秩序と混沌
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イザベラの起死回生の一手は、最後の扉をこじ開け、ついに敵の心臓部へとたどり着きました。しかし、そこで待っていたのは、聖女セラフィナという、想像を絶する、絶対的な『秩序』の化身でした。 彼女自身が、この偽りの楽園の、歩く制御装置。その前で、イザベラたちの科学は、そして仲間たちの絆は, 通用するのでしょうか。ついに、最後の戦いが始まります。
「さあ、始めましょうか。あなた方という最後の『不純物』をこの世界から完全に浄化するための、最後の『儀式』を」
聖女セラフィナの鈴を転がすように美しい、しかし絶対零度の響きを持つ声が、荘厳な静寂に満ちたマスターコントロールルームに響き渡った。
彼女はただそこに立っているだけだった。だがその存在そのものがこの空間の、そしてこの偽りの楽園の絶対的な支配者であることを我々に痛いほど理解させた。
彼女こそが法。彼女こそが理。彼女こそがこの世界の神。
その神を名乗る冒涜的な科学の化身を前に、最初に動いたのはやはりこの男だった。
「……ごちゃごちゃとうるせえんだよ、てめえは!」
ギムレックの腹の底からの咆哮が戦いの火蓋を切った。
彼は磨き上げられた黒曜石の床をその鋼の足で蹴り、一直線にセラフィナへと突進する。その両手に握られた戦斧がドワーフの怒りを乗せて唸りを上げた。
だがセラフィナは動かない。その慈愛に満ちた聖母のような笑みを崩さない。
彼女はただその白くか細い指先をギムレックへとそっと向けただけだった。
「……哀れな獣。その制御されない『混沌』の力も、すぐに私があるべき『秩序』へと還してさしあげますわ」
次の瞬間。
ギムレックがその戦斧を振り下ろす、まさにその寸前。
彼の足元の黒曜石の床がまるで生き物のようにその形を変えた。無数の鋭く尖った槍のようなものが音もなく床から突き出し、ギムレックの巨体を瞬時に串刺しにしたのだ。
「――がっ……!?」
ギムレックの口から声にならない苦悶の音が漏れる。黒曜石の槍はドワーフが誇る頑丈な鎧をまるで紙のように貫き、彼の動きを完全に封じていた。
「親方!」
私の絶叫が響き渡る。
「……心配いらねえ……お嬢ちゃん……。こんな石ころの串……俺の……!」
ギムレックはその超人的な筋力で自らを貫く槍をへし折ろうとする。
だがセラフィナはそれを許さなかった。
「無駄ですわ。その槍はあなたの筋肉の繊維、その一本一本の動きをナノレベルで計算し、その力を完璧に相殺するように形成されておりますから」
彼女が再び指先をわずかに動かす。
するとギムレックを拘束していた槍が、今度は彼の全身を覆うようにその形を変え始めた。黒曜石はまるで粘土のように彼の体を包み込み、やがて彼を完全に黒い石の不気味な彫像へと変えてしまったのだ。
「……親方……!」
あまりにも一方的な蹂躙。
力も技も勇気さえも、この絶対的な『秩序』の前では何の意味もなさない。
その事実が絶望という名の冷たい楔となって私の心に打ち込まれた。
「さあ、次はあなたの番ですわ。科学者、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク」
セラフィナの感情のない瞳が私を捉えた。
「あなたの言う『科学』。それは実に興味深い。ですがそれはあまりにも未熟で、そして危険な混沌の力。生命の無秩序な進化を肯定する愚かな思想。……私が正してさしあげます。その間違いだらけの前提条件を」
「……何が間違いだというのです……!」
私は震える体を必死に叱咤し、声を張り上げた。
「進化とは試行錯誤そのものですわ! 失敗し、傷つき、それでもより良い未来を求めて変化し続けること! それこそが生命の美しさではないのですか!」
「美しい? 醜悪ですわ」
セラフィナはきっぱりと言い切った。
「病も老いも死も、争いも憎しみも。その全てがあなた方の言う『進化』が生み出したシステムの『バグ』に過ぎない。私はそのバグを全て取り除き、この世界を永遠に安定した完璧な『楽園』へと導くのです。……痛みも苦しみも悲しみもない永遠の平穏。それこそが至上の善ですわ」
