氷鉄の辺境伯、来訪
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第十二話、氷鉄の辺境伯が、ついにイザベラのもとを公式に訪れます。
彼の真の目的とは。そして、イザベラの科学は、王国の重鎮である彼の心を完全に動かすことができるのでしょうか。
レオンハルト辺境伯が公式にヴェルテンベルク領を訪問するという報せは、村に新たな緊張と、そしてこれまでとは質の違う興奮をもたらした。前回はあくまで「物資の輸送」という名目だったが、今回は違う。辺境伯家の正式な紋章を掲げた使者が訪れ、儀礼に則った訪問の申し入れがなされたのだ。それは、この見捨てられた土地が、シュヴァルツェンベルク辺境伯領の正式な交渉相手として認められたことを意味していた。
訪問当日、私はアルフレッドの手を借り、追放されて以来初めて、公爵令嬢としての正装に身を包んだ。とはいえ、王都から持ってきたドレスは、今の私の覚悟にはそぐわない。私が選んだのは、華美な装飾を排した、濃紺のシンプルなドレス。動きやすさを重視しつつも、公爵令嬢としての品位は失わない、絶妙な一着だ。
「お美しい……。お嬢様、まるで、亡き奥様が蘇られたかのようです」
アルフレッドが、涙ぐみながらそう言ってくれる。彼の言葉は、何よりの励みになった。
レオンハルトは、前回とは違う、儀礼用の豪奢な軍服を身に纏い、少数の側近だけを連れて現れた。彼は馬から降りると、私に向かって貴族としての完璧な礼をとる。
「公爵令嬢イザベラ殿。先日の約束に基づき、我が『投資』の進捗を、この目で確認させていただきたく、参上した」
「ようこそおいでくださいました、辺境伯様。歓迎いたしますわ」
私もまた、淑女としての完璧なカーテシーを返す。私たちの間には、貴族社会の形式的な空気が流れた。だが、その下に、互いの真意を探り合う、鋭い緊張感が張り詰めているのを、私は感じていた。
「まずは、私の計画の心臓部をご覧にいれますわ」
私が最初に彼を案内したのは、広場にずらりと並んだ、巨大な堆肥枠の前だった。騎士たちと村人たちが一体となって作業を進めるそこは、もはやただの広場ではない。生命を生み出す、巨大な工場のようだった。
「……壮観だな」
レオンハルトが、素直な感嘆の声を漏らす。
「先日見たものとは、規模が違う。そして、何より……」
「ええ。熱気が違いますわ」
私が彼の言葉を引き継ぐ。そこに満ちているのは、発酵熱だけではない。村人たちの、騎士たちの、そして私の、未来を信じる熱い想いそのものだった。
私は、完成したばかりの『腐植土』を彼に見せる。それは、しっとりと黒く輝き、豊かな土の香りを放っていた。
「これが、私の科学が生み出した『黒い金』ですわ。この土があれば、どんな痩せた土地でも、三倍の収穫が見込めます」
「……素晴らしい。だが、令嬢。これだけでは、俺の問いへの答えにはなっていない」
レオンハルトの銀灰色の瞳が、私を射抜く。
「俺が抱える問題は、冬の兵站だ。この土がどれほど素晴らしくとも、冬になれば作物は育たん。俺の軍は、冬の間、飢えることになる。貴様の計画は、その問題をどう解決する?」
来たわね。
私は、彼の挑戦的な問いを、待っていた。
「もちろん、その答えも用意しておりますわ。こちらへ」
私が次に彼を案内したのは、私の研究室――あの古びた教会だった。祭壇の上には、土の入った瓶だけでなく、いくつかの新しい実験器具が並んでいる。その一つ、私が『培養フラスコ』と名付けたガラス容器の中では、緑色の液体が静かに揺れていた。
「これは……?」
「『クロレラ』ですわ。前世の知識によれば、驚異的な速度で増殖し、極めて高い栄養価を持つ、単細胞の藻類の一種。そして何より、光と水とわずかな養分さえあれば、季節を問わずに育てることができるのです」
私は、もう一つの羊皮紙を彼に見せる。そこには、教会の地下室を改造した、大規模なクロレラ培養施設の設計図が描かれていた。
「この施設が完成すれば、冬の間でも、兵士たちに必要なビタミンやタンパク質を安定して供給できます。干し肉や固いパンだけでは補えない、生命を維持するための栄養を、ですわ」
レオンハルトは、設計図と、緑色の液体が満たされたフラスコを、信じられないものを見るような目で見比べている。
「……冬に、緑の作物を……だと? そんなことが、本当に可能なのか?」
