地下の鉄槌
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラは、絶望の地下で、抵抗者たちとの同盟を結びました。地上を追われた者たちと、地下で生まれ育った者たち。二つの反逆の意志が、今、一つになります。
しかし、彼らの前には、地下に潜むもう一つの勢力――ドワーフたちの存在が。
ギムレックが、同胞との、困難な交渉に挑みます。
根の集落の一角に、急遽私のための研究室が設えられた。そこは地上にあったあの古びた教会とは比べ物にならないほど、清潔で機能的だった。抵抗者たちが命がけで地上の施設から盗み出してきたのであろう、ガラス器具や天秤、そしてわずかながらも貴重な薬品が整然と並べられている。
「……素晴らしいわ。これだけの設備があれば乳酸菌の大量培養も三日とかからず軌道に乗せられるでしょう」
私はガラス製のフラスコを手に取り、その精度の高さに感嘆の声を漏らした。この偽りの楽園の歪んだ豊かさが、皮肉にも私たちの反撃の牙を研ぐための砥石となっているのだ。
「嬢ちゃん。感心してる場合じゃねえだろ」
研究室の入り口で腕を組んだギムレックが不機嫌そうな顔で立っていた。彼の傷はエルフの癒しの魔法のおかげで驚異的な速度で回復していたが、その心に刻まれた同胞への想いは癒えるどころか日ごとにその重さを増しているようだった。
「ああ、すまねえな。あんたらの大事な会議中に山掘りなんぞが口を挟んで」
彼の言葉には根のリーダー、カエルに対するあからさまな皮肉が込められていた。昨夜の作戦会議でカエルがドワーフたちを『教皇に飼われた奴隷』と断じたことが、彼の職人としての、そして種族としての誇りを深く傷つけたのだ。
「……事実を言ったまでだ」
カエルは冷たく言い返す。彼の不信感もまた根深い。彼の仲間たちはこの地下でドワーフの密告によって何度も窮地に陥った経験があるのだろう。
「おやめなさい、お二人とも」
私は二人の間に割って入った。
「私たちの目的は過去の恨みを語り合うことではありませんわ。未来を私たちの手で掴み取ることです。ギムレック殿、あなたにしかできない仕事があります」
「……俺にしかできねえ仕事だと?」
「ええ。あなたに地下のドワーフたちの説得をお願いしたいのです。彼らの技術がなければ私たちの計画――敵の監視システムを無力化する『撹乱装置』の開発は不可能ですから」
私の言葉にギムレックは鼻で笑った。
「……無茶を言うな、お嬢ちゃん。奴らは魂を売った連中だ。教皇から与えられるわずかな安定と引き換えに誇りを捨てた腑抜けどもよ。そんな奴らが今更俺たちの言葉に耳を貸すものか」
「いいえ。私はそうは思いませんわ」
私はきっぱりと首を横に振った。
「ドワーフという種族は私が知る限り、この世界で最も誇り高き『創り手』です。彼らがただの修理工としての奴隷の身分に心の底から満足しているとは到底思えない。彼らの魂の奥底には必ず自由なものづくりへの渇望――職人としての『火』が燻っているはずです。あなたにはその火を再び燃え上がらせていただきたいのです」
そして私はこの数時間、私が心血を注いで描き上げた一枚の羊皮紙を彼に手渡した。
「……これは……?」
「交渉のためのささやかな『手土産』ですわ。言葉だけでは彼らの心は動かせないでしょう。ですがこれならば、あるいは……」
ギムレックはその羊皮紙を広げ、そこに描かれたあまりにも緻密で、そして美しい機械の設計図を見た。それは歯車とゼンマイと無数の小さな部品が寸分の狂いもなく組み合わされた、小さな鳥の形をした自動人形の設計図だった。
「……馬鹿な……。こんな複雑な機構……。ゼンマイの力だけで羽ばたき、さえずるだと……? 神の御業か、こいつは……」
「いいえ、神の御業ではありませんわ。科学と技術の融合です。あなた方の技術があれば必ず実現可能です」
ギムレックはしばらくの間その設計図を食い入るように見つめていたが、やがてその厳つい顔に獰猛な、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「……がっはっは! 面白い! 面白いじゃねえか、お嬢ちゃん! よかろう! その大役、このギムレックが引き受けてやる! 腑抜けちまった同胞どものその腐った根性を、このワシの槌とあんたの科学で叩き直してくれるわ!」
カエルの案内でギムレックが向かったのは根の集落からさらに地下深く。地熱で蒸し風呂のようになった巨大な空洞だった。
そこは至聖所の全てのインフラを支える巨大な地熱発電所だった。血管のように張り巡わされたパイプライン、唸りを上げる巨大なタービン、そしてそれらを死んだような目で黙々と修理しメンテナンスするドワーフたちの姿があった。
彼らはギムレックの姿を認めると一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに侮蔑とそしてわずかな恐怖が入り混じった複雑な表情を浮かべた。
