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顕微鏡なき世界の微生物学

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

第四話では、イザベラの孤独な研究が、村人たちとの間に新たな火種を生みます。

科学の「過程」は、知識なき者たちにどう映るのか。彼女の真価が問われます。

 村長たちに啖呵を切ったものの、私の置かれた状況が厳しいことに変わりはなかった。三週間。それが、私が彼らに「結果」を示すための猶予期間だ。この世界には、当然ながら顕微鏡も、遠心分離機も、クリーンベンチもない。あるのは、古びた教会と、最低限の道具、そして私の頭の中にある前世の知識だけだ。

 だが、それで十分だった。科学の第一歩は、いつだって観察から始まるのだから。


「アルフレッド、村で一番栄養価の高そうな穀物……おそらくは『マナ・ウィート』の屑でもいいわ、少量手に入れてきてくれる? それと、甘みの強い果実か、木の樹液のようなものも。それから、村で使われなくなったボロ布をいくつか」

「承知いたしました。ですがお嬢様、そのようなものを集めて、一体……」

「『培地』を作るのよ。目に見えない小さな働き手たちに、ご馳走を振る舞ってあげるの」

 私の言葉に、アルフレッドはますます眉間の皺を深くしたが、何も言わずに村へと向かってくれた。彼の忠誠心と実行力は、この逆境において何よりの宝だ。


 彼が戻るまでの間、私は教会の祭壇――私の実験台の上で、昨日採取した四つの土壌サンプルを改めて観察する。羊皮紙にそれぞれの特徴を書き留めていく。

 サンプルA:教会周辺の土。乾燥しているが、わずかに腐葉土の匂いがする。有機物はまだ残存しているようだ。

 サンプルB:枯れ木の根元の土。砂のように細かく、完全に無臭。生命活動の痕跡が感じられない。魔法機械(グレイ・ダスト)の密度が最も高いと推測される。

 サンプルC:放棄された畑の土。硬く固結している。雑草の根がわずかに残っており、土壌生物の活動がゼロではないことを示唆している。

 サンプルD:聖女が「浄化」に失敗した土地の土。白く変色し、ガラス質の粒子が混じる。触れると指先が微かに痺れるような感覚がある。これは……残留魔力か、あるいは変質したグレイ・ダストの影響か。非常に興味深い。


 やがて、アルフレッドが戻ってきた。彼が差し出したのは、一袋の質の悪い小麦粉と、数個のしなびた果実、そして薄汚れた麻布だった。

「お嬢様、村長に掛け合いましたが、これが限界でした……。村人たちは、お嬢様が黒魔術に使うのではないかと、酷く警戒しておりまして」

「十分よ、アルフレッド。ありがとう」

 私は彼を労うと、早速準備に取り掛かった。まず、大きな鍋で小麦粉を水に溶いて煮詰め、粥状にする。次に、果実を潰して濾し、糖分の高い液体を作る。これらが、私の手作り「培養液」だ。前世の実験室にあったような、ペプトンや酵母エキスが豊富に含まれた完璧な培地とは比べ物にならないが、微生物を育てるための最低限の栄養はあるはずだ。

 私は煮沸消毒した四つのガラス瓶に、それぞれ熱い培養液を注ぎ、麻布で蓋をして冷ます。簡易的だが、これで外部からの雑菌の混入コンタミネーションをある程度は防げるはずだ。

 そして、それぞれの瓶に、採取した土壌サンプルをほんの少しずつ、清潔な匙で植え付けた。


「さて、ここからが本番よ」

 私は四つの瓶を、日の光が柔らかく差し込む窓辺に並べた。ここからは、時間と、目に見えぬ微生物たちの活動に委ねるしかない。

 最初の数日は、何も変化はなかった。村人たちは遠巻きに教会を眺め、ひそひそと噂話をしている。アルフレッドは、そんな彼らと私の間で、心労を重ねているようだった。


 変化が訪れたのは、五日目の朝だった。

「お、お嬢様! 瓶の中が……!」

 アルフレッドの驚きの声に、私は駆け寄る。

 瓶の中は、それぞれ全く違う様相を呈していた。

 サンプルA(教会周辺)の瓶には、緑や黒のカビが斑点状に生え、酸っぱい匂いがしている。多様な菌が混在している証拠だ。

 サンプルC(放棄された畑)の瓶は、水面に薄い膜が張り、底には澱のようなものが溜まっている。活動は鈍いが、まだ複数の微生物が生き残っているのだろう。

 そして、問題の二つ。

 サンプルD(聖女の失敗地)の瓶は、全く(・・)何の(・・)変化(・・)()ない(・・)。培養液は澄んだままで、まるで時間が止まっているかのようだ。土地のマナだけでなく、微生物叢まで完全に破壊されてしまっているのだ。聖女の魔法の恐ろしさを、この瓶は雄弁に物語っていた。


