聖アグネス神聖法国
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、最終決戦の火蓋が切られました。空からの奇襲。それは、この世界の誰もが想像し得ない、科学と魔法、そして技術が融合した、究極の一手です。
そして、王都で孤独に戦うレオンハルトと、空を征くイザベラ。二つの戦場が、ついに一つの結末へと向かいます。敵の本拠地、聖アグネス神聖法国。そこで彼らを待ち受けるものとは。
雲海を征く、二機の『隼』。それは、この星の歴史上、誰も見たことのない光景だった。
眼下には、見慣れた大地が、まるで神の視点のように広がっている。だが、その光景は、決して美しいものではなかった。北から侵食を続ける『沈黙の災厄』の領域は、不気味な水晶の森と化し、その境界線では、大地が悲鳴を上げるかのように、オーロラのような死の光が揺らめいている。そして、その汚染は、龍脈に沿って、まるで黒い血管のように、大陸の隅々へと伸びていた。
「……ひでえ景色だ。地上から見るより、よっぽどたちが悪ぃ」
操縦桿を握るギムレックが、苦々しげに吐き捨てた 。彼の隣で、私は頷きながら、手元の羅針盤と、羊皮紙に描いた航路図を、必死に照合していた。
「ええ。ですが、この光景を目に焼き付けるべきですわ。これこそが、私たちが戦う理由。教皇ヴァレリウスが『秩序』と呼ぶ、偽りの平和がもたらす、本当の結末です」
私たちの飛行は、順調ではなかった。エルフの風の魔法は、確かに我々の翼に力を与えてくれている。だが、災厄が放つ、汚染されたマナの嵐が、我々の機体を、まるで木の葉のように揺さぶるのだ。
「ラエロン! 風の盾を、もっと厚く!」
「わかっている! だが、この邪悪なマナは、我らの魔法そのものを喰らおうとする……!」
後部座席で、エルフの部隊長ラエロンが、顔を蒼白にさせながら、必死に風の魔法を紡ぎ続けている。彼の隣では、ハンナが、私の指示通り、機体の傾きや、風の変化を、健気に記録し続けていた。この飛行データは、未来の航空力学にとって、何物にも代えがたい宝となるだろう 。
二日間の、過酷な飛行の末。私たちは、ついに、その国の輪郭を、雲の切れ間に捉えた。
聖アグネス神聖法国。
そこは、異様な土地だった。災厄の汚染が、まるで聖域を避けるかのように、その国の国境線で、ぴたりと止まっているのだ。国境の内側は、まるで定規で線を引いたかのように、豊かな緑が広がっている。
「……結界か。それも、エルフの森のものとは比較にならん、強力な……」
ラエロンが、呻くように言った。
「ええ。おそらくは、『エデン』システムの、応用でしょう。ナノマシンの活動を阻害する、特殊なエネルギーフィールドで、国全体を覆っているのですわ」
教皇ヴァレリウス。彼は、自らが解き放った災厄を、完璧に制御しているのだ。その事実が、彼の科学技術レベルの高さを、そして、その計画の恐ろしさを、改めて私たちに突きつけていた。
「お嬢ちゃん! そろそろ、高度を下げるぞ! 奴らの『目』に捉えられる前に、雲の下に隠れる!」
ギムレックの号令で、二機の『隼』は、音もなく、雲の中へと降下していく。目標は、首都から少し離れた、山間の森。そこを、我々の前線基地とする計画だ。
だが、敵は、我々の想像以上に、狡猾だった。
雲を突き抜けた瞬間、眼下に広がっていたはずの森が、その姿を変えた。木々が、まるで意思を持ったかのように、その枝を、我々の機体へと伸ばしてきたのだ。
「罠だ! 森全体が、迎撃システムになっている!」
「くそっ! この木かじりどもみてえな真似を!」
ギムレックが、必死に操縦桿を操作し、迫り来る枝を避ける。だが、機体はすでにバランスを崩していた。
「ラエロン! 風の衝撃で、着陸地点を!」
「もう、魔力が……!」
機体が、きりもみ状態に陥る。遠のく意識の中で、私は、もう一機の『隼』が、森の別の方向へと流されていくのを、確かに見た。
そして、凄まじい衝撃と共に、私の意識は、闇に飲まれた。
どれほどの時間が、過ぎたのだろうか。
