王都のプロパガンダ
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イザベラたちがヴェルテンベルクで、見えざる敵との科学戦に身を投じている頃、王都では、もう一つの、より狡猾な戦いが始まっていました。
聖女セラフィナが仕掛ける、人心を操る情報戦。その毒牙が、イザベラの築き上げた希望を、内側から蝕んでいきます。
ヴェルテンベルクで、我らが科学の粋を集めた『生物反応槽』が、希望の雫を生み出し始めた、まさにその頃。
王都エーデンガルドは、聖女セラフィナが放った、もう一つの、より悪質な毒に侵され始めていた。
王都の中央広場。かつて聖女リリアナが、自滅への引き金となった『創世の光』を放った、あの因縁の場所に、再び、人々の黒山ができていた 。だが、その空気は、以前の熱狂とは全く違う。飢えと、経済の混乱、そして未来への漠然とした不安が生み出した、冷たく、そして何かにすがりつきたいという、脆い熱狂だった。
その民衆の前に立つのは、純白の衣を纏い、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた、新たな聖女、セラフィナ・リリエンタール。その声は、清らかで、しかし、聞く者の心の隙間に染み入るような、不思議な力を持っていた。
「哀れなる、王都の民よ。あなた方の苦しみ、このセラフィナの胸にも、痛いほど伝わってきます」
彼女の言葉に、集まった人々は、静かに耳を傾ける。
「なぜ、この豊かな国が、かくも苦しまなければならないのか。なぜ、神の祝福を受けしこの大地が、飢えに喘がねばならないのか。……その答えは、東にあります」
彼女の白い指が、ゆっくりと、ヴェルテンベルクの方角を指し示した。
「東の地にて、神の理を捻じ曲げ、生命を弄ぶ、異端の魔女が現れました。彼女は、自らの小賢しい知識を『科学』と称し、大地の生命を無理やり搾り取ることで、見せかけの豊穣を生み出しているのです」
民衆の間に、ざわめきが広がる。ヴェルテンベルクの噂は、王都にも届いていた。追放された悪女が、何か得体の知れない力で、死んだ土地を甦らせている、と。
「ですが、神は、全てを見ておられます。その傲慢さ、その冒涜を、お許しにはなりませんでした。我が神は、その怒りをもって、彼女の穢れた畑に、神罰として赤き涙を流されたのです!」
セラフィナの声が、広場に響き渡る。
「見なさい! これが、神に背きし者の末路です! 彼女の『呪われた科学』に触れた作物は、全て赤黒く腐り落ち、大地は再び死へと還っていく! このままでは、その呪いは、いずれこの王都にも及ぶでしょう!」
彼女の言葉は、巧みだった。ヴェルテンベルクで発生した『赤蝕病』の情報を、いち早く掴み、それを自らの『神罰』であると、宣言したのだ。恐怖は、最も伝染しやすい感情だ。飢えと不安に苛まれた民衆の心に、彼女の言葉は、乾いた薪に投げ込まれた松明のように、一瞬で燃え移った。
「なんと……」
「ヴェルテンベルクの豊作は、呪いの力だったのか……」
「あの悪女め、我らまで呪い殺す気か!」
民衆のざわめきは、やがて、私、イザベラに対する、明確な恐怖と憎悪へと変わっていく。
その情報戦を、さらに加速させたのが、旧体制派の貴族たちだった。
彼らは、イザベラの『麦の手形』によって経済的実権を奪われ、雌伏の時を過ごしていた。だが、このセラフィナの扇動は、彼らにとって、千載一遇の反撃の好機だった。
「聞いたか! ヴェルテンベルクの畑が、呪いで全滅したそうだ!」
「やはり、あの女は本物の魔女だったのだ! 辺境伯も、その妖術に惑わされているに違いない!」
「このままでは、王都も危ない! 我らを守ってくださるのは、聖女セラフィナ様しかおられぬ!」
彼らは、自らが抱える私兵や使用人たちを使い、王都の酒場や市場で、組織的に噂を流布し始めた。恐怖を煽り、不安を増幅させ、民衆の敵意を、全て私一人へと向ける。それは、あまりにも古典的で、しかし、あまりにも効果的な、人心掌握術だった。
数日前まで、ヴェルテンベルクの改革を、かすかな希望として語っていた者たちも、今や口をつぐみ、恐怖に満ちた目で、東の空を眺めるようになっていた。
「……クソがっ!」
王城の執務室で、レオンハルトが、机に叩きつけた拳が、重々しい音を立てた 。彼の前には、王国治安維持局長官クラウスが、苦渋に満ちた表情で立っている 。
