貴族の男に愛人がいるのは当たり前だから、本気で夫を愛することはしない
ワイリー伯爵家の長女、ジュディスはまだ五歳だが、青く澄んだ空色の大きな瞳、それを囲う長いまつげ、こじんまりとした鼻とバラ色の唇。さらりと流れる金色の髪の、とても可愛らしい子だ。
母親のコリーンはそんな娘が自慢で、あちらこちらで開かれる茶会や、友人の所にジュディスを伴った。
「まあ、本当に可愛い子ね」「お人形のようだわ」「先が楽しみね」
友人や知人たちにそう言われると、コリーンは破顔して、ジュディスの頭を撫でる。ジュディスは容姿を褒められるのはなぜかあまり好きではなかったが、母親の機嫌がいいのはジュディスも嬉しかったので、天使のようだといわれる笑顔を振りまいた。
たまには子供たちも来ていて一緒に遊んだりもするのだが、たいていはコリーンの傍に座って絵本を見たり、お絵描きをしていた。
そんなとき、コリーンの友人や知人たちは、ジュディスがまだ小さいから理解できないだろうと安心して、大人の噂話をする。必然的にジュディスはその話に耳を澄ますことになった。
どこかの子爵には愛人が二人もいるとか、どこかの伯爵は真実に愛する人を見つけたから夫人と離婚したとか、また別のどこかの伯爵は夫人が亡くなってすぐに愛人を家に入れたとか。
どのお茶会に行っても、最初のうちは季節の話やら子供の話に花が咲いても、最後にはなぜか噂話になる。
ある時は、夫人と別居して若い愛人と楽しく暮らしている元侯爵の話とか、どこかの公爵は愛人に夢中で夫人はただのお飾りになっているという話だとか。
ジュディスは内容は良く分からなかったが、何となくあまり良い話ではないのは分かった。
六歳になったころ、ジュディスはメイドのエラに聞いてみた。
「エラ、愛人ってなあに?」
「まあ、お嬢様、誰がそんな言葉を教えたのですか」
「お母様と一緒にお茶会に行くと、周りのご夫人たちが愛人がどうのこうのってお話しを良くするの」
「困ったものですね......。誤魔化しても仕方がないですから、正直に言います。愛人と言うのは正式な奥様ではない人のことです。結婚している男の人がその夫人以外の女の人を好きになって、その人の所に通ったり、一緒に過ごしたりするのです」
「ああ、そうなんだ。正式ではない、ということは影みたいな人なの? だからみんな声を潜めてお話しするのかしら」
「影といっても、相手の男の人から多くのお金を貰って贅沢している人の方が多いと思いますがね」
「へえ、愛人って楽なお仕事なのね。あ、それから『お飾りの妻』ってどういう意味?」
「はあ、そんなことまでお嬢様の前で話すなんて信じられません。『お飾りの妻』はその名の通り、ただの飾りの見せかけだけの奥様です。夫婦としての愛情はないのです」
「ああ、良く分かったわ。少なくともお母様はお飾りではないのね」
「そうです。お二人は仲の良いご夫婦です。お嬢様もご両親を見習って良いご結婚をなさってください。仮に結婚した相手に愛人がいても蹴散らせばいいのです」
「うん......」
ジュディスは何だか心の奥底に黒い小さな塊ができたような気がした。
ジュディスはいつも母親の傍で絵を描いていたので、いつの間にか鉛筆一本で描けるデッサンが好きになっていた。
そこで父親に絵の先生をつけて欲しいと頼んだ。父親も貴族子女の教養としては悪くないと言って、絵の先生を手配してくれた。
お茶会の時は、周りの話を聞きながら、近くにあるものを描いていた。特に気持ちが魅かれたのは、貴婦人たちの身につけている装身具だった。
お日様やシャンデリアに反射して、いろいろな姿を見せてくれる。
少しずつ成長するにしたがって宝石そのものより全体の形のバランスに興味を持った。様々なデザインを描くことで彼女たちのあまり楽しくもない噂話が霧散していくような気がした。
それからは、自分でデザインをしたネックレスやブレスレット、ブローチなどを良く描いた。特に花はモチーフとしても参考になるので、お茶会に行くと、庭に出ては珍しい花々をスケッチしていた。
絵の先生と一緒に行く美術館には、古代の装身具があり、非常に神秘的だったので、ついでに歴史も勉強するようになった。