私が、ゆっくりと目を開けると、そこは、森の中だった。『隼』は、大木に激突し、その翼の片方を無残に折られていた。幸い、機体の頑丈な骨格のおかげで、私たちは、奇跡的に、大きな怪我もなく生き延びたようだった。
「……いってて……。お嬢ちゃん、無事か!」
「ええ、なんとか……。ラエロン、ハンナは!?」
「二人とも、気絶しているだけだ。だが、ラエロンは、魔力を使い果たしている。しばらくは、動けんだろう」
最悪の状況だった。機体は破損し、魔法の使い手は沈黙。そして、クラウスたちが乗る、もう一機の『隼』との連絡も、取れない。
「……とにかく、ここを離れるぞ。いつ、追手が来るとも限らん」
ギムレックが、まだ意識の戻らないラエロンを、その屈強な肩に担ぎ上げる。私は、ハンナを背負い、アルフレッドが、命がけで守り抜いた『母株』のケースを抱える 。
私たちは、森の中を、当てもなく彷徨った。
そして、数時間後。私たちは、森の出口で、信じがたい光景を、目の当たりにした。
そこに広がっていたのは、聖アグネス神聖法国の、首都だった。
だが、それは、私が想像していた、いかなる都市とも、違っていた。
街全体が、純白の、継ぎ目のない、美しい石でできている。建物は、全てが完璧な幾何学模様を描き、道路には、塵一つ落ちていない。空には、小型の浮遊物が、静かに、そして規則正しく行き交い、物資を運んでいる。
そして、何よりも異様なのは、そこに住まう人々だった。
彼らは、誰もが、清潔な、同じようなデザインの白い服を身に纏い、その顔には、穏やかな、しかし、感情のない、能面のような笑みを浮かべていた。彼らは、互いに言葉を交わすことなく、決められたルートを、決められた歩幅で、黙々と歩いている。まるで、精巧に作られた、自動人形のようだった。
「……なんだ、ここは……」
ギムレックが、呆然と呟く。
「……墓場だ。生きた人間たちの、墓場だぜ、こいつは……」
彼の言う通りだった。この街には、生命の営みが持つ、雑多で、混沌とした、温かい活気が、一切存在しない。あるのは、完璧に管理された、冷たい、死の静寂だけだった。
これこそが、教皇ヴァレリウスが目指す、究極の『秩序』。彼が、人類を救うと信じる、理想郷の、真の姿だったのだ。
「……まずいわ」
私は、その光景に戦慄しながらも、科学者としての冷静さを、必死に保っていた。
「この街全体が、一つの、巨大な監視システムになっている。見て、あの街灯のような柱。あれは、ただの灯りではないわ。おそらくは、人々の生体情報――心拍数や、脳波の乱れまでもを、常に監視している、センサーよ」
私の言葉に、仲間たちが息を呑む。
「そして、あの空飛ぶ機械。あれは、物流システムであると同時に、異常を感知した場合に、即座に駆けつける、自律型の警備ドローン。……この街では、隠れる場所など、どこにもない」
絶望的な状況。だが、私は、諦めてはいなかった。
「……いいえ。どんなに完璧なシステムにも、必ず、抜け穴は存在する。私たちは、それを見つけ出す。そして、この、偽りの楽園を、内側から、破壊するのですわ」
私は、アルフレッドが用意してくれていた、巡礼者用の、粗末なフード付きのマントを、深く被った。
「皆さん、決して、感情を表に出さないで。恐怖も、怒りも、希望さえも。ただ、無心になるのです。この街の、人形の一人になりきるのですわ」
私たちは、顔を見合わせ、固く頷き合った。
そして、生ける屍たちの、静かな行列に紛れ込み、敵の心臓部――聖アグネス神聖法国の、首都へと、その第一歩を、踏み出した。
私たちの、最後の、そして、最も困難な戦いが、今、始まったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、イザベラたちは、敵の本拠地、聖アグネス神聖法国へと潜入しました。しかし、そこは、想像を絶する、完璧な管理社会。生きた人間たちの、美しい墓場でした。
仲間たちとはぐれ、絶望的な状況下で、彼らは、この偽りの楽園を、どうやって打ち破るのか。
次回「偽りの楽園」。イザベラたちの、息詰まる潜入劇が始まります。
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