地下の抵抗者たち
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
完璧な管理社会『至聖所』の、壁の裏側に隠された暗い通路。そこでイザベラたちは、反逆の意志を示す、謎の紋様と、謎の人物に遭遇しました。
絶望的な状況下で出会った、その影。彼らは、敵か、味方か。イザベラたちの、息詰まる潜入劇は、新たな局面を迎えます。
闇の中から現れた人影。その手には、配管を改造したであろう、鈍い光を放つ鉄の棍棒が握られている。巡礼者のフードを目深に被り、その顔は窺えない。だが、その人物から発せられる空気は、地上を歩く、感情を抜かれた自動人形たちとは、全く異質だった。それは、闇の中で、常に警戒を怠らず、生き抜いてきた者だけが纏う、研ぎ澄まされた、野生の獣の気配だった。
「お前たち……その『麦の穂』に、何の用だ」
その声は、若かったが、疲労と、そして深い不信に満ちていた。
一触即発。ギムレックが、私とハンナを庇うように、その巨体を前に進め、戦闘態勢に入る 。
「……てめえこそ、何者だ。こそこそと、ネズミみてえな真似をしやがって」
「黙れ、山掘り。その汚れた槌音は、こんな闇の中でも響いてくる」
男は、ギムレックの正体を、一目で見抜いていた。彼の言葉には、ドワーフに対する、あからさまな敵意が滲んでいる。
「問答無用!」
ギムレックが、その戦斧を振り上げようとした、その瞬間。
「おやめなさい、ギムレック殿」
私は、彼の腕を、静かに制した。そして、フードの男に向き直る。
「私たちは、この紋様を描いた方々を、探しております。敵意はありませんわ。むしろ、私たちは、あなた方と、同じ目的を持つ者かもしれません」
「……同じ目的、だと?」
男は、嘲るように、鼻で笑った。
「貴族の女と、山掘りのドワーフが、我らと、だと? 戯言を。お前たちのような、この世界を腐らせた元凶どもが」
「ならば、お尋ねしますわ」
私は、彼の言葉を遮り、静かに、しかし、はっきりと問うた。
「あなた方は、本物のパンの味を、ご存知ですのね?」
私の、あまりにも唐突な問いに、男は、一瞬、言葉を失った。フードの奥で、その目が、鋭く私を見据えるのが分かった。
「……なぜ、それを」
「落ちておりましたから。この紋様の、すぐ傍に。そして、そのパンには、ライ麦と、そして、わずかな量の、サワー種が使われておりました。独特の、豊かな酸味と香りを生み出す、乳酸菌と酵母の共生体。……あのような、高度な発酵技術を、偶然知っているとは思えませんわ」
科学者としての、私の分析。それは、この闇の中で、彼らの正体を探る、唯一の光だった。
男は、しばらくの間、私を値踏みするように見つめていたが、やがて、その棍棒を、ゆっくりと下ろした。
「……ついてこい。だが、妙な真似をすれば、この通路の、錆になると思え」
私たちが案内されたのは、メンテナンス通路の、さらに奥深く。巧妙に隠された隔壁の向こうに、その場所はあった。
そこは、地上の『至聖所』とは、正反対の世界だった。
おそらくは、古代に作られた、巨大な地下の貯水槽。その、だだっ広い空間に、廃材や、どこからか盗んできたのであろう資材で建てられた、粗末な、しかし、人々の生活の温もりが感じられる、小さな集落が形成されていた。
空気は、湿っぽく、カビと、土と、そして、様々な食べ物が入り混じった、懐かしい生活の匂いがした。子供たちの、甲高い笑い声が聞こえる。老人たちが、焚き火を囲んで、何かを語り合っている。
そして、何よりも私を驚かせたのは、集落の奥で、青白い光を放つ、巨大なガラス張りの区画だった。
「……水耕栽培……!?」
そこでは、土を使わず、栄養を溶かし込んだ水だけで、野菜が育てられていた。光源は、おそらくは発光する性質を持つ、特殊な苔か、菌類。この、太陽の光が届かない地下で、彼らは、独自の農業を、築き上げていたのだ。
「……すげえ。こんな場所で、畑仕事とはな」
ギムレックが、感嘆の声を漏らす。
私たちの出現に、集落の人々が、警戒に満ちた視線を向ける。その顔には、地上の人形たちのような、感情のない笑みはない。そこにあるのは、恐怖、疑念、そして、わずかな好奇心。本物の、人間の顔だった。
私たちは、集落の中央にある、最も大きなテントへと通された。
そこで、私たちを案内した男は、初めて、そのフードを取った。
現れたのは、年の頃は二十代半ばだろうか。痩せてはいるが、その瞳には、鋼のような、強い意志の光が宿っている。無造作に伸ばした黒髪と、その頬に刻まれた、古い傷跡が、彼の生きてきた過酷な人生を物語っていた。
「俺は、カエルだ。この『根』の、リーダーをやっている」
「根……?」