いつしか大人になったら、お店を持って自分の作った装身具を売りたいと子供心に夢を膨らませた。
幸い、ジュディスが十一歳を過ぎたあたりから、同年代の子供たちとの交流が優先されたので、夫人たちの噂話を聞くことは無くなった
そんなとき、母がひどく興奮した様子で父に言い募っている場面に出くわした。
「友人が教えてくれたわ。レストランであなたと一緒にいた女が随分親しげだったって」
「ただの仕事上の付き合いだよ」
「二人きりで?」
「もう一人いたが、具合が悪くなって帰ったからね」
「ほんとに? 浮気しているのじゃないの? それとも愛人を持とうと思っているの?」
「違うよ。子供が三人もいるのにそんなことを考えるわけがない。信じてくれ」
(やっぱり、お父様も他の貴族の男の人と同じなのかしら)
心に巣食っていた黒いものが、少し大きくなったような気がした。
そして十三歳になって学園に通い始めたら、またいろんなことを見聞きするようになった。
第二王子は美しい公爵令嬢を婚約者としているにもかかわらず、男爵令嬢と親密にしているという話やら、一つ上の婚約者が卒業した途端に「僕の婚約者は心が広いんだ」と言って、いろんな女性に声を掛けている伯爵令息の話やら。
友人たちもこんなことを言う。
「家でも言われることがあるわ。結婚したら、一人や二人の愛人には目を瞑りなさいって。平穏に暮らすことがお前のためでもあるんだって」
「そうそう、少しの浮気なんてみんなするんだから目くじらを立てたら駄目だって」
ジュディスは十五歳にして決心した。自分は貴族の娘なのだから、結婚することは仕方が無いにしても、結婚相手に対して期待や望みを持つことはやめよう。愛さなければ、自分も傷つくことはないのだから。
そしてジュディスが学園を卒業する日が近づいた十六歳になったばかりの頃、婚約が成立した。相手はブレストン侯爵家の子息で名前はアーサック。いずれ家督を継ぐそうだ。年は二十歳で、今は学術都市のサンドラの大学校に通っているので王都にはいない。
それからしばらくして、ブレストン侯爵家で顔合わせがあった。
短く整えられた金茶色の髪のアーサックは、知性的でいて優しさも感じられた。紺色の上下をきちんと着込み、白のブラウスも清潔そうな見かけの良い男性だった。
エスコートも丁寧で、話題も豊富。さりげなくジュディスの好みを聞いてくる。
母のコリーンは、帰りの馬車で我がことのように喜んでいた。
「ジュディス、素敵な方で良かったわね」
「そうですね......」
「侯爵家に嫁ぐことができるなんて、あなたは幸運ね」
「はい」
その返事とは裏腹に、ジュディスは心の中でこう思っていた。
大学には魅力的な女性たちがきっとたくさんいるはず。彼はサンドラに愛する人がいるに違いない。私たちは領地の利益を考えた政略結婚だから、愛はないし、私も彼を愛するつもりはない。彼はいつかその愛人を連れてくるのかしら。
その後は、二か月に一度くらいの頻度で手紙を交換した。
愛したいとも愛して欲しいとも思っていないので、取り繕う必要もない。心のままに手紙を書いた。
『朝露に濡れる白百合を描くのは心が洗われるような気がする。バラの花は形状の違う花弁が幾重にも重なっているので描くのは案外難しい』
『ある恋愛小説を読んだが、主人公の女性に全然感情移入が出来なかった。なぜあんな人がたくさんの男性を惹きつけるのか私にはさっぱり分からない。むしろ男性が読んだ方が共感できるのかと思う』
『最近は、昆虫も愛おしく思えるようになった。蝶のモチーフはいろいろあるが、蜂やトンボやコガネムシのブローチを作って周りの貴婦人たちを驚かせるのも楽しいかもしれない』
『知り合いの宝石商に装身具のデザインを書いた画帳を見せたら、何点かのデザインを買い取ってくれた。もちろん父の了承を得ている。いずれこの収入で生活ができるようになりたい』
まともな返事は期待していなかったのに、アーサックは一つ一つに丁寧に答えてくれた。
『君が花を描く様子は美しいのだろうな。今度会った時に、デッサンの得意な君に僕のことを描いて貰えると嬉しい』
