王都の激震、そして聖女の焦り
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イザベラの反撃とレオンハルトの婚約宣言は、ついに王都を激震させます。
追い詰められた王太子と聖女。彼らが選ぶ、破滅への次なる一手とは……。
王都エーデンガルドは、燃え上がっていた。比喩ではない。食料価格の高騰に耐えかねた民衆が、ついに王宮御用達の穀物倉庫に火を放ったのだ。黒い煙が王都の空を覆い、まるで王家の未来を暗示しているかのように、不吉な影を落としていた。
玉座の間は、そんな下界の混乱など嘘のように静まり返っていたが、その空気は鉛のように重かった。王太子アランは、玉座の肘掛けを指先で苛立たしげに叩きながら、眼下の家臣たちを睨みつけている。
「……それで? あの毒の畑は、どうなったのだ」
アランの問いに、魔術師長が震えながら進み出た。
「は……それが、いかなる浄化魔法をもってしても、効果がなく……。むしろ、我らの魔力が、あの土に吸い取られていくかのような……。もはや、あの土地は、数百年は草木一本生えぬ、完全な死の大地と化しました」
「使えぬ奴らめ!」
アランが、足元の絨毯を強く踏みつける。イザベラから盗んだはずの奇跡は、最悪の呪いとなって返ってきた。王家の威信は地に落ち、貴族たちの間にも、アランの指導力を疑問視する声が公然と上がり始めていた。
そんな、最悪の状況に、最後の一撃が加えられた。
シュヴァルツェンベルク辺境伯領からの伝令が、玉座の間に響き渡るような声で、主君の言葉を告げたのだ。
「――よって、我、レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンベルクは、本日ただ今をもって、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク公爵令嬢を、我が正式な婚約者として、我が命に代えても、これを守り抜くことを、ここに宣言する!」
しん、と玉座の間が静まり返った。
次の瞬間、アランの顔が、怒りで真っ赤に染め上がった。
「……なんだと……? あの、レオンハルトが……私が捨てた女を……!」
ガシャン! と、彼の手元にあった金の杯が、大理石の床に叩きつけられる。
「ふざけるな! あの女は、私のものだったのだぞ! それを、あの辺境の田舎貴族が……! これは、王家に対する、明らかな反逆行為だ! すぐに兵を挙げよ! シュヴァルツェンベルクを、ヴェルテンベルクごと、踏み潰してくれるわ!」
アランの狂乱した叫び。だが、その言葉に、即座に同調する家臣は、もはやいなかった。彼らの顔に浮かんでいるのは、恐怖と、そして侮蔑の色だった。
宰相が、意を決したように進み出た。
「殿下、お言葉ですが、今、辺境伯様と事を構えるのは、あまりにも無謀にございます。我が国の軍は、食糧不足により士気が著しく低下。一方、辺境伯様の軍は、王国最強の精鋭。勝ち目は……ありませぬ」
「黙れ、臆病者め! 私に意見するな!」
「ですが、殿下!」
家臣たちの制止も、もはや彼の耳には届いていない。プライドをズタズタに引き裂かれた彼は、ただ怒りに身を任せるだけの、子供と化していた。
その日の夜。聖女リリアナは、自室で一人、震えていた。
彼女の耳には、昼間のアランの狂態と、家臣たちの冷ややかな反応が、まだこびりついて離れない。
(……ダメ。このままでは、ダメ……!)
彼女の力の源泉は、聖女としての神秘性と、それを信じる人々の信仰心。そして、その最大の庇護者である、王太子の権威。その全てが、今、砂上の楼閣のように崩れ去ろうとしていた。
イザベラから盗んだ菌は、最悪の結果をもたらした。聖女である自分の魔法でも、その毒の土地を浄化することはできなかった。それどころか、魔法を使おうとするたびに、自分の体から、何かがごっそりと抜け落ちていくような、恐ろしい感覚に襲われる。
(私の力が……弱くなっている……?)
鏡に映る自分の顔を見る。まだ、美しさは保たれている。だが、その肌の奥に、わずかな、しかし確実な「翳り」が見えるような気がした。気象コントロール衛星「エデン」との接続は、彼女の生命力そのものである「魔力変換遺伝子」を、確実に蝕んでいたのだ。
脳裏に、貧民街で飢えていた頃の記憶が蘇る。冷たい石畳の感触。腐ったパンの味。そして、自分を見る、人々の無関心な目。
(嫌だ……! あんなところに、もう二度と戻りたくない……!)
