禁断の地より、滅びの音
実験条件: 追い詰められた者は、何を選ぶか。
遥か西方、聖アグネス神聖法国。
その大聖堂の最奥、ステンドグラスから差し込む光が床に複雑な模様を描く一室で、聖女セラフィナ・リリエンタールは、一人、膝をついていた。
彼女の前には、玉座に座る教皇ヴァレリウス。
その老人の顔は、穏やかな祖父のようであったが、その瞳の奥に宿る光は、星々が生まれては消える様を幾度となく見てきたかのような、底知れない深淵を湛えていた。
「……申し訳、ございません、猊下。わたくしの計画は、失敗いたしました」
セラフィナの声は、震えていた。それは、恐怖からではなかった。
自らの完璧な計画が、あの田舎娘の、泥臭い科学に敗れたという、屈辱と、そして理解を超えた現象への、純粋な怒りからだった。
だが、セラフィナの胸の奥には、怒りの下に、もう一つの感情が燻っていた。
あの酵素の変異パターン。あの培養条件の最適化。セラフィナが一年かけて到達した結論に、イザベラは、わずか数週間で、全く別のルートから辿り着いた。
(……なぜ。なぜあの女は、あれほど自由に、奔放に、仮説を立てられるの? わたくしは、猊下のお導きなしには、一歩も前に進めないというのに)
それは、嫉妬。
科学者としての、純粋な嫉妬だった。
「あの女……イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク……! 彼女の科学は、我らの『赤蝕病』を、完全に無力化しました。王都の民心も、今や、かの魔女へと傾いております」
「……セラフィナよ」
教皇ヴァレリウスは、静かに、しかし、その場の空気を支配するような声で、言った。
「お前は、なぜ敗れたか、わかるか?」
「……わたくしの、科学的知見が、彼女に及ばなかったからにございます」
「違うな」
教皇は、ゆっくりと首を横に振った。
「お前が敗れたのは、お前が、あの娘の土俵の上で、相撲を取ってしまったからだ。再生と治療。それは、あの娘の得意分野。我らが、そこで勝負を挑むこと自体が、すでに戦略的な誤りだったのだよ」
教皇は、そこで一瞬、言葉を切った。ステンドグラスの光が、その深い皺の刻まれた顔に、複雑な色彩を落としている。
「……かつて、私も、仮説の美しさに酔った。実験結果だけが真理だと信じ、寝食を忘れて研究に没頭した時代が——」
彼の唇が、不自然に止まった。
まるで、千二百年もの間、厳重に封じてきた記憶が、不意に漏れ出したことに、自分自身で驚いたかのように。
「……いや。もう関係のない話だ」
セラフィナは、教皇のその一瞬の揺らぎを、見逃さなかった。
(……猊下が、ご自身の過去を語りかけた……? あの方の口から『仮説』や『実験』という言葉が出るなど、初めてだわ)
だが、問い返す暇は与えられなかった。
彼は、玉座からゆっくりと立ち上がると、壁にかけられた、この世界の、巨大な古地図の前へと歩みを進めた。
「良いか、セラフィナ。我らの目的は、あの娘一人を打ち負かすことではない。我らの目的は、この世界の秩序を守ること。愚かな羊たちが、自らの愚かさによって破滅へと向かわぬよう、正しき道へと導くことだ」
彼の指が、地図の上で、ヴェルテンベルク領を、そして王都エーデンガルドを、なぞる。
「あの娘の言う『科学』は、民に『解放』を与える。知識を与え、自ら考える力を与える。だがな、セラフィナ。自由を与えられた人間が、最終的に何を選ぶか、お前も知っているはずだ。……混沌と破滅を、だ」
その言葉は、かつてスラムで、人々が互いに奪い合い、殺し合う地獄を見てきたセラフィナの、心の最も深い傷を抉った。
「我らが為すべきは、彼らに、我らの『支配』こそが、唯一の救いであることを、改めて教えてやることだ。そして、そのためには……」
教皇は、地図の、さらに北。ドワーフの住まう黒鉄山の、さらに奥深く。誰も足を踏み入れたことのない、禁断の地を、その皺深い指で、とん、と叩いた。
「……彼らに、本当の絶望を、見せてやらねばなるまい」
その頃、王都エーデンガルドは、手のひらを返したような、熱狂的なイザベラ賛美に沸いていた。
議場で、あの緑の芽生えという『奇跡』が証明されて以来、旧体制派の貴族たちは沈黙し、代わりに、我先にとレオンハルトと私への忠誠を誓う者たちが
王城に列をなしていた。
「摂政殿下! 我が領地にも、ぜひ、あの『生命の雫』を!」
「イザベラ様の『科学』こそ、この国を救う真の奇跡だ!」
レオンハルトは、執務室で、山のように積まれた陳情書の山を、氷のような表情で捌いていた 。
「クラウス。オルデンブルク公からの書状だ。『聖女セラフィナに騙されていた。改めて、摂政殿下とイザベラ様に忠誠を誓う』、か。……ふん。風見鶏にも程がある」
「はっ。ですが、これで、国内の貴族勢力は、ほぼ完全に我らの下に」
「ああ。だが、腑抜けの集団を束ねたところで、何の力にもならん。重要なのは、イザベラの科学を、本当の意味で理解し、実行できる人材だ。……それより、ヴェルテンベルクの様子は?」
「エリック殿からの報告によりますと、『生命の雫』の量産は順調。汚染された畑の八割が、すでに再生プログラムの第一段階に入ったとのことです。民の士気も、極めて高い、と」
「……そうか」
レオンハルトの口元に、ごくわずかな、安堵の笑みが浮かんだ。