『君の言う小説を読んでみたが、自信喪失した時に肯定され褒められることは誰でも嬉しいとは思う。恋に発展することは分からなくもないが、僕は調子のよすぎる人間には警戒心を抱く方なのでそういう女性に恋することはないと断言できる。一緒に疑問を解決し、未来を語れる人がいい』
『装身具のデザインは結婚しても続けて欲しい。君が生き生きとしていることが僕の幸せだ』
他には
『法律は覚えることが多くて大変だ。だが、身を助けることもあるかと思って頑張っている』
『経営については、すぐに領地経営に役立つものではないが、あの時学んでよかったと思える時が来るに違いない』とも書かれていた。
ジュディスは、それには誠実に答えた。
『引出しが多いのに越したことはありません』
そして、次に彼と会ったのは、婚約の顔合わせから二年後、彼が卒業して戻って来て、伯爵家に挨拶に来た時だった。
アーサックは青緑色の瞳を細めて、いかにも君に会えて幸せだという雰囲気を醸し出していた。
ジュディスももちろんそれに応えて出来るだけ優しく彼に接した。愛は無くても演技は出来る。
その後、二人になった時にアーサックがジュディスの両手をそっと握った。
「帰って来て早々、申し訳ないのだが、宰相直属の部署で働くことになった。三か月後には国家試験もある。しばらくは会えそうもない」
残念そうにそう言うアーサックに、自分も少しは悲しい様子を見せなくてはいけないかなと考えて、「そうですか......」と俯いた。
すると彼はジュディスの両手にキスをした。
「その代わり、結婚式は半年後にするよ。両方の家も了承済みだ。それまでには仕事も一段落すると思うから」
「は? 半年後ですか? 聞いていませんが」
「先程、ご両親の了承を得たんだ。仕度にかかる時間を考えると最短でそのくらいと言われた」
「お忙しいのに、そんなに急がなくても......」
思わず本音が出てしまったが、彼はそれに頓着することもなく
「試験には必ず合格する。僕を信じて結婚式の準備をしていてくれ」
そう言って、今度はジュディスの額にキスをした。
ジュディスは、信じるも信じないもどうでもいいけれど、忙しくなるわと少し憂鬱になった。初めての額へのキスにもそれほど心が動かなかった。
六か月後、予定通りに結婚式と披露宴が盛大に行われた。アーサックは試験に合格し、期待の新人として宰相の下で仕事をしている。
ジュディスは、披露宴の時に、彼の愛人は何処にいるのかしらと周りを見渡したのだが、特定はできなかった。
(まあ、愛人に結婚式は見せたくはないかもしれない)
そして、その夜。
寝室は別々かと思っていたのだが、侯爵家の別邸にある新居の部屋には、四人ほど寝られるような天蓋付きの大きなベッドを真ん中に、ソファや椅子が所々に配置され、二台の瀟洒な机と椅子のセットが窓際に置かれていた。
壁の色や壁紙はクリーム色で温かい雰囲気になっている。顔合わせの時に君は何色が好きだと聞かれたことがあるので、その色を基調に使ったのだろう。律儀な人だ。
夫婦の寝室の両脇には小さな部屋がある。そこはそれぞれの着替えの場所のようで、ドレスや靴、宝飾品などはすでにその部屋に運び込まれていた。
ジュディスは夜着に軽くガウンを羽織り、ソファに座り本棚から選んだ本を開いて膝の上に置いた。
……今日まで彼と会ったのは今日の結婚式を別にすると四回だけ。婚約の顔合わせと大学を卒業してすぐ、試験の合格祝いとして両家を交えての晩餐会の時。そして結婚一週間前の予行練習。婚約している友人たちは相手と頻繁に会っているというから、やはり彼には何処かに愛する人がいるのでしょうね。今日は招待はしなかったのかしら。私が気が付かなかっただけかもしれない。彼、今夜は『僕には真実愛する人がいる。君を抱くことはない』と言うのかな?『契約結婚にしよう。二年たったら離婚でいいかな』もありね。……
今まであちらこちらで聞きかじったことを思い出しながら本のページをめくっていたら、アーサックがドアを開けて入って来た。
「遅くなってごめん。同僚に捕まった。こんな時まで、仕事の話をしないでくれと思ったよ。明日から一週間休みを取っているから仕方がないんだが」
(ん? これって言い訳よね。愛人から何か言われていたとか。あれっ、一週間も休むって、愛人とどこかへ出かけるつもりなの?)