「……ギムレック親方……。なぜあなたがここに。あなたは地上の人間どもに与した裏切り者では……」
彼らを束ねる老いたドワーフ――ボルンと名乗った――が警戒に満ちた声で言った。
「裏切り者だと? ふん。教皇の奴隷に成り下がり、誇りを忘れたてめえらに言われる筋合いはねえな」
ギムレックの挑発にドワーフたちの間に怒りの空気が走る。
「黙れ! 我らは好きでこうしているのではない! 我らには守るべき家族がいる! 教皇に逆らえば我らはこの地熱炉に放り込まれるだけだ!」
「だから飼い犬でいることを選んだか。情けねえ」
交渉は最初から決裂寸前だった。カエルがいつでも飛び出せるように闇の中で息を潜めているのがギムレックには分かった。
(……やはり言葉だけではダメか)
ギムレックはため息をつくと、懐からあの鳥のオートマタの設計図を無造作に広げた。
「……まあいい。てめえらみてえな修理しか能のねえ連中に話があったワシが馬鹿だった。こいつはあの科学者の嬢ちゃんが俺たちのために描いてくれた新しい『おもちゃ』の設計図だ。こんなもん、てめえらには到底理解もできんだろうがな」
そのあからさまな挑発。ボルンは悔しそうに唇を噛み締めながらも、その設計図から目を離すことができなかった。そこに描かれているのは彼がドワーフとして生まれてから一度も見たことのない、神の領域の技術だったからだ。
「……なんだこれは……。この歯車の連動……。ありえん。これでは力が伝達する前に摩耗で全てが焼き付いてしまう……」
「だろうな。てめえらのなまくらな技術じゃあな」
ギムレックはボルンの手から設計図をひったくると、その一部を指し示した。
「だがな、嬢ちゃんの科学はその問題をこうやって解決する。歯車の素材にごく微量の希少鉱物を混ぜ込む。そして潤滑油には特殊な粘菌から抽出した生体オイルを使う。そうすりゃ摩擦係数は限りなくゼロに近づく。……お前らが何百年も解決できなかった『永久機関』への一つの答えだ」
その言葉はボルンにとって雷に打たれたかのような衝撃だった。
科学。自分たちがただのまやかしだと侮っていた人間の知識。それが自分たちの技術の遥か先を行っている。その信じがたい事実を目の前に突きつけられたのだ。
「……俺はあんたたちを説得しに来たんじゃねえ」
ギムレックは集まったドワーフたちを見渡し、静かに、しかし力強く言った。
「問いに来たんだ。お前たちはこのまま教皇の奴隷として、ただの修理工として死んでいくのか。それとももう一度創り手としての誇りを取り戻し、歴史に名を刻むような最高の仕事を俺たちとやってみるのか。……どっちだ?」
重い沈黙が地熱炉の唸りの中に溶けていく。
ボルンは震える手で設計図をもう一度見つめていた。その瞳には諦観と、そして何十年も忘れていた職人としての熱い光がせめぎ合っていた。
その沈黙を破ったのはボルンの後ろにいた、まだ若い一人のドワーフだった。
「……親方。俺は……」
彼は一歩前に進み出た。
「……俺はやってみてえ。こんな錆びたパイプの修理じゃなく、こんな……こんな夢みてえなモンをこの手で作ってみてえです!」
その魂からの叫びが引き金だった。
「俺もだ!」「そうだ、俺たちは修理工じゃねえ!」「やらせてくれ、親方!」
一人、また一人と燻っていた職人たちの魂が再び燃え上がっていく。
ボルンはその光景を呆然と見つめていた。そしてやがて、その厳つい顔をくしゃりと歪ませ深々と頭を下げた。
「……ギムレック親方。……いや、ギムレック殿。……我らの負けだ。……どうか我らにもその『科学』とやらを教えてはいただけんだろうか。我らももう一度ドワーフとして胸を張れるような仕事を……」
その言葉をギムレックは手で制した。
「……顔を上げろ、ボルン。ドワーフがそう簡単に人間に頭を下げるんじゃねえ」
彼はボルンの肩を力強く叩いた。
「仕事なら山ほどある。まずは手始めだ。教皇のあの忌々しい監視の目を一時的に眩ませる『撹乱装置|』とやらをこしらえてもらう。設計図は嬢ちゃんがすでに用意してくれてる。……やれるな?」
「――御意!」
その日、至聖所の地下深くで、新たな、そして最も力強い反逆の槌音が産声を上げた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 イザベラの科学という名の新たな槌を手に、ギムレックは、魂を失いかけていた同胞たちの心を、見事に打ち砕きました。いえ、打ち直した、と言うべきでしょう。燻っていた職人たちの誇りの火は、再び燃え上がりました。 ついに地下の二つの反逆の意志が一つになり、反撃の準備は整いました。
次回「反撃の歯車」。イザベラの科学、ドワーフの技術、そして『根』の地の利。全ての歯車が噛み合い、教皇庁タワーへの反撃計画が、ついに本格的に始動します。
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