彼にとって、貴族たちの阿諛追従などよりも、ヴェルテンベルクの畑の土の色の方が、よほど重要な情報なのだ。
「だが、腑に落ちん」
彼は、窓の外――西の空を、鋭い目で見据えた。
「聖女セラフィナと、その背後にいる教皇。あれほどの知性を持つ者たちが、このまま、黙って敗北を認めるとは、到底思えん。……必ず、次の一手を打ってくるはずだ」
彼の戦略家としての直感が、嵐の前の、不気味な静けさを感じ取っていた。
ヴェルテンベルク領は、本当の意味での『再生』の季節を迎えていた。
『生命の雫』によって赤蝕病の呪縛から解き放たれた大地に、エリックと村人たちが、再び『豊穣の女神』を走らせていく 。
その光景は、もはや実験ではない。自分たちの手で、自分たちの未来を耕す、力強い営みそのものだった。
私の研究室では、ハンナが、顕微鏡の使い方を、熱心に学んでいた 。
「おねえちゃん! 見えた! 見えたよ! 『生命の雫』を垂らしたら、赤くて悪い子が、みんな動かなくなっちゃった!」
「ええ、そうよ、ハンナ。私たちの薬が、ちゃんと効いている証拠ね。さあ、その様子を、しっかりとスケッチしてごらんなさい。それが、未来の誰かを救う、大切な記録になるのだから」
私は、彼女の隣で、新たな研究テーマに取り組んでいた。『赤蝕病』を克服した今、次に為すべきは、この土地の農業を、より持続可能で、強固なものにすること。
すなわち、『輪作』計画の本格的な導入だ 。
(マメ科の植物で、土壌の窒素を固定し、次に根菜類を植えて、土を深く耕す。そして、最後に、栄養を最も必要とする葉物野菜を……。)
(このサイクルを確立できれば、土地の力は、半永久的に失われないはず)
私が、羊皮紙の上で、未来の畑の設計図を描いていた、その時。
コン、コン、と、扉を叩く音。アルフレッドが、銀の盆を手に入ってきた。
「お嬢様。摂政殿下から、お届け物です」
盆の上には、小さな木箱。開けると、中には茶葉が入っていた。見覚えのない、深い琥珀色の葉。
添えられた短い手紙には、レオンハルトの几帳面な筆跡で、こう書かれていた。
『オルデンブルクの商人が持ち込んだ、東方の島国の茶葉。お前が前世で好んでいた「紅茶」とは違うかもしれんが、試してみろ。――L』
(……前世で、好んでいた?)
私は、思わず手紙を二度読み返した。いつ、そんな話をしただろう。覚えがない。
「アルフレッド。私、レオンハルト様に、紅茶の話をしたことがあって?」
「さあ。ただ、お嬢様は時折、実験がうまくいった夜に、独り言で『紅茶が飲みたい』と仰っておりましたが」
視線が交差した。
「……寝言まで、聞かれていたの」
顔が熱くなる。科学者として、まったく不覚だった。
けれど、木箱の茶葉を指先でそっと摘まんで香りを嗅ぐと、確かに、前世の記憶の奥底にある、懐かしい芳香がした。
(……まったく。余計なことばかり、よく気がつく方だこと)
手紙を設計図の下に滑り込ませて、私は仕事に戻った。
――その夜、その茶葉で淹れた一杯が、前世を含めても最も美味しいお茶だったことは、科学者の名誉にかけて、誰にも言わない。
翌日。私が、輪作計画の新しい図面を広げていた、その時。
研究室の扉が、これまで聞いたこともないような、凄まじい勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、レオンハルトの部下である、シュヴァルツェンベルクの騎士だった。だが、その姿は、いつも冷静沈着な彼らとは、似ても似つかないものだった。
鎧は泥にまみれ、その顔は、恐怖と、そして信じがたいものを見たという、深い混乱に彩られていた。
「……イザベラ様っ……! 摂政殿下からです! 至急、王都へ……!」
彼は、ぜいぜいと荒い息をつきながら、震える手で、一枚の羊皮紙を私に差し出した。それは、通常の伝令が使うものではない。
国家の非常事態を告げる、最高機密の親書だった。
そこに、レオンハルトの、乱れた筆跡で、こう記されていた。
『黒鉄山の北、監視塔より入電。原因不明の地殻変動発生。……山が、泣いている、と』
レオンハルトの乱れた筆跡を指でなぞる。この人は、いつもこうだ。最も危険な時に、最も簡潔な言葉で、最も重い事実を伝えてくる。
――あなたの判断データがなければ、私は正しい仮説を立てられないのに。
……そんな感傷は、今は不要だ。
「……山が、泣いている……?」
その、あまりにも詩的な、しかし、それ故に不気味な一文を読んだ瞬間、私の背筋を、氷のように冷たいものが、走り抜けた。
私の脳裏に、一つの、最悪の仮説が、閃光のように煌めいた。
古代文明の遺跡のログデータで、断片的に見つけた、あの言葉。
自己増殖型ナノマシンによる、有機物の、不可逆的な、結晶化現象。
聖女リリアナが、暴走の果てに、偶然引き起こしてしまった、あの『水晶の砂漠』の、本当の正体 。
――『沈黙の災厄』。
「……まさか……」
私の唇から、かすれた声が漏れた。
「……彼らは、自分たちで制御できないはずの、あの禁断のパンドラの箱を……こじ開けるつもりなの……?」
聖女セラフィナと、教皇ヴァレリウス。
彼らは、敗北を認めたのではない。
ただ、戦いのステージを、次元の違う、あまりにも恐ろしい場所へと、引きずり上げただけだったのだ。
教皇は、パンドラの箱に手をかけた。
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