「それは平穏などではない! ただの停滞! 生きた墓場ですわ!」
「ええ。それで結構」
彼女は微笑んだ。 「墓場こそが最も秩序の保たれた美しい場所ではありませんこと?」
言葉が通じない。
彼女はもはや人間ではない。教皇ヴァレリウスの歪んだ理想を寸分の狂いもなく実行するためだけに作られた、生きたプログラム。
その完璧なプログラムが私という最後の『バグ』を消去するために動き出す。
彼女が再びその指先を私へと向けた。
死。
その絶対的な予感が私の全身を貫いた。
その瞬間だった。
「――お嬢様!」
私の前に一つの影が飛び出した。
アルフレッドだった。
彼はその常に冷静だった執事の仮面をかなぐり捨て、主である私を守るためその身を盾にしたのだ。
「……無駄なことを」
セラフィナの冷たい呟き。
彼女の指先から目に見えない力の波が放たれる。
だがアルフレッドは倒れなかった。
彼はその懐から一つの古びた銀の懐中時計を取り出し、それを力の波の前にかざしていたのだ。
懐中時計はセラフィナのナノマシン攻撃を受けると激しい光を放ち、その表面に複雑な幾何学模様の青い光の盾を展開させた。
「……なんですって……!?」
初めてセラフィナの完璧な能面に驚愕の色が浮かんだ。
「……そのエネルギーパターン……。ありえない……。それはこの『エデン』システムが構築される遥か以前の……。古代の遺物……!」
「……これは我が一族が代々ヴェルテンベルクの主に仕える者にのみ受け継いできた『守護者の懐中時計』」
アルフレッドは苦痛に顔を歪ませながらも一歩も引かなかった。
「……その真の機能はただ一つ。あらゆる外部からの情報干渉を遮断すること。……あなたのその神を気取った小賢しいハッキングも、この前では無意味です!」
それは科学と魔法がまだ分かたれていなかった古代の超技術の産物。
だがその力はあまりにも強大すぎた。懐中時計はセラフィナの攻撃を防ぎきるたびに、その表面に激しい亀裂を走らせていく。
「……アルフレッド! もうやめて! それ以上はあなたが……!」
「……いいえ、お嬢様。これこそが私の本懐」
彼は血を吐きながらも穏やかに微笑んだ。
「……どうかお行きください。そしてあなたの科学で、この狂った世界を……」
パリン……!
甲高い音と共に懐中時計が砕け散った。
そしてアルフレッドの体はまるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと崩れ落ちていった。
「……アルフレッド……。ああ……アルフレッド……!」
私の悲痛な叫びが響き渡る。
「……見事な忠誠心。ですがそれもまた理解不能な混沌の一つ」
セラフィナはその最後の抵抗を冷たく断罪した。
「……さようなら、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク。あなたの存在したという記録もすぐにこの世界から完全に消去してさしあげますわ」
彼女の最後の審判が下される。
私はもはや動けなかった。ただゆっくりと目を閉じる。
(……ごめんなさい、レオンハルト様……。私は……)
――その時だった。
私の背後。
石像と化していたはずのギムレックの、その黒曜石の塊の中から地殻が軋むような低く重い音がした。
そして黒曜石の表面に一本の亀裂が走った。
セラフィナの完璧な計算。その唯一の、そして最大の誤算。
彼女はドワーフという種族の、その岩盤のような頑固で、そして決して折れることのない魂の硬度を見誤っていたのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
絶対的な『秩序』の化身、聖女セラフィナの前で、仲間たちは次々と倒れていきました。忠臣アルフレッドの、命を賭した抵抗も、虚しく……。 全てが終わったかに見えた、その瞬間。石像の中から聞こえた、不屈の鼓動。それは、この完璧な計算の世界に、唯一残された、予測不可能な『混沌』の光でした。
次回「不屈の魂」。ついに、ドワーフの真の力が、目を覚まします。
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