婚約宣言の波紋
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
レオンハルトの放った爆弾宣言が、ついにヴェルテンベルクに届きます。
それは、イザベラの計画と、そして彼女自身の心に、どのような波紋を広げるのでしょうか。
王都へ反撃の狼煙を上げてから、数日が過ぎた。
ヴェルテンベルク領は、一見すると、変わらぬ日常が流れていた。ドワーフたちの工房からは力強い槌音が響き、広大な畑では騎士たちと村人たちが『豊穣の女神』を操って、着々と作付けを進めている。私の研究室では、アルフレッドと共に、次の段階――収穫した作物の加工と保存、そして新たな発酵食品の開発に向けた基礎研究が始まっていた。
だが、この穏やかな日常の下で、誰もが固唾を飲んで、王都からの反応を待っていた。私たちが放った矢が、いつ、どのような形で返ってくるのか。領地全体が、嵐の前の静けさのような、張り詰めた空気に包まれていた。
その静寂を破ったのは、一頭の馬だった。シュヴァルツェンベルク家の紋章を掲げた漆黒の軍馬。それに跨るのは、辺境伯の伝令を専門とする、精鋭中の精鋭だ。彼は、私の前で馬から飛び降りると、汗ひとつかかぬ涼しい顔で、一枚の羊皮紙を恭しく差し出した。
「イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク公爵令嬢殿に、我が主、レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンベルク辺境伯より、緊急の通達にございます」
「ご苦労様です。して、内容は?」
私が羊皮紙を受け取ろうとすると、伝令はそれをさっと引いた。
「いえ、これは口頭にて、ヴェルテンベルクの民、全ての者に伝えるよう、厳命されております」
その言葉に、私は眉をひそめる。一体、何事だというのか。
彼のただならぬ様子に、畑仕事の手を止めた村人たち、警備にあたっていた騎士たちが、次々と広場に集まってきた。アルフレッド、クラウス、エリック、そして工房から出てきたギムレックまで、私の仲間たちが、不安げな表情で私を囲むように立つ。
広場に集まった全ての者の注目を一身に浴びながら、伝令は朗々と声を張り上げた。
「シュヴァルツェンベルク辺境伯の名において、王国全土に通達する! 王太子アランの愚行と聖女リリアナの欺瞞により、王国は今、建国以来の危機に瀕している! この危機を乗り越える唯一の道は、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク公爵令嬢の持つ、科学的知見による国土再生計画のみにあり!」
そこまで聞いて、私は頷いた。王都への宣戦布告を受け、彼が正式に私への支持を表明したのだ。理にかなった、力強い援護射撃だ。
だが、伝令の言葉は、そこで終わらなかった。彼は、一呼吸置くと、さらに声を張り上げた。その言葉は、私の全ての計算と予測を、根底から覆すものだった。
「よって、我、レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンベルクは、本日ただ今をもって、イザベラ・フォン・ヴェルテンベルク公爵令嬢を、我が正式な婚約者として、我が命に代えても、これを守り抜くことを、ここに宣言する!」
……こんやくしゃ?
今、彼は、何と言った?
私の思考が、完全に停止した。広場は、水を打ったように静まり返り、風の音だけが聞こえる。誰もが、自分の耳を疑っているかのようだった。
その沈黙を破ったのは、アルフレッドの、感極まったような嗚咽だった。
「おお……! おお、お嬢様……! なんという、なんという……!」
次に、エリックの、天を突くような雄叫びが上がった。
「うおおおおお! やったぞ! 俺たちの令嬢様が、あの氷鉄の辺境伯様のお妃様に!」
それを皮切りに、広場は、地鳴りのような歓声に包まれた。村人たちは、まるで自分たちの娘が嫁ぐかのように抱き合い、涙を流して喜んでいる。騎士たちは、兜を脱ぎ捨てて天に放り投げ、主君の決断を最大級の賛辞で称えている。
「すげえ! さすがは辺境伯様だ!」
「これで、ヴェルテンベルクは安泰だ!」
「がっはっは! めでてえ! こいつは、祝いの酒を造らにゃならんな、お嬢ちゃん!」
ギムレックまでが、その巨体を揺らして豪快に笑っている。
祝福の嵐。熱狂の渦。その中心で、私だけが、完全に状況を理解できず、立ち尽くしていた。
(待って。待ちなさい。落ち着くのよ、茅野莉子)
私は、喧騒から逃れるように、一人、教会の研究室へと戻った。祭壇の上に両手をつき、必死に思考を整理しようと試みる。
(婚約……? なぜ? 何のために? 彼の目的は、一体何?)
