混沌の渦の中で
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
沈黙の十分間は、終わりました。仲間たちの、そしてクラウス副官の決死の覚悟によって切り開かれた道。しかし、その先で彼らを待っていたのは、無慈悲な警報音と絶対的な絶望でした。 敵の心臓部を目前に、完全に包囲されたイザベラたち。もはや、万事休すか。追い詰められた科学者が、再び、常識を超えた一手に出ます。それは、起死回生の奇策か、それとも、全てを巻き込む破滅の引き金か。
魂を砕くために設計されたかのような甲高い警報音が、沈黙を切り裂いた。
それはただの音ではなかった。人間の聴覚が最も不快に感じる周波数を的確に突き、思考そのものを麻痺させる科学的な『音響兵器』だった。
「ぐっ……!」
ハンナが小さな手で耳を塞ぎ、その場にうずくまる。アルフレッドが即座に彼女を庇うように覆いかぶさった。
絶望。
その一言がこの状況の全てだった。
目の前ではマスターコントロールルームへと続く最後の扉が、赤い警告灯を激しく点滅させながら無数の分厚いシャッターを降ろし、完全に封鎖されようとしている。
そして私たちの背後、左右、天井、床。壁のあらゆる場所から冷たい銃口のようなものが無数に現れ、その無機質な殺意を私たちへと一斉に向けていた。
チェックメイト。教皇ヴァレリウスの声なき嘲笑が聞こえるようだった。
「……くそったれが……!」
ギムレックが戦斧を構え、吠える。だが彼自身わかっているはずだ。この三百六十度からの死の十字砲火。いかにドワーフの戦士といえど、これを切り抜ける術はない。
私もまた歯を食いしばり、この絶対的な窮地からの脱出ルートを脳内で検索していた。だがいかなる計算式を組み立てようとも、導き出される答えはただ一つ。
――生存確率、ゼロ。
(……ここまで、なの……?)
脳裏に遠い王都で私の帰りを待つ、あの不器用な男の顔が浮かぶ。
『早く、その剣を持って帰ってこい、イザベラ』
彼の言葉が耳の奥で木霊する。
(……いいえ。まだよ。まだ、終われない……!)
私は顔を上げた。その瞳にはもはや恐怖も絶望もない。そこにあるのは追い詰められた科学者だけが宿す、冷たい狂気にも似た探求の光だった。
「……親方。アルフレッド。ハンナ。……皆さん。私の最後の『実験』に付き合っていただきますわ」
「……嬢ちゃん? てめえ、何を……」
「敵のシステムは秩序|と純粋を是とする。ならば」
私は背中のケースから、ガラス容器に収められた『星の癒し手|』の母株を取り出した。古代の叡智を受け継いだ清浄な生命エネルギーが、青白い光を放っている。
「……その対極にあるものをぶつけてやるまでですわ。すなわち、生命そのものが持つ根源的な、予測不可能な混沌をね!」
私はためらわなかった。
ガラス容器の蓋を開け放つと、その中身――ゲル状の母株を床に、壁に、そして私たちを狙う無数の銃口に向かって力任せにぶちまけたのだ。
「お、おい! 嬢ちゃん! それは俺たちの最後の希望じゃ……!」
ギムレックの絶叫が響き渡る。
その通りだった。これは敵のシステムのコアを『治療』するための唯一の希望。それをこんな場所で無駄に消費するなど狂気の沙汰だ。
だが私には確信があった。
完璧に滅菌され管理されたこの無機質な空間に、突如として高濃度の清浄な生命エネルギーが解き放たれたらどうなるか。
答えはすぐに出た。
床に、壁に、そして銃口に付着した青白いゲル状の母株が、タワー内部の潤沢なエネルギーを凄まじい勢いで吸収し、爆発的な異常な『増殖』を始めたのだ。
壁から、床から、まるで意志を持ったかのように巨大な青白い蔦や水晶のような花が瞬く間に生え始めた。その成長は音を伴い、無機質な壁に亀裂を走らせ床のタイルを突き破る。
それは美しい光景ではなかった。生命の設計図が暴走した、おぞましくそして冒涜的な混沌の光景だった。
蔦は私たちを狙っていた銃口に絡みつき、その内部回路を物理的に破壊していく。水晶の花は壁の内部に根を張り、警報システムを根こそぎ沈黙させていく。
警報音が断末魔のような不協和音を奏でながら途切れ途切れになっていく。
そして完全に封鎖されようとしていた目の前の巨大な扉。そのシャッターの隙間からも蔦が侵入し、その駆動系を内側から破壊し始めたのだ。
ガッ……ガガガガガガガッ……!
