反撃の狼煙
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
聖女セラフィナの放った、あまりにも狡猾で科学的な攻撃。希望の象徴だった畑は、今や絶望の戦場へと変わりました。
しかし、イザベラは決して屈しません。自らの科学が生み出した影と、正面から向き合うことを決意した彼女の、孤独で、しかし仲間たちに支えられた、反撃が始まります。
私の研究室と化した教会は、今や野戦病院の様相を呈していた。祭壇の上には、病に侵された麦の穂や土壌サンプルが並べられ、壁際の黒板――ギムレックに作らせた特製の石盤――には、私が走り書きした化学式や観察記録が、びっしりと書き連ねられている。
空気は、焦燥と、そして知的な興奮が入り混じった、異様な熱気に満ちていた。
「アルフレッド、A-2培地の経過は?」
「はっ。コロニーの増殖速度、予測値を3%上回っております。やはり、糖分よりも特定のアミノ酸を優先的に代謝している模様です」
「そう。なら、次の培地はタンパク源の比率を上げて。ハンナ、顕微鏡のピントを、菌糸の先端に合わせてくれる? 細胞分裂の様子をスケッチしたいの」
「はい、おねえちゃん!」
私の指示に、アルフレッドとハンナが、一糸乱れぬ動きで応じる 。彼らはもはや、単なる執事と村娘ではない。私の科学を支える、信頼できる研究助手だ。
聖女セラフィナが放った生物兵器――私が『赤蝕病』と名付けたこの未知の菌は、悪魔的なまでに精密だった。私の品種改良した作物が持つ、特定のアミノ酸配列にのみ強く反応し、それを標的にして増殖する。まさに、遺伝子レベルの暗殺者。
だが、完璧な生物など存在しない。どんなに優れた暗殺者にも、必ず弱点|はある。それを見つけ出すのが、私の仕事だ。
「イザベラ総帥! 頼まれていた『滅菌器』の試作品、第一号が上がったぜ!」
研究室の扉を蹴破るように開けて入ってきたのは、顔を煤で真っ黒にしたギムレックだった 。彼の背後では、屈強なドワーフたちが、湯気を上げる巨大な鉄の釜を運び込んでいる。
「素晴らしいわ、ギムレック院長! これで、実験器具の滅菌効率が飛躍的に上がる!」
それは、ドワーフの誇る密閉鍛造技術を応用し、内部の気圧を上げて水の沸点を百度以上に高める、高圧蒸気滅菌器。前世では当たり前の実験器具だが、この世界では、ドワーフの神業的な技術があって初めて実現可能な、魔法の釜だ。
「がっはっは! お安い御用よ。で、首尾はどうなんだ? その、赤くて気色の悪ぃカビは、退治できそうなのか?」
「ええ、いくつか面白いことが分かってきましたわ。この菌、驚くべきことに、鉄分を極端に嫌う性質|があるの」
私は、鉄釘を打ち込んだ培地で、菌の増殖が著しく抑制されているシャーレを彼に見せた。
「おそらく、セラフィナは、私が魔法機械を分解するために使った放線菌の遺伝子を、改変してこれを作った 。あの放線菌は、鉄分を触媒として活性化する性質があった。セラフィナは、その性質を逆転させ、鉄イオンに触れると自己崩壊するような、いわば『アレルギー』を、この菌に組み込んだのでしょう。……自分の科学的知識を、これほど悪意に満ちた形で使うなんて」
私は唇を噛み締める。彼女の知性は本物だ。だからこそ、許せなかった。
その頃、ヴェルテンベルクの畑は、地獄の様相を呈していた。
「……燃やせ」
エリックは、苦渋に満ちた声で、部下となった村人たちと騎士たちに命じた 。
目の前には、数週間前まで、自分たちの希望そのものだった、緑の麦畑が広がっている。だが、その穂は、赤黒い病斑に蝕まれ、もはや生命の色を失っていた。
騎士たちが、松明を手に、畑の四隅に立つ。
「……待ってくれ!」
村人の一人が、悲痛な声を上げた。
「エリックさん! 本当に燃やしちまうのか!? これは、俺たちが、血反吐を吐く思いで育てた……!」
「分かってる! 俺だって、悔しいさ!」
エリックは、自らの拳が白くなるほど、強く握りしめた。
「だがな、これは、イザベラ様の命令だ。この病は、風に乗って、まだ無事な畑にまで広がる。この畑を見殺しにしなければ、ヴェルテンベルクの全ての作物が、全滅するんだ。……俺は、あの人を信じる。あの人は、俺たちに、一度だって嘘をついたか? あの温かい堆肥も、黒い土も、緑の芽も、全部、あの人が約束通りに示してくれたじゃねえか!」
彼の魂の叫びに、村人たちは、押し黙るしかなかった。
「……火を、放て」
エリックの言葉を合図に、松明が投げ込まれる。乾いた麦は、一瞬で炎に包まれ、黒い煙となって天に昇っていく。自分たちの希望が灰になっていく光景を、村人たちは、ただ、涙を流しながら見つめていた。
