混沌の連鎖反応
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、教皇の切り札、『執行官』が覚醒しました。その圧倒的な力の前に、仲間たちの希望は、風前の灯火です。
絶望的な状況下で、イザベラが放った、最後の、そして最も危険な一手。それは、奇跡を起こすのか、それとも、全てを無に帰す、破滅の引き金となるのか。フェーズ2、衝撃のクライマックスです。
世界から、音が消えた。
執行官が放った、純粋なエネルギーの奔流が、私の投げつけた小さなガラス瓶――不安定な状態の硫酸塩還元菌を満たした、最後の切り札――と接触した、その刹那。
爆発は、起きなかった。
代わりに、プラント全体が、太陽の内部で生まれたかのような、目を焼くほどの純白の光に包まれた。音もなく、熱もなく、ただ、全ての色彩を奪い去る、絶対的な光。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
そして、光が収まった時、そこに現れたのは、地獄だった。
「……な……んだ……こりゃあ……」
壁際で瓦礫に埋もれていたギムレックが、呻くような声を上げた 。
執行官の、黒光りしていたはずの装甲が、まるで酸に侵されたかのように、どす黒く、ぬめりを帯びた何かに覆われ始めていた。そして、その表面からは、ぷつり、ぷつりと、不気味な泡が、腐った沼のように湧き上がっている。
私の投げつけた、硫酸塩還元菌。
彼らは、執行官が放った、純粋なエネルギーを『糧』として、本来ならば数百年かかるはずの進化を、たった一瞬で、強制的に遂げてしまったのだ。
そして、その異常進化した微生物たちは、自らの増殖に必要な触媒――鉄分を求め、執行官の、未知の合金でできた装甲そのものを、猛烈な勢いで喰らい始めた。
ジュウウウウウウウウ……!
肉が焼けるような、嫌な音が響き渡る。執行官の装甲が、黒い液体となって、滴り落ちていく。そして、プラント全体に、鼻を突き、呼吸を奪う、強烈な腐卵臭――硫化水素の匂いが、充満し始めた。
「……イザベラ様! これは……!」
クラウスが、盾を構えながら、私の名を叫ぶ 。
「ええ……! 私の、計算を、超えています……!」
私は、目の前の光景に、戦慄していた。
これは、もはや私の知る科学ではない。私の制御を離れた、混沌の連鎖反応。私が、この世界に解き放ってしまった、新たな怪物だった。
執行官は、自らの体が、内側から喰われていくという、想定外の事態に、混乱しているようだった。その巨体が、痙攣するように震え、無数の赤いレンズが、狂ったように明滅を繰り返す。
ギギギ……ガガガガガ……!
機械の断末魔のような、耳障りなノイズが、プラントに響き渡る。
「森の精霊よ! 我らを守りたまえ!」
エララ議長が、残された魔力の全てを振り絞り、植物の蔓を操って、執行官の動きを封じようとする。だが、蔓は、その腐食した装甲に触れた瞬間、同じように黒く変色し、崩れ落ちていく。
「ダメだ! あの黒いドロドロに、魔法が効かねえ!」
「親方! ご無事ですか!」
ドワーフたちが、瓦礫の中からギムレックを助け出す。
その、阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、私は、ただ一点を、見つめていた。
(……砲口……! あのエネルギー反応は……!)
執行官は、最後の力を振り絞り、再び、その中央の砲口に、エネルギーを集中させようとしていた。だが、その内部回路までもが、すでに微生物に侵食されているのだろう。エネルギーは、制御を失い、その砲口の周りで、危険な火花を散らしていた。
(……まずい。このまま、暴発すれば……!)
