王都の密偵と、最初の収穫
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
ヴェルテンベルクの異変を察知した王都から、ついに招かれざる客が訪れます。
一方、領地では待望の最初の収穫祭が……。光と影が交錯する、新たな展開の始まりです。
『豊穣の女神』と名付けられた多機能播種機は、ヴェルテンベルクの農業に革命をもたらした。かつて一ヶ月かかっても終わらなかった広大な畑の作付けが、今やわずか数日で完了する。牛に引かれた女神が大地を滑るように進むたび、その後ろには未来への希望が美しい直線となって刻まれていった。
黒く豊かな腐植土、ドワーフが鍛え上げた革新的な農具、そして騎士たちと村人たちの団結。私の科学は、この死んだ土地に、力強い生命の脈動を取り戻しつつあった。
そんなある日、村に見慣れない男が現れた。旅の行商人だと名乗るその男は、痩せていて、人の良さそうな笑みを浮かべていた。だが、私はすぐに違和感を覚えた。
(……あの男、おかしいわ)
教会の窓から、村の様子を観察しながら、私はアルフレッドに低く告げる。
「何がでございますか、お嬢様?」
「手よ、アルフレッド。彼の指先を見て。行商人にしては、あまりにも綺麗すぎる。荷物を運び、馬の手綱を握る者の手ではないわ。むしろ、ペンを握り、紙をめくる者の手……。それに、あの歩き方。一見疲れた旅人を装っているけれど、体幹が全くぶれていない。専門的な訓練を受けた者の動きよ」
私の指摘に、アルフレッドの表情が険しくなる。
「……王都の、密偵かもしれませんな」
「ええ、その可能性が高いわね。王太子も、ようやく私たちの『静けさ』に不審を抱き始めたのでしょう。クラウス副官に伝えて。あの男から決して目を離さないように、と。ただし、こちらから手出しはしないで。泳がせて、彼らが何を知りたがっているのか、じっくりと観察させてもらいましょう」
私の指示に、アルフレッドは静かに頷き、部屋を出て行った。敵は、もうすぐそこまで迫っている。だが、焦りはない。むしろ、私の計画が、王都を揺るがすほどの影響力を持ち始めた証拠だと、冷静に分析していた。
密偵の出現という不穏な影が差し込む一方で、ヴェルテンベルクには、喜びに満ちた一日が訪れようとしていた。私がこの土地に来て、最初に植えたラディッシュが、見事な収穫の時を迎えたのだ。
広場のプランターから引き抜かれたそれは、もはやただのラディッシュではなかった。一つ一つが、大人の男の拳ほどもある大きさに育ち、艶やかな深紅色の肌は、まるで磨き上げられた宝石のようだ。
「すげえ……! こんなにでっけえラディッシュ、見たことねえぞ!」
「見てくれ、この白さ! まるで雪みてえだ!」
村人たちは、収穫されたラディッシュを手に、子供のようにはしゃいでいる。その歓喜の輪の中心で、私は声を張り上げた。
「皆さん! 本日は、私たちの最初の努力が実を結んだ、記念すべき日です! この喜びを、皆で分かち合いましょう! ささやかですが、『収穫祭』の始まりですわ!」
私の言葉を合図に、村の女たちが、腕によりをかけて作った料理が、広場に並べられた長机へと運ばれてくる。
主役は、もちろんラディッシュだ。薄く切って塩を振っただけのシンプルなサラダ。葉っぱと一緒に入れた、温かいスープ。そして、私がこの日のために特別に用意した、二つの『秘密兵器』。
「これは……?」
エリックが、小皿に盛られた白い角切りの物体を、不思議そうに見つめる。
「『ラディッシュの甘酢漬け』ですわ。酢と、蜂蜜、そして数種類の香草に漬け込むことで、保存性を高め、爽やかな風味を付けたものです。長旅や、肉体労働の後の疲労回復に、絶大な効果がありますのよ」
村人たちが、恐る恐るそれを口に運び、次の瞬間、その顔が驚きと喜びに輝いた。
「うめえ! 酸っぱいけど、甘くて、シャキシャキしてて、いくらでも食えるぞ!」
「そして、こちらが本日の主役ですわ」
私が自信を持って差し出したのは、大きな樽だった。中には、私が培養した特殊な酵母と、すりおろしたラディッシュ、そして良質な麦を混ぜて発酵させた、黄金色の液体が満たされている。
「これは……酒か?」
「ええ。『ラディッシュ・エール』とでも名付けましょうか。この土地で生まれた、最初の酒です。皆さんの努力の結晶。さあ、まずは頑張ってくれた皆で、乾杯しましょう!」
木の杯に注がれたエールが、一人一人に配られていく。その様子を、例の密偵が、木陰から鋭い視線で観察しているのを、私は気づかないふりをした。
私が杯を高く掲げる。
「ヴェルテンベルクの未来に、乾杯!」
『乾杯!』という唱和が、空に響き渡った。
人々が、勢いよくエールを呷る。そして、広場は、再び熱狂的な歓声に包まれた。
「なんだこりゃあ! ピリッとしてて、最高に美味い!」
「体が、芯から温まるようだ!」
それは、前世のビールには及ばない、素朴な醸造酒。だが、自分たちの手で育てた作物から、自分たちの手で生み出した最初の酒の味は、彼らにとって、王都のどんな高級ワインよりも、美味しく感じられたことだろう。
収穫祭は、夜更けまで続いた。歌い、踊り、語り合う村人たちと、最初は戸惑いながらも、やがてその輪に加わっていく騎士たち。身分も、出身も違う彼らが、一つの共同体として、確かに結びついていく光景。私は、その温かい光景を、少し離れた場所から、静かに、しかし満ち足りた気持ちで眺めていた。
宴がお開きに近づいた頃、事件は起きた。
「大変です、イザベラ様! 教会から火の手が!」
クラウス副官が、血相を変えて駆け込んできた。
私の研究室が!?