その中で、ハンナだけは、涙を堪え、じっと、まだ燃えていない区画の麦を観察していた。そして、一本の麦の、その葉の裏に、針で刺したような、ごく小さな赤黒い斑点を見つけると、すぐに父の元へ駆け寄った。
「お父さん! この子も、病気にかかってる!」
彼女の小さな指が示したのは、大人たちの目では到底見つけられない、感染の初期症状だった。彼女の純粋な観察眼は、今や、この防疫作戦において、不可欠な力となっていた。
王城の執務室では、レオンハルトが、一枚の羊皮紙を前に、氷のような表情で座っていた 。
「……隣国のオルデンブルク公が、神聖法国との不可侵条約に署名した、と」
「はっ。聖女セラフィナが彼の領地で『豊穣の儀式』を成功させた直後のことです。オルデンブルク公は、もはやヴェルテンベルクの『呪われた科学』よりも、聖女様の『祝福された奇跡』を信じると、公言している模様」
クラウスの報告に、レオンハルトは静かに目を閉じた 。セラフィナの攻撃は、軍事的なものだけではない。人心を巧みに操り、イザベラの築き上げた同盟を、内側から切り崩しにかかっているのだ。
「イザベラには、伝えるな」
「しかし、摂政殿下……」
「今の彼女には、研究に集中させねばならん。政治という名の『雑音』は、俺が全て、この盾で防ぐ。それが、俺の役目だ」
彼は立ち上がると、窓の外――ヴェルテンベルクの方角を、まっすぐに見据えた。
「……必ず、やり遂げろよ、イザベラ。お前の戦いは、もはや、お前一人のものではないのだからな」
そして、運命の日が訪れた。
不眠不休の研究開始から、五日が過ぎた夜。私は、ついに、反撃の糸口を掴んだ。
「……これだわ」
顕微鏡を覗き込む私の声は、興奮に震えていた。
ヒントは、エリックたちが焼き払った畑の、その灰の中にあった。ほとんどの植物が死に絶えた、あの地獄のような場所で、たった一つ、青々と生き残っていた雑草があったのだ。私は、それを『蛇の舌』と名付けた。
その雑草の根から抽出した成分を、赤蝕病菌の培地に垂らすと、菌の増殖が、ぴたりと止まったのだ。
『蛇の舌』が持つ、特定のアルカロイド。それが、赤蝕病菌の細胞膜を構成する、特殊なタンパク質と結合し、その活動を阻害する、天然の拮抗物質だったのだ。
「アルフレッド! ギムレックを呼んできて! 大至急、この成分だけを効率的に抽出するための、『連続式蒸留器』の設計図を描くわ!」
「承知いたしました!」
それから、さらに三日。
私の研究室に、仲間たちが全員、集まっていた。レオンハルトも、王都から駆けつけてくれた。
彼らの前には、一つの、小さな植木鉢が置かれている。中には、赤黒い病斑に蝕まれ、今にも枯れ果てそうな、一本の麦の苗。
私は、ドワーフの技術の粋を集めて完成した蒸留器で抽出した、琥珀色の液体――私が『生命の雫』と名付けた、対赤蝕病菌血清――を、ガラスのスポイトで一滴、その麦の根元に、そっと垂らした。
誰もが、息を殺して、その様子を見守っている。
一分、二分……。時間は、永遠のように長く感じられた。
そして、奇跡は、起きた。
麦の葉の先で、じわりと広がろうとしていた赤黒い病斑が、その進行を、ぴたりと、止めたのだ。
それは、あまりにも地味で、あまりにも静かな変化だった。だが、そこにいた誰もが、それが何を意味するのかを、理解していた。
「……止まった……」
ハンナの、かすれた声が、静寂を破った。
苗は、まだ弱々しい。だが、死んではいない。生きている。
私は、集まった仲間たちの顔を、一人一人、見渡した。涙を堪えるエリック。安堵に胸を撫で下ろすアルフレッド。誇らしげに髭を揺らすギムレック。厳粛な表情のクラウス。そして、私に、絶対的な信頼の眼差しを向ける、レオンハルト。
私は、高らかに、宣言した。
「これが、私たちの、反撃の狼煙ですわ。……さあ、皆さん。ここから、私たちの科学の、本当の戦いが始まります」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ついに、イザベラは反撃の糸口を掴みました。それは、絶望の灰の中から見つけ出した、小さな、しかし力強い希望の光です。
仲間たちの絆に支えられ、彼女の科学は、聖女の悪意に満ちた科学に、今、立ち向かおうとしています。
次回「反撃の第一歩」。完成した血清を手に、イザベラたちは、汚染された大地を救うための、壮大な作戦を開始します。
明日7時10分に更新予定です。
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