノマシンの制御が切れたんだ! 崩れるぞ!」
天井から巨大な瓦礫が降り注ぎ始める。
この偽りの楽園。
その象徴であったバベルの塔が今、自らの重さに耐えきれず、崩壊を始めたのだ。
「……ハンナ!」
私は玉座の間の入り口でその光景に腰を抜かしていた、ハンナの手を掴んだ。
「親方! あちらへ!」
私はアルフレッドの亡骸を、その小さな体に抱きかかえようとした。
だがその手はギムレックによって強引に振り払われた。
「馬鹿野郎! 生きてる者が、先だ!」
彼はアルフレッドのその胸元から、何か小さな紋章のようなものをひったくると、それを私の白衣のポケットにねじ込んだ。
「そいつの魂はてめえが持ってけ! 肉体は俺たちが後で必ず回収する! ……ドワーフの誓いだ!」
彼は私とハンナをその太い腕で小脇に抱え込むと、崩れ落ちる瓦礫の嵐の中をただひたすらに出口へと突き進んだ。
「……セラフィナは……!?」
「知るか! あんな人形! 瓦礫と一緒におネンネしてろ!」
私は振り返らなかった。
ただ崩れ落ちる玉座の間で膝をついたまま、その意味を失った瞳で虚空を見つめ続けていた、あのかつて聖女だった女の姿を脳裏に焼き付けた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
粉塵と轟音の中をどれだけ駆け抜けたのか。
私たちが破壊されたタワーの残骸をかき分けて、ついに地上へとたどり着いた時。
私は息を呑んだ。
至聖所はその完璧な美しさを失っていた。
純白の建物はあちこちが崩れ落ち、等間隔に並んでいた街灯は、その光を失っている。
そして何よりも違っていたのは。
空だった。
完璧な管理下に置かれていた、あの青空ではない。
そこには薄い雲が流れ、そして本物の太陽の光が瓦礫の隙間から差し込んでいた。
「……ああ……」
私の隣でハンナがその光を浴びて、涙を流していた。
「……あったかい……。おねえちゃん……。これが本物のおひさま……」
そして私たちは聞いた。
音を。
それまでこの街を支配していた、無機質な静寂ではない。
「……ここは……、どこだ……?」
「……なんだ……、夢か……? 私は、何を……」
街のあちこちで。
あの感情のない自動人形のようだった市民たちが、まるで長い眠りから覚めたかのようにその場に立ち尽くし、自分たちの手を見つめ、そして互いの顔を見合わせている。
彼らの脳に直接干渉していたナノマシンが、その活動を停止したのだ。
一人の女がその隣に立っていた男の顔を見て、叫んだ。
「……あなた……。ああ、あなた……! 思い出した……! 私、あなたのこと……!」
「……お母さん……?」
子供の声がした。
この街で決して聞くことのなかった、本物の人間の感情の声。
一人が泣き出すと、それは伝染した。
歓喜、混乱、悲嘆、安堵。
あらゆる人間らしい混沌とした感情の渦が、この死んだ街に一斉に溢れ出した。
「……うるせえなあ……」
ギムレックがその瓦礫の山に腰を下ろし、ぶっきらぼうに言った。
「……だがまあ……。てめえらのあの気色悪ぃ笑みよりは、よっぽどマシか」
彼はそう言うと、そのボロボロの体で満足そうに目を閉じた。
「イザベラ!」
瓦礫の向こうから声がした。
カエルだった。彼と根の生き残りの戦士たちが、泥だらけの顔でこちらへ走ってくる。
「……終わったのか……。本当に、あんたが……」
「ええ。……いいえ」
私は首を横に振った。
「……私たちが、終わらせたのですわ」
私はアルフレッドの亡骸が眠る、崩れ落ちたタワーを見上げた。
私たちの犠牲はあまりにも大きかった。だが世界は確かに生まれ変わったのだ。
教皇の歪んだ科学による支配から解放された。
本当の意味での人間の世界が今、始まったのだ。
私はポケットの中のアルフレッドの紋章を強く握りしめた。
(……見ていてください、アルフレッド。ギムレック。……そして、レオンハルト様)
私の戦いはまだ終わらない。
この混沌の中から本物の科学の光を見つけ出す、その日まで。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 ついに、『最後の治療』が完了しました。仲間たちのあまりにも大きな犠牲の上にイザベラは、世界の『上書き』に成功しました。 絶対的な『秩序』は崩壊し、人々は、感情と、自由という名の『混沌』を取り戻しました。しかしそれは、新たな苦難の時代の、幕開けでもあります。
次回、「それぞれの、明日へ」。そして、物語は、ついに最終部へ。
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