写真と僕 ①
赤ん坊は、泣いていても寝ていても愛らしい。思いっきり鼻の下を伸ばした欠伸にも、僕らは思わず笑んでしまう。僕だって、産着に身を包んで可愛さに溢れていた時がある。赤ちゃんの頃の写真は、人に堂々と見せることができる。しかし、残念なことに状況は変わってしまう。僕の写真映りは、成長と共に酷くなった。姉と並んで撮影すると、僕だけが妖怪になる。僕は写真の出来上がりを見る度に、「どうしてこんなことに?」と言葉を失い、「同じ人間だよな」と切なくもなった。何故、写真の中の僕は、白目だったり、入れ歯の外れそうなお爺さんみたいに笑っていたりするのだろうか。
どの携帯電話にもカメラがある。何かに喜ぶと、人は写真を撮るのだ。僕は、写真の気配を感じると、直ぐにその場から遠ざかることにしていた。先日、会食の際、年長者が「記念に一枚撮ろう」と提案した。その時、僕の逃げ場は無かった。僕は、仕方なく、人の間に挟まり、静止した。撮影者が写真を確かめる。動きが2秒くらい止まったのが、わかった。それから、撮影者は温かい眼差しを皆に向けて「もう一度撮りましょうね」と柔らかく言った。いや、それは、僕にかけた声だと思う。僕は、自分の写りが悪かったのだと悟った。僕には、よくあることだった。「何度撮っても、妖怪なんだよな」と僕の呟きが諦めの判を押した。
後日、母にこの事を話した。母は、僕の顔を見つめて、「あんたもだったの」と言った。「アンタモダッタノ」の音が、母の口から僕の前に転がり落ちた。それは、頬張り過ぎて口からこぼれた菓子屑みたいだった。その吹けば飛ぶような言葉が、「何故、妖怪に写るのか」という謎をきれいに解いてくれた。全ては、遺伝なのだ。
僕が「なんかわからんが、見るに堪えないんだよねー」と言うと、母は自分もそうだと頷いた。こんな遺伝があるのか、と僕は信じられなかった。生死に結び付くような重大さは無い。僕自身が、配られた写真に思わず「うえっ」と驚くだけなのだ。
あるアプリは、携帯電話の写真集から思い出のミニアルバムを定期的に作ってくれる。そのアプリは、一つの項目に着目して写真を選ぶ。僕は風景を度々撮るから、満開の桜の樹や晴れた空の様子が届けられた。それを観るのは、楽しかった。僕は、少し前から、月に一度、眉毛サロンに通っていた。我流の整えで、元の眉の形が消えたのだ。指導を受ける為の資料として、毎日の自分の眉が被写体になり、携帯電話の中に貯まっていった。アプリは、今回、僕の真剣さを見事に汲み取り、「眉毛」を題目にした。無数の「お手入れの顔」が編集され、音楽も添えられていた。ドラマ仕立ての目がくらむような変顔が自動で流れる。僕は携帯を握りしめたまま、誰もいない部屋で立ち尽くしていた。「写り問題」は、僕の一部となり、常に引っかかる。