この地下プラントごと、このテル・アドリエルの都が、吹き飛ぶ。
「全員、伏せてええええええええええええっ!」
私の絶叫が、響き渡った、まさにその時だった。
「お嬢様!」
研究室の方向から、アルフレッドの声がした。彼とハンナが、私の指示通り、最初の希望の種――『星の癒し手』の母株が入った、特別なガラスケースを、必死に抱えて、こちらへ走ってくる 。
「確保しました!」
「よくやったわ、二人とも!」
希望は、まだ、失われていない。
だが、その希望を守るための、時間が、なかった。
執行官の砲口が、臨界点を示す、甲高い警告音を発し始める。
もはや、万事休すか。
私が、奥歯を噛み締めた、その瞬間。
轟然という、世界が砕ける音と共に――。
世界は、再び、光に包まれた。
だが、それは、執行官が放った純白の光ではない。
自らのエネルギーの暴走に耐えきれず、その巨体が、内側から、弾け飛んだのだ。
衝撃波が、プラント全体を揺るがす。天井の岩盤が、巨大な塊となって、落下してくる。
私は、アルフレッドとハンナが抱える、ガラスケースの上に、自らの体を投げ出して、覆いかぶさった。
(……ここまで、なの……?)
薄れゆく意識の中で、私は、自分の科学者としての、無力さを、呪った。
どれほどの時間が、過ぎたのだろうか。
私が、ゆっくりと目を開けると、そこは、静寂に包まれていた。
私の体の上には、巨大な岩盤が、今にも落ちてきそうな形で、静止していた。
いや、違う。その岩盤を、下から支えているものが、あった。
「……親方……?」
ギムレックが、その鋼のような両腕で、落下してきた岩盤を、一人で、支えていたのだ。その口からは、血が流れ、その巨体は、限界を超えて、震えている。
「……へっ……。ドワーフの、石頭を……なめるんじゃ、ねえ……。お嬢ちゃんの、希望の種は……このワシが、命に代えても……」
彼の周囲では、エルフたちが、緑色の光を放つ魔法で、他の場所の崩落を、必死に食い止めていた。クラウスの騎士たちは、盾を構え、私たちを、さらなる落石から守っている。
誰も、諦めてはいなかった。
私は、ゆっくりと体を起こす。幸い、大きな怪我はないようだ。アルフレッドとハンナも、無事だった。そして、彼らが守り抜いた、ガラスケースの中の『母株』もまた、静かな光を放ち続けていた。
私は、立ち上がると、破壊された執行官の残骸へと、歩み寄った。
その、黒焦げになった残骸の中心部。そこに、私は、あるものを発見した。
それは、執行官の動力炉の、一部だった。だが、その構造は、ただのエネルギー発生装置ではない。周囲の岩盤の振動を増幅させ、特定の周波数で共振させる、指向性の、地盤兵器。
私の脳裏に、レオンハルトからの、あの報告が、雷鳴のように蘇った。
『……山が、泣いている、と』
「……そうか……。そうだったのね……」
私は、全てを理解した。
教皇ヴァレリウスと聖女セラフィナ。彼らの、本当の狙い。
執行官の目的は、このプラントを破壊することだけではなかった。それは、陽動。
本当の目的は、この動力炉で、このテル・アドリエルの地下にある、巨大な地質学的な断層を刺激し、大規模な地殻変動を誘発すること。
この森を、心臓の大樹ごと、物理的に、地の底深く、埋葬すること。
彼らは、古代の叡智の存在を、知っていた。そして、それを、何よりも、恐れていたのだ。
私の科学ではなく、この星に残された、最後の希望そのものを、彼らは、根絶やしにしようとしていたのだ。
その、あまりにも恐ろしく、そして、あまりにも冒涜的な計画の全貌を前に、私の胸に宿ったのは、もはや怒りではなかった。
ただ、絶対的な、科学者としての、闘志だった。
「……あなた方の、思い通りには、させませんわ」
私は、静かに、しかし、地の底から響くような声で、呟いた。
「この星の生命が、何億年もかけて紡いできた希望を、あなた方のような、愚かな支配者のために、終わらせてなど、あげませんから」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
混沌の連鎖反応――イザベラの最後の賭けは、執行官を打ち破りましたが、その代償はあまりにも大きなものでした。仲間たちの決死の覚悟によって、かろうじて守られた希望の種。そして、その戦いの果てに暴かれた、教皇たちの真の狙い――古代の叡智そのものを、この星から根絶やしにしようという、恐るべき計画。
物理的な脅威は去りました。しかし、彼らは傷つき、希望の心臓部であったプラントを失いました。ここから、どう立ち上がるのか。
次回「勝利の代償」。フェーズ2は幕を閉じ、物語は最終章へと向かう、その序章が始まります。
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