「可能ですわ。なぜなら、これは魔法ではなく、科学ですから。生命の理を正しく理解し、最適な環境を与えてやれば、彼らは必ず、私たちの期待に応えてくれます」
だが、私の切り札は、これだけではなかった。
「そして、辺境伯様。冬の兵站問題を解決する、もう一つの、そしてより強力な答えが、こちらですわ」
私は、教会の隅に置かれた、一つの大きな樽の蓋を開けた。
瞬間、ツンと鼻を突く、酸っぱい、しかし食欲をそそる独特の香りが、教会の中に満ち満ちた。樽の中には、細かく刻まれたキャベツが、乳白色の液体に浸かっている。
「これは……漬物か? だが、ただの塩漬けとは、香りが違うな」
「ええ。これは、私の故郷の保存食、『ザワークラウト』。塩だけでなく、ある『魔法の粉』を加えて作りますの」
「魔法の粉……?」
「ふふ。ええ、私にとっては魔法のようなものですわ。その正体は、乳酸菌という、とても働き者の微生物。彼らが、野菜の糖分を食べて、乳酸という天然の保存料を作り出してくれるのです。これにより、野菜は腐敗することなく、むしろ栄養価と風味を増しながら、冬を越すことができるのですわ」
私は、小皿に取り分けたザワークラウトを、彼に差し出した。
「……毒見は、済んでいるのでしょうな?」
彼が、冗談とも本気ともつかない口調で言う。
「もちろんですわ。私が、三食これだけでも生きていけるほど、愛しているものですから」
レオンハルトは、私の言葉にわずかに目を細めると、意を決したように、それを口に運んだ。
彼の目が、驚きに見開かれる。
「……酸っぱい。だが、美味い。シャキシャキとした歯ごたえと、爽やかな酸味……。干し肉の脂っこさを、見事に洗い流してくれる。これは……!」
「ええ。兵士たちの疲労回復にも、絶大な効果を発揮するはずですわ。そして、この技術を応用すれば、ほとんど全ての野菜を、冬の間、新鮮なまま保存することが可能となります。これこそが、あなた様の問いに対する、私の最終的な答えです」
レオンハルトは、しばらくの間、黙り込んでいた。彼は、小皿に残ったザワークラウトを惜しむように食べ終えると、やがて、深く、長い息を吐いた。
「……参ったな」
その声には、もはや冷ややかさはなかった。そこにあったのは、自分を遥かに超える知性と対峙した者だけが抱く、純粋な畏敬の念だった。
「イザベラ嬢。俺は、貴様を侮っていた。貴様が見ているのは、ただの畑ではない。その先の、国家の未来そのものだ」
彼は、私に向き直ると、初めて、一人の対等な人間として、その銀灰色の瞳で私を見つめた。
「俺は、貴様との取引の内容を、変更したい」
「……と、仰いますと?」
「単なる物資の支援ではない。俺と、シュヴァルツェンベルク辺境伯家が持つ、全ての力……人脈、情報網、そして軍事力をもって、貴様の計画を全面的に支援する。これは、もはや『投資』ではない。同盟だ」
同盟。
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。それは、追放された公爵令嬢と、王国の重鎮である辺境伯が、運命を共にするという誓い。
「……その代わり、と言ってはなんだが」
彼は、少しだけ気まずそうに、視線を逸らした。
「……その、なんだ。先日の、木の実に塗ってあった、甘い……」
「ジャム、ですわね」
「……ああ、それだ。それの、作り方を……いや、その、なんだ。たまにでいい。俺のところに、届けてはもらえんだろうか」
氷鉄の辺境伯の、あまりにも人間的な、そして不器用な願い。
私は、思わず、扇子で口元を隠した。隠さなければ、満面の笑みがこぼれてしまいそうだったから。
「ええ、喜んで。最高の『同盟の証』を、お届けさせていただきますわ、レオンハルト様」
私が初めて彼の名を呼ぶと、彼の氷の仮面が、確かに、少しだけ溶けたような気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラの科学は、ついに氷鉄の辺境伯の心を完全に溶かし、『同盟』という最強の武器を手に入れました。そして、不器用な彼の素顔も少しだけ見えてきましたね。
次回は、明日更新予定です。
次回「ドワーフの工房と、新たな仲間」。領地改革を加速させるため、イザベラは新たな協力者を求め、鉱山へと向かいます。
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