そう思って首を傾げたら、いきなり腰を引かれ、きつく抱きしめられた。
「やっと、二人きりになれた。君と一週間、誰にも遠慮しないで共に居られる! ジュディス、心配しなくても今夜は出来るだけ優しく君に接するよ。僕たちの未来を共に創りたい」
そう言って、アーサックはジュディスの後頭部を支え、何度も口付けをした。段々と深くなってくる口付けに力が抜けて来たジュディスをアーサックは横抱きにして、そのままベッドに彼女をそっと横たえた。
ジュディスのすぐ目の前にあるアーサックの瞳は室内灯が映って揺れている。ジュディスは初夜のことを伯母の知人からいろいろ聞かされはしたが、どこかで自分には関係ないと思っていて熱心に聞いていなかったことを後悔した。
だが、夫婦の誓いをした以上は覚悟をしなくてはならない。ジュディスにとってはいろいろ想定外だったが、その夜は夫婦の契りをしっかりと結んだ。
それからは、毎夜、アーサックの求めるままに肌を重ねることになった。
愛人がいたとしても、これが普通の事なのかどうか、さすがに誰かに尋ねるわけにもいかず、ジュディスは彼の腕の中で毎朝目覚める心地よさに困惑した。
休みの一週間は、使用人の紹介、屋敷の中の装飾品や絵画、家具などの由来の話を聞いたり、約束のデッサンをしたりと、それなりに楽しく過ごした。ジュディスはそんな彼の優しさに絆されそうになるが、万一、彼が愛人を連れて来た時に傷つきたくはないから、自分は彼を愛することは決してしないとそう自分に言い聞かせた。
結婚して三か月後にジュディスの妊娠が分かった。その時の彼の喜びようを見て、ジュディスは愛人には子供はまだいないのだなと思った。
「僕は一人っ子だったから、子供はたくさん欲しいんだ。でも何といっても君の身体が一番大切だから、絶対に無理しちゃいけないよ」
彼の言葉をどこまで信用していいのかジュディスは分からなかったが、とりあえず殊勝な微笑みを浮かべて頷いた。
そんなある日、アーサックの大学の友人たち三人が結婚祝いを持って侯爵家を訪ねて来た。
友人たちは男性が二人、女性が一人。
茶色の髪のあまり背の高くない目じりの下がった優しい顔立ちの人はヨシア。細身で黒灰色の髪に眼鏡をかけたいかにも学者風の人がラッセル。そして女性はトリシャ。彼女は綺麗な癖のない肩までの黒髪の一部を美しい髪飾りで留めていた。凛とした知性的な雰囲気の女性だった。
ジュディスは彼女を一目見るなり、もしかしてこの人がアーサックの愛人かしらと思った。いよいよ来るべき時が来たのだと。
耳の上の髪飾りもアーサックの瞳と似たような色合いだったから、きっと今晩にでもアーサックから話があるに違いないと気を引き締めた。
五人と共にする夕食会は殊の外楽しく、学生時代の思い出を共有する四人は思い出話をするたびにジュディスに分かりやすくその時の状況を説明する。決して四人の世界には入らないようにジュディスを気遣った。
結婚祝いは蓋の付いた銀製の小さな砂糖入れだった。
「貴族に贈るには貧相なものだが、庶民の間では結婚祝いは必ず蓋のついているものを贈る習慣があるんだ。夫婦で一つの物を完成させ、役立つものになって欲しいという意味なのかもしれない」