 最後に、サンプルB(汚染最深部)の瓶。

 私は、その瓶を食い入るように見つめた。

 他の瓶のように、雑多な色のカビは生えていない。代わりに、水面を覆い尽くすように、()()ように(・・・)()()、力強い菌糸がびっしりと広がっていた。そして、瓶からは、まるで雨上がりの森のような、清浄で、わずかに甘い土の香りが漂ってくる。

(これだ……!)

 私は確信した。この白いカビ――おそらくは放線菌の一種――は、他の微生物が生きられないほどの高濃度の魔法機械(グレイ・ダスト)環境に完全に適応し、逆にそれを栄養源(・・・)として(・・・)増殖(・・)する(・・)、まさに私が探し求めていた「救世主」だ。


「アルフレッド、見て。この白いカビよ。これが、この土地を救う鍵になるわ」

「カビ、でございますか……? ですが、カビは物を腐らせるものでは……」

「ええ、普通はね。でも、この子は特別。毒を食べて、薬に変えてくれる、とても優秀な子なのよ」

 私が瓶を愛おしそうに眺めていると、教会の扉が乱暴に開けられた。村長と、数人の屈強な男たちが、鍬や棍棒を手に立っている。

「公爵令嬢様! やはり、あなたは我らを呪う気だったのですな!」

 村長が怒りに顔を歪ませて叫ぶ。

「その瓶から、ここ数日、奇妙な匂いが漂ってきておる! 村の子供が、あれは『死の匂い』だと怯えているのだ! 我々の土地を汚した挙句、今度は呪いで我らを根絶やしにするおつもりか!」

「お待ちください、村長。これは呪いなどでは……」

 アルフレッドの制止も聞かず、男たちが一歩、また一歩と近づいてくる。彼らの目には、長年の絶望が生んだ、理性のない恐怖が宿っていた。

 私は静かに息を吸い、アルフレッドの前に立った。そして、祭壇から、あの黒く枯れ果てた木の枝を一本手に取った。

「お待ちになって、村長。これが『死の匂い』に見えますか?」

 私はそう言うと、サンプルBの瓶の麻布を外し、清潔な匙で、雪のように白い菌糸を少量すくい取った。そして、その菌糸を、黒い枯れ枝の表面に、そっと塗り付けた。

 村人たちが、息を呑む。

 もちろん、すぐに劇的な変化が起こるわけではない。だが、私は懐から、昨日しなびた果実から絞っておいた糖液の小瓶を取り出し、菌糸を塗り付けた箇所に数滴垂らした。

 それは、起爆剤だった。

 栄養を得た白い菌糸が、まるで呼吸を始めたかのように、ゆっくりと、しかし確実に、黒い枯れ枝の表面を覆い、その構造を分解し始めていくのが、誰の目にも見えた。黒く硬かった樹皮が、白い菌糸に覆われた部分から、ぽろり、と腐植土のように崩れ落ちていく。

 それは、破壊ではなかった。死んだものが、新たな命の糧へと変わる、生命(・・)循環(・・)()始まり(・・・)()光景(・・)だった(・・・)


「……な……んだ、これは……」

 村長が、呆然と呟く。男たちが持っていた棍棒が、力なく床に落ちた。

「これが、私の『魔法』ですわ、村長。この土地を蝕む『毒』を喰らい、豊かな土へと変える、小さな命の力。私は、これを育て、増やし、この土地の全てに分け与える。それが、私の言った『治療』です」

 私は、まだ疑いの色を消せないでいる村人たちに向かって、はっきりと宣言した。

「約束まで、あと二週間。あなた方が見たのは、まだほんの始まりに過ぎませんわ」

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ついにイザベラは、反撃の糸口となる微生物を発見しました。そして、村人たちにその力の片鱗を示すことにも成功します。


次回は、今晩更新予定です。

次回「古参の執事と、最初の味方」。科学の力を目の当たりにしたアルフレッドと、村人たちの心に、少しずつ変化が生まれていきます。


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