扉が悲鳴のような軋みを上げる。
「……すげえ……。おい、見ろ! 扉が止まったぞ!」
ギムレックが叫ぶ。
「……今ですわ、親方! こじ開けて!」
「おう、任せろ!」
ギムレックはその巨体を渾身の力で扉に叩きつけた。ボルンがこの時のために用意してくれた特殊な形状の巨大なバールを、わずかに開いた隙間にねじ込み、テコの原理でその鋼の扉を無理やりこじ開けていく。
その扉の向こう。
私たちはついに見た。
この偽りの楽園の心臓部を。
そこは教会のように静かで、そして荘厳な空間だった。
天井はドーム状になっており、本物の星空のように無数の光がまたたいている。床は磨き上げられた黒曜石でできており、私たちの姿を鏡のように映し出していた。
そしてそのだだっ広い空間の中央。
巨大なガラスのシリンダーの中にそれはあった。
赤黒く、そして不気味に脈打つ巨大な、歪んだ二重螺旋。生命の設計図を悪意をもって反転させた、冒涜的な科学の祭壇。
あれが『エデン』システムのコアユニット。
そしてその祭壇の前に一人の女が静かに立っていた。
純白の聖職者のような衣服。プラチナブロンドの美しい髪。そしてその顔には、まるで聖母のような慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その瞳は笑っていなかった。
そのガラス玉のように感情のない瞳は、この世のいかなる混沌も許さないとでも言うような、絶対的で冷たい『秩序』の色を宿していた。
「……お待ちしておりましたわ。異分子の方々」
その声は鈴を転がすように美しかった。
「……てめえが聖女セラフィナか」
ギムレックが警戒を露わに唸る。
「ええ。そう呼ばれておりますわ。この穢れた世界を教皇ヴァレリウス様の大いなる秩序の下に浄化する、その代行者として」
彼女は私たちの背後で暴走した生命の蔦が壁を破壊している光景を一瞥したが、少しも動揺を見せなかった。
「……見事な『混沌』ですこと。ですがご安心を。その醜い生命の営みもすぐに私が正しき『秩序』へと導いてさしあげますから」
彼女がそっと右手を掲げる。
すると彼女の周囲の空間がわずかに歪んだ。
そして次の瞬間。私たちの背後であれほど猛威を振るっていた生命の蔦や水晶の花が、まるで時間を逆再生するかのようにその勢いを失い、塵となって消滅していったのだ。
「……なんだと……!?」
「……まさか……。あれは……!」
私はその現象の正体に気づき戦慄した。
あれは魔法ではない。
彼女は、この空間に存在するナノマシンを自在に操作し、物質の構造そのものを原子レベルで分解、再構築しているのだ。
彼女こそがこのタワーの、そしてこの偽りの楽園の真のマスターコントロールユニット。
彼女自身が歩く『エデン』システムそのものだったのだ。
「さあ、始めましょうか」
セラフィナはその慈愛に満ちた笑みを崩さぬまま言った。
「あなた方という最後の『不純物』をこの世界から完全に浄化するための、最後の『儀式』を」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラの起死回生の一手は、最後の扉をこじ開け、ついに敵の心臓部へとたどり着きました。しかし、そこで待っていたのは、聖女セラフィナという想像を絶する絶対的な『秩序』の化身でした。 彼女自身が、この偽りの楽園の歩く制御装置。その前で、イザベラたちの科学は、そして仲間たちの絆は、通用するのでしょうか。
次回「秩序と混沌」。ついに、最後の戦いが始まります。
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