「ああ。この、偽りの楽園の、その根っこで、いつか、この腐った幹を、内側から食い破ってやろうと、そう思って生きている者たちの、集まりだ」
彼の言葉には、静かだが、燃えるような怒りが込められていた。
「俺たちの親の世代は、まだ、覚えていた。土の匂いを。太陽の温かさを。そして、自分たちの手で、麦を育て、パンを焼く、その喜びを。だが、教皇ヴァレリウスは、その全てを奪った。『沈黙の災厄』の恐怖を盾に、人々から感情と思考を奪い、この、完璧で、そして空っぽな、鳥籠を作り上げたのだ」
「私たちは、その『秩序』から、逃げ出した者たちの子孫だ。この地下で、隠れ、盗み、そして、かろうじて、人間としての記憶を、繋いできた」
彼の視線が、壁に描かれた、あの『麦の穂』の紋様へと向けられた。
「あの紋様は、我らの誓いだ。いつか、必ず、地上へと戻り、我らの手で、再び、麦を育てるのだ、と」
私は、彼の話を聞きながら、一つの確信を抱いていた。彼らこそが、この偽りの楽園を、内側から破壊するための、最高の、そして唯一の、仲間となりうる、と。
「……それで、あんたたちは、何者だ」
カエルが、鋭い視線で、私を射抜く。
「なぜ、あの紋様の意味を知っていた。なぜ、サワー種のことを知っていた。……あんたは、一体、何を知っている?」
「全て、ですわ」
私は、きっぱりと答えた。
「教皇ヴァレリウスの正体も、聖女セラフィナの力の根源も、そして、この世界を蝕む『沈黙の災厄』の、科学的な正体も。……そして、それを、止めるための、方法も」
私の言葉に、カエルの、常に冷静だったその顔に、初めて、動揺の色が浮かんだ。
「……止める、だと……? あの災厄を……?」
「ええ。ですが、そのためには、あなた方の力が、どうしても必要なのです」
「……信じられるか。貴族の女の、戯言を」
カエルは、吐き捨てるように言った。だが、その声には、かすかな、揺らぎがあった。
「ならば、証明させてくださいな」
私は、彼の挑戦を、正面から受け止めた。
「あなた方も、問題を抱えていらっしゃるはずです。この、偽りの太陽の下では、解決できない、深刻な問題を」
私の言葉に、カエルは、ぐっと唇を噛み締めた。彼は、しばらくの間、私と、私の背後に立つ仲間たちを、値踏みするように見つめていたが、やがて、重い口を開いた。
「……いいだろう。ならば、見せてもらおうか。あんたの言う、『科学』とやらが、我らの絶望に、光を灯せるのかどうかを」
カエルが、私たちを案内したのは、あの、青白く光る、水耕栽培の区画だった。
そこには、いくつもの巨大な水槽が並び、様々な種類の野菜が育てられていた。だが、そのほとんどが、元気を失い、葉は黄色く変色し、根は、どす黒く、腐り始めていた。
「……ここが、我らの命綱だ。だが、見ての通りだ。数ヶ月前から、この、灰色のカビのようなものが広がり始め、作物が、次々と根腐れを起こしている。我らの持つ、全ての知識を試した。薬草も、濾過装置の改良も、全てだ。だが、何一つ、効果はなかった」
私は、その水槽の縁に膝をつき、腐りかけた根を、慎重に指で掬い上げた。そして、それを、光にかざす。
(……これは、ただのカビではない。粘菌……? いや、違う。もっと、原始的で、そして、機械的な……)
私の脳裏に、戦慄が走った。
「……カエルさん。この水は、どこから?」
「地上の、浄化槽から、盗んでいる。この街の、全ての生活排水が、一度そこに集められ、完璧に浄化されて、再利用される、と教皇は言っている」
「……その通りですわ。完璧に、ね」
私は、立ち上がると、絶望的な事実を、彼らに告げた。
「このカビは、自然発生したものではありません。これは、あなた方が『浄化された水』だと信じているものの中に、意図的に混入させられた、人工の微生物です。その目的は、ただ一つ。教皇の管理下にない、あらゆる有機物を分解|し、排除|すること。……あなた方の、この最後の楽園を、根絶やしにするために、教皇が放った、静かなる暗殺者ですわ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
偽りの楽園の地下深くに、息を潜めていた『抵抗者』たち。イザベラたちは、絶望的な状況の中で、ついに仲間となりうる存在と出会いました。しかし、彼らの最後の聖域すらも、教皇の放った、静かなる科学の刃に蝕まれていました。
彼らの命綱である水耕農園を救うこと。それが、イザベラが彼らの信頼を勝ち得るための、唯一の試練となります。
次回「科学の証明」。イザベラは、この新たな科学的脅威に対し、いかなる『発酵』の力で立ち向かうのか。彼女の真価が、地下の抵抗者たちの前で、今、問われます。
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