科学者としての私が、冷静に分析を始める。
まず、政治的・戦略的メリット。これは、計り知れないほど大きい。私を「婚約者」という立場に置くことで、彼は私を保護する、最も強力で、正当な大義名分を手に入れる。王太子が私に手を出そうとすれば、それは辺境伯家への直接的な攻撃と見なされる。これは、王家に対する、これ以上ないほどの牽制だ。
次に、経済的メリット。ヴェルテンベルクの再生計画は、今やシュヴァルツェンベルクの未来を左右する重要プロジェクトだ。その計画の頭脳である私を、婚姻という最も強固な契約で縛り付け、その知識と技術を独占する。これもまた、極めて合理的な判断と言える。
(そうよ。これは、取引。同盟を、さらに強固にするための、政略結婚。彼らしい、冷徹で、計算され尽くした一手……)
そこまで考えて、私は、自分の胸に、奇妙な痛みが走るのを感じた。
(……本当に、それだけ?)
脳裏に、彼の姿が蘇る。
私の作ったジャムを、少しだけ照れたように、しかし、とても美味しそうに食べた、あの時の顔。
私の科学を、純粋な畏敬の念で見つめていた、あの時の真剣な眼差し。
そして、最後に交わした、同盟者としての、固い握手。
あれも、全て、計算だったというの?
(……非合理的だわ)
私は、自分の思考に、自分で驚いていた。
政略結婚。それは、貴族社会において、最も合理的で、当たり前のこと。それを、なぜ、私は「嫌だ」と感じている? なぜ、胸がこんなに、ざわつくの?
これは、科学じゃない。私の知らない、未知の感情。私の計算式にはない、予測不能な変数。
私は、祭壇の隅に置かれた、彼のために試作した新しいジャムの小瓶を、無意識に手に取っていた。
(あの人は、私の気持ちも聞かずに、勝手に……!)
頬が、カッと熱くなるのを感じる。それは、怒りなのか、戸惑いなのか、それとも……。
コンコン、と、教会の扉が控えめにノックされた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
アルフレッドの声だった。
「……ええ、どうぞ」
入ってきた彼は、満面の笑みを浮かべていた。
「村の者たちが、今夜は盛大にお祝いをすると、息巻いております。お嬢様、本当におめでとうございます。これで、もう何も心配はございませんな」
「……アルフレッド。あなたも、これが政略結婚だとわかっているでしょう?」
「もちろんでございます。ですが、政略結婚が、必ずしも不幸なものとは限りません。特に、お相手が、あれほどお嬢様を深く理解し、正当に評価してくださる方であれば、なおさらのこと」
彼は、私の手の中にあるジャムの小瓶に、優しい視線を向けた。
「……辺境伯様は、きっと、お嬢様の『科学』だけでなく、お嬢様ご自身のことも、大切にしてくださいます。この老いぼれの目には、そう見えまする」
アルフレッドの言葉は、温かかった。だが、私の心の混乱を、完全に晴らすには至らない。
私は、窓の外に広がる、再生を始めたヴェルテンベルクの大地を見つめた。
土壌を分析し、微生物を培養し、機械を設計する。それは、私の得意なこと。答えは、いつだって、観察と、実験と、考察の先にある。
だが、人の心は? レオンハルトの、そして、この私自身の心は?
それは、私の科学が、まだ解明できていない、最も複雑で、そして厄介な、新しい研究テーマだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
レオンハルトの突然の婚約宣言に、イザベラの心は大きく揺れ動きます。政略か、それとも……。科学では解明できない「人の心」という、新たな研究テーマが彼女の前に現れました。
次回は、明日更新予定です。
次回「王都の激震、そして聖女の焦り」。婚約宣言は、王都にどのような衝撃を与えるのか。追い詰められた王太子と聖女が、次なる一手に出ます。
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