ヨシアが恥ずかしそうにそう言うのを聞いて、ジュディスは(本当に良い人たちなのだわ。トリシャさんが愛人と言われても納得するわ)と思った。だが、心の奥の黒い塊が今にも広がろうとしていることにも気が付いた。
ヨシアは役所に勤めていて、トリシャは学校の先生。ラッセルは大学に残って将来の教授を目指しているという。
「トリシャさんの髪飾りは珍しい形をしていますね」
「そうなの。これは母の形見で随分と昔の物らしいの」
(あら、アーサックに貰ったものではないのね)
「少し、描かせていただけますか?」
「え、もちろん」
「ジュディスは装身具のデザインをしているんだ」
なぜかアーサックが誇らしげにそう言った。
「まあ、それは素敵ね」
「ところでラッセルとトリシャはいつ結婚するんだ?」
「一応、来年の今頃って決めているの」
「その頃には僕も大学から給料がもらえる地位に就く予定なんだ」
ラッセルがトリシャの言葉を引き継いだ。
「えっ? お二人は婚約なさっているのですか?」
ジュディスは驚いて、アーサックに尋ねた。
「ああ、二人は大学に入ったころからの恋人同士だ」
彼女が愛人ではなかった。ジュディスはなんとなく期待を裏切られたような気がしたが、一方で安堵する自分がいることにも気が付いた。だからこそ慌てて『アーサックを愛することはない』と呪文のように心の中でつぶやいた。
夕食の後は、酒を飲む男たちと別々にトリシャと歓談することになった。
トリシャは次期侯爵夫人と対等に話をする立場にないと遠慮したのだが、
「私のほうからその髪留めのデッサンを頼んだのですから気になさらないでください」とそう言って、画帳を取り出した。
「やはりアーサックが好きになった人だけあるわね」
「好きになった?」
「ええ、アーサックは侯爵家を継ぐ立場だから、すべてを背負い込むところがあって、ジュディスさんの手紙だけが心の拠り所だったのよ」
「え、あの手紙が?」
「だから今日、想い人と結婚した彼の明るい笑顔が見られて私たちは本当に嬉しかった」
アーサックのことを想って書いた手紙ではなかったのに、楽しみにしていたなんて、ジュディスは少し後ろめたい気持ちになった。
ただ、こうしてアーサックの想いが自分に向いていたと知ることは、彼を愛さないと決めていても嬉しいことに違いなかった。
温かな気持ちになったせいか、ジュディスはトリシャに提案した。
「結婚祝いとして、私のデザインで良ければウェディングドレスに似合うネックレスを私とアーサックから贈らせて欲しいのです」
トリシャが飛び上がって喜んだ。その後、手紙のやり取りを通して、彼女はジュディスの大切な友人になった。
三人は翌朝早くに屋敷を発った。
彼らが帰った後、ジュディスは考えた。
今回は愛人ではなかったけれど、いつかアーサックが愛人を連れてくることがあるかもしれない。自分の身一つなら、出て行けと言われても受け入れることは出来るが、わが身に宿っている子供を置いて行けと言われたら耐えられるかどうかは分からない。
出て行けと言われないようにするには、この侯爵家で必要不可欠な人間になるしかない。
まずは、使用人たちの信頼を得ること、家令と侍女長に助言を請おう。
結婚したばかりだからとお義母様やお義父様は遠慮なさっていたけれど、きちんとこの侯爵家の事を学ばなければいけない。
それからはジュディスは本邸の義父母の下に熱心に通った。侯爵家の歴史や行事、