氷鉄の辺境伯、再訪
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ついに氷鉄の辺境伯が、イザベラとの『同盟』を果たすべく、再びヴェルテンベルクを訪れます。
彼の持参した一枚の羊皮紙が、イザベラの運命を、そしてこの国の未来を大きく動かすことになります。
ドワーフの親方ギムレックとその一党が、私の計画に加わってから二週間。ヴェルテンベルク領は、まるで眠りから覚めた巨人が動き出すかのように、劇的な変貌を遂げていた。
私の描いた設計図と、ドワーフたちの神業的な技術が融合し、これまでの常識を覆すような革新的な農具が次々と生み出されていく。土を深く耕しながら、同時に等間隔で種を蒔き、肥料を散布する『多機能播種機』。螺旋状の刃で硬い土を効率的に掘り起こす『螺旋式開墾機』。騎士たちの圧倒的な膂力と、村人たちの土地への知識、そしてドワーフたちの技術。私の科学は、それらを結びつけ、一つの巨大な力へと昇華させていた。
黒く豊かな腐植土で満たされた畑は、日ごとにその面積を広げ、領地の景色を確実に塗り替えていく。私の研究室では、アルフレッドが管理する種菌の培養樽が壁一面に並び、まるでワイナリーのような芳醇な香りを漂わせていた。
そんな目まぐるしい日々の中、レオンハルト辺境伯が再びヴェルテンベルクを公式訪問するという報せが届いた。前回とは違う。今回は、明確な議題を携えた、同盟のパートナーとしての来訪だ。
私は、彼を迎えるために、あえて正装ではなく、動きやすい乗馬服に身を包んだ。今の私は、着飾るだけの公爵令嬢ではない。この土地の未来を切り開く、現場の指揮官なのだから。
レオンハルトは、前回よりもさらに少数の側近だけを連れて、軽装で現れた。その銀灰色の瞳は、私の姿を認めると、わずかに細められたが、そこに侮蔑の色はもはやない。対等なパートナーを見る、真剣な眼差しがあった。
「息つく暇もないようだな、イザベラ嬢」
「ええ、科学の世界は、いつだって人手不足ですの。辺境伯様こそ、お忙しい中、ようこそおいでくださいました」
私たちは、形式的な挨拶もそこそこに、歩きながら言葉を交わす。彼が視察したいのは、私の着飾った姿ではなく、この土地のありのままの姿だとわかっていたからだ。
私は、彼をドワーフたちの工房へと案内した。そこでは、炉の火が赤々と燃え盛り、ドワーフたちが打ち鳴らす槌の音が、生命力に満ちたリズムを刻んでいた。
「……これが、黒鉄山のドワーフ……。俺も、これまで何度か交渉を試みたが、彼らがこれほど生き生きと働く姿は、初めて見た」
レオンハルトが、感嘆の声を漏らす。
「彼らは、最高の職人ですわ。そして、職人とは、自らの技術を正当に評価し、それを最大限に活かせる相手にこそ、心を尽くすもの。私は、彼らに敬意を払い、彼らの技術に見合うだけの、挑戦しがいのある『課題』を提示した。ただ、それだけですの」
工房の片隅では、ギムレックが、私が開発した『天然樹脂塗料』を、真新しい鍬の刃に丁寧に塗り込んでいる。赤錆病を克服した彼らの工房は、以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。
「見事なものだ。だが、今日俺が来たのは、貴様の進捗を確認するためだけではない」
工房を後にし、丘の上から広大な開墾地を眺めながら、レオンハルトは本題を切り出した。
「王都にいる俺の密偵から、興味深い報告がいくつか届いている」
彼の声のトーンが、わずかに低くなる。
「一つ。王太子と聖女が、ヴェルテンベルク領の『奇妙な静けさ』を訝しみ始めている。追放された貴様が、今頃は泣き暮らしているか、あるいは飢えて助けを乞うてくるとでも思っていたのだろう。だが、何の音沙汰もない。それが、逆に不気味なのだと」
「まあ、ご期待に添えず、申し訳ないことですわね」
私の皮肉に、彼はふっと口元を緩めた。
「二つ目。聖女の魔法の効果が、明らかに落ちてきている。各地の『マナ・ウィート』の収穫量が、予測を大幅に下回っているらしい。王太子は、それを管理する領主たちの怠慢だと叱責しているようだが……」
「……当然の結果ですわ。土地のマナを前借りし続ければ、いずれは枯渇する。衛星『エデン』のシステムそのものにも、負荷がかかっているのかもしれない。彼女の魔法は、もう限界に近いのよ」
「そして、三つ目。これが最も重要だ」
レオンハルトは、私をまっすぐに見据えた。
「王太子が、聖女の力を過信するあまり、隣国との間で、いくつかの無謀な外交的約束を交わしている。その中には、我がシュヴァルツェンベルク家が守る国境線の、一部の利権譲渡さえ含まれている、と」