彼女の行動原理は、いつだって、その恐怖から来ていた。聖女として、人々の賞賛の中心にいること。アランの腕の中で、誰よりも愛されること。それだけが、彼女を過去の悪夢から守ってくれる、唯一の鎧だった。
その鎧が、今、剥がれ落ちようとしている。イザベラという、ただ一人の女によって。
(あの女……! 私から、全てを奪う気だわ……!)
嫉妬と、憎悪と、そして何より、恐怖。それらが、彼女の中で、どす黒い渦を巻いていた。
このままでは、アランは自滅する。そして、彼が失脚すれば、自分も共に泥沼へと引きずり込まれる。
(何か……何か、手を打たなければ……! あの女の『科学』とやらを、完全に凌駕する、本物の『奇跡』を……!)
彼女の脳裏に、一つの、禁断の考えが浮かんだ。
衛星「エデン」のシステムには、通常の豊穣の魔法とは別に、もう一つの機能が存在することを、彼女は知っていた。それは、システムの全エネルギーを、たった一点に、一度だけ、解放するという、究極のプログラム。古代文明が、最後の切り札として遺した、『創世の光』と呼ばれる、荒れ果てた大地を強制的に初期化し、新たな生命の土壌へと生まれ変わらせる、神の御業。
だが、それには、あまりにも大きな代償が必要だった。術者の生命力――「魔力変換遺伝子」の、ほぼ全てを、触媒として捧げなければならないのだ。成功すれば、王国は救われる。だが、彼女は、その美貌と、力のほとんどを失うことになるだろう。そして、もし失敗すれば……。
(……でも、これしかない。これしか、私が生き残る道は……!)
彼女は、震える手で、自室に隠していた、古代文明の遺物――「エデン」の簡易操作盤を手に取った。
その夜、リリアナは、アランの寝室を訪れた。
「……リリアナか。どうしたのだ、こんな夜更けに」
酒を煽り、荒れていたアランは、彼女の姿を認めると、少しだけその表情を和らげた。
「アラン様……。お悩みのご様子、お察しいたします」
リリアナは、彼の足元に跪くと、潤んだ瞳で彼を見上げた。その姿は、庇護欲をそそる、完璧な聖女そのものだった。
「イザベラ様と辺境伯様の婚約……。そして、王都の混乱。全て、わたくしの力が至らぬばかりに……」
「そなたのせいではない! 全て、あの裏切り者のイザベラと、増長したレオンハルトが悪いのだ!」
「ですが、このままでは、アラン様の御威光が……。民の、アラン様への信頼が、失われてしまいます」
リリアナの言葉は、アランの最も痛いところを的確に突いた。
「……わたくしに、最後のお許しをくださいませ」
「最後……?」
「はい。わたくしには、この身の全てを捧げることで、一度だけ行使できる、究極の聖魔法がございます。それは、王都周辺の全ての痩せた土地を、一夜にして、黄金の穀倉地帯へと変える、まさに神の奇跡。これさえ成功すれば、食糧問題は解決し、民はアラン様の偉大さを改めて知り、ひれ伏すことでしょう」
リリアナの言葉に、アランの目が、ギラリと輝いた。
「……本当か? そのような奇跡が、本当に……」
「はい。ですが、それには、わたくしの命にも関わる、大きな代償が……」
「構わん!」
アランは、彼女の言葉を遮った。
「そなたの忠義、しかと受け取った! それこそが、真の聖女の姿だ! やれ、リリアナ! そなたの奇跡で、あのイザベラの小賢しい『科学』など、取るに足らぬものであると、世界に知らしめてやれ!」
彼は、リリアナを抱きしめ、その耳元で囁いた。
「案ずるな。たとえ、そなたがその力の代償に美貌を失おうとも、私のそなたへの愛は、決して変わらぬ。そなたこそが、私の、唯一の女神なのだから」
その言葉が、嘘偽りのない、彼の本心であると、リリアナは信じた。信じるしかなかった。
彼女は、アランの胸の中で、静かに、しかし、蛇のように狡猾な笑みを浮かべた。
(……見てなさい、イザベラ。あなたの科学が、どれほど地道なものか。私の奇跡の前では、全てが無に帰すのよ)
彼女は、自分の未来も、この国の未来も、全てを賭けた、最後の、そして最大の博打を打つことを、決意したのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
追い詰められた聖女リリアナが、ついに禁断の切り札に手をかけました。彼女の起こす「奇跡」は、王国に何をもたらすのか。そして、その代償とは……。物語は、破滅へのカウントダウンを始めます。
次回は、明日更新予定です。
次回「『創世の光』と、その代償」。リリアナの最後の賭けが、ついに実行されます。
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