私はすぐさま教会へと走った。幸い、火はすぐに騎士たちによって消し止められていたが、扉は乱暴にこじ開けられ、中は酷く荒らされていた。祭壇の上の羊皮紙が、床に散乱している。
(やられた……!)
私が真っ先に確認したのは、研究ノートや設計図ではない。私が最も重要視していた、分離・培養した微生物のサンプル――特に、魔法機械を分解する、あの白い放線菌の種菌を保管していた、特別な容器だった。
それは、もぬけの殻だった。
「……イザベラ様、申し訳ありません。奴を見失いました。宴の混乱に乗じて……」
クラウスが、悔しそうに膝をつく。
「いいえ、あなたのせいではないわ、クラウス。敵の方が、一枚上手だったというだけのこと」
私は、冷静に状況を分析する。密偵の目的は、破壊工作ではない。情報の窃盗だ。彼は、私の計画の核心である、微生物の存在に気づき、そのサンプルを奪っていったのだ。
(王都に、私の研究成果が渡る……。まずいわね。王太子たちが、これをどう利用するか、わからない)
だが、私の顔に、焦りの色はない。それどころか、その唇には、静かな笑みさえ浮かんでいた。
「……クラウス。すぐに、腕利きの者を数名選んで。密偵を追跡します」
「はっ! すぐに!」
「ですが、捕らえる必要はありませんわ。ただ、無事に王都にたどり着けるよう、遠くから『護衛』してあげてちょうだい」
「……は? ご、護衛、でございますか?」
私の不可解な命令に、クラウスは目を丸くする。
「ええ。そして、彼が王都の城門をくぐったのを確認したら、これを、城の衛兵にでも渡しなさい」
私は、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、彼に手渡した。それは、レオンハルトとの間で交わされた、『経済協力協定』の写しだった。
「……これは……!」
「宣戦布告よ」
私は、静かに、しかし氷のように冷たい声で告げた。
「王太子は、私の研究成果を盗み、それを自分の手柄にしようとするでしょう。ですが、彼には、決して扱いきれない。私が盗ませたサンプルは、そのままではただのカビ。それを活性化させ、魔法機械を分解させるためには、特殊な条件と、私が独自に開発した『活性剤』が必要なの。それを知らずに使えば、逆に周囲の微生物を殺し、土地の汚染を加速させるだけの猛毒となるわ」
そう、私が保管していたのは、完成された種菌ではない。あえて不安定な状態の、いわば「休眠爆弾」のようなものだったのだ。
「彼は、自らの手で、自らの首を絞めることになる。そして、その時には、すでにシュヴァルツェンベルク辺境伯という、王国最強の軍事力が、私の後ろ盾となっていることを知る。……さあ、いってらっしゃい、クラウス。私たちの、反撃の狼煙を上げに」
私の言葉に、クラウスは、一瞬の驚愕の後、その顔に獰猛な笑みを浮かべた。
「……承知いたしました、我が君。最高の『贈り物』を、王都にお届けしましょう」
私の静かな戦いは、終わった。ここからは、国全体を巻き込む、本当の戦争が始まるのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、王都との戦いの火蓋が切られました。イザベラの仕掛けた巧妙な罠は、王太子たちにどのような結末をもたらすのか。そして、彼女の宣戦布告は、王国にどのような波紋を広げるのでしょうか。
次回は、明日更新予定です。
次回「王都の混乱と、辺境伯の決断」。盗まれた種菌が、王都で思わぬ事態を引き起こします。報せを受けたレオンハルトは……。
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