「なんですって……!?」
さすがの私も、絶句した。それは、国防を揺るがす、明らかな売国行為だ。
「奴は、聖女の魔法による豊作と、『魔石』の富があれば、国境など不要だとでも思っているらしい。愚か者めが」
レオンハルトの声には、静かだが、底知れない怒りが込められていた。
「イザベラ嬢。もはや、我々には時間がない。王都の腐敗は、俺の想像以上に早く、この国を内側から蝕んでいる。貴様の計画を、さらに加速させる必要がある」
彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私に差し出した。それは、シュヴァルツェンベルク辺境伯家の印章が押された、正式な書類だった。
「これは……?」
「『ヴェルテンベルク=シュヴァルツェンベルク相互不可侵及び経済協力協定』。……俺が、今朝方、書き上げたものだ」
そこに記されていたのは、単なる同盟の確認ではなかった。ヴェルテンベルク領で生産された全ての産品を、シュヴァルツェンベルク家が独占的に買い上げ、その販路を保証すること。有事の際には、シュヴァルツェンベルクの軍が、ヴェルテンベルクの防衛を全面的に担うこと。そして、その見返りとして、ヴェルテンベルクは、シュヴァルツェンベルクに対して、食料と、イザベラの『科学』が生み出す新技術を、優先的に供給すること。
それは、事実上、ヴェルテンベルク領が、王家の支配から離れ、シュヴァルツェンベルクの庇護下にある、半独立領となることを意味していた。
「……辺境伯様。これは、ほとんど反逆ですわ」
「今の王家に、国を治める資格はない。ならば、俺たちが、俺たちの手で、民を守れる国を作るまでだ。貴様には、そのための『頭脳』となってもらう。……この協定、受けるか、受けぬか」
彼の問いは、私の覚悟を試していた。追放された令嬢として、ただ平穏に暮らす道もあったかもしれない。だが、私の科学は、この国を救う力になる。そして、目の前には、その力を信じ、共に戦おうとする、信頼できるパートナーがいる。
答えは、決まっていた。
「……お受けいたします。このイザベラ・フォン・ヴェルテンベルク、あなた様の『同盟者』として、この身と、知識の全てを捧げましょう」
私がそう答えると、彼は、初めて、心の底から安堵したような、穏やかな表情を見せた。
「……さて。堅苦しい話は、ここまでだ」
協定書を懐にしまった彼は、少しだけ気まずそうに、視線を泳がせた。
「その、なんだ。先日、部下たちが世話になったと、クラウスから聞いている。……礼を言う」
「いいえ。彼らは今や、私の大切な仲間ですわ」
「……そうか。それで、その……なんだ。貴様の『研究』は、進んでいるのか? その……甘い、木の実に塗る……」
氷鉄の辺境伯が、必死に言葉を探している。その不器用な様子に、私は思わず笑みがこぼれた。
「ええ、もちろんですわ。ちょうど、新しい試作品ができたところですの。あなた様が、最初の被験者になっていただけますか?」
私は、彼を教会へと誘った。祭壇の上には、小さなガラス瓶が一つ、置かれている。中には、森で採れたベリーを、私が培養した特殊な酵母で発酵させ、砂糖の代わりに蜂蜜で煮詰めた、深紅色のジャムが入っていた。
私が差し出した匙を、彼は、前回よりも、ほんの少しだけ、素直に受け取った。そして、そのジャムを口に含んだ瞬間、彼の銀灰色の瞳が、驚きと、そして隠しきれない喜びに、きらめいた。
「……美味い。前のものより、甘さの中に、複雑な香りと、深い味わいがある……」
「発酵の力ですわ。それは、ただ甘いだけのジャムではありません。兵士たちの疲労を回復させるクエン酸や、体を温める成分も、豊富に含まれていますのよ」
「……そうか」
彼は、それだけを言うと、もう一口、そしてまた一口と、まるで大切な宝物を味わうかのように、ゆっくりとジャムを食べ進めた。
その姿は、もはや氷鉄の辺境伯ではなく、ただ、甘いものが好きな、一人の男の顔だった。
この同盟は、きっと、ただの政略だけでは終わらない。そんな確信が、私の胸に、温かく広がっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラとレオンハルトは、ついに運命を共にする『同盟』を結びました。そして、不器用な辺境伯の素顔も、少しずつ明らかになってきましたね。二人の関係から、目が離せません。
次回は、明日更新予定です。
次回「多機能播種機、完成」。ドワーフの技術とイザベラの知識が融合し、領地改革を加速させる、驚異の新兵器が誕生します。
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