「報告は以上です、摂政殿下。聖女セラフィナの扇動と、旧体制派の流言飛語により、王都の民心は、完全にイザベラ様へと敵対しております。もはや、我らが何を言おうと、聞く耳を持ちませぬ」
「……あの女狐め。戦場で剣を交えるよりも、よほど厄介な戦を仕掛けてきおったわ」
レオンハルトは、歯噛みする 。彼は、イザベラの『盾』として、王都の政治的圧力を全て引き受ける覚悟だった。だが、セラフィナの攻撃は、貴族社会という盤上のゲームではない。民衆という、形のない、そして最も制御の難しい感情そのものを、武器としてきたのだ。
「イザベラは……ヴェルテンベルクの様子はどうなのだ」
「はっ。エリック殿からの定期報告によりますと、生物反応槽は順調に稼働を開始。対抗血清『生命の雫』の量産化も、間もなく軌道に乗るとのこと。ですが……」
クラウスは、言葉を続けるのを、一瞬ためらった。
「……ですが、王都でのこの状況は、まだイザベラ様には……」
「……伝えるな」
レオンハルトは、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで命じた 。
「今の彼女には、一分一秒でも長く、研究に集中させねばならん。この、くだらん風評という名の毒矢は、俺が全て、この身で受け止める。……クラウス、お前は治安維持局の全権を使い、これ以上、噂が王都の外に広がらぬよう、情報の統制を徹底しろ。物理的に、だ」
「……御意」
クラウスの目にも、静かな怒りの炎が宿っていた。彼もまた、イザベラの科学を信じる、最初の兵士の一人なのだ。
クラウスが退室し、一人になった執務室で、レオンハルトは、窓の外――東の空を、じっと見つめていた。
(……聞こえるか、イザベラ。お前の戦場は、そこだけではない。この王都もまた、お前の科学の正しさを証明するための、もう一つの戦場なのだ。……だから、必ず、勝て。お前のやり方で、世界の理を、奴らに示してやれ)
彼の祈りにも似た呟きは、しかし、ヴェルテンベルクに届くことはない。
その頃、私は、完成したばかりの『生命の雫』の、最初のロットを手に、その純度と効能を、最終チェックしていた。
「……素晴らしいわ。計算通りの純度。これなら、畑に散布すれば、三日も経たずに、赤蝕病菌の活動を完全に抑制できるはず」
私の隣で、ハンナが、きらきらとした瞳で、琥珀色の液体を見つめている。
「おねえちゃん、すごい! これで、みんなの畑、元気になるんだね!」
「ええ、そうよ、ハンナ。私たちの科学の、勝利よ」
私が、彼女の頭を優しく撫でた、その時だった。
研究室の扉が、勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、王都から、馬を乗り潰す勢いで駆けつけてきたであろう、クラウスの部下の一人だった。その顔は、土埃と、そして深い焦りにまみれていた。
「イザベラ様! 摂政殿下からです! 王都で……王都で、大変なことが……!」
彼が差し出した、震える手の中の羊皮紙。そこに綴られていたのは、聖女セラフィナが描いた、悪意に満ちた、もう一つの戦いの、詳細な報告書だった。
読み進めるうちに、私の顔から、血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
「……なんですって……。私が……呪いの魔女……?」
科学者としての私が、冷徹に状況を分析しようとする。だが、その前に、一人の人間としての、純粋な怒りと、そして、ほんのわずかな哀しみが、胸を締め付けた。
私は、民を救うために戦っている。なのに、その民が、私を呪っている。
その、あまりにも残酷な現実が、重く、私の肩にのしかかってきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
イザベラが科学的な勝利を掴み取ろうとする、まさにその裏で、王都では彼女を社会的に抹殺するための、巧妙な情報戦が繰り広げられていました。
物理的な脅威と、見えざる悪意。二つの戦場で、イザベラは同時に戦うことを強いられます。
明日7時10分に更新予定です。
次回「二つの戦場」。追い詰められた彼女が下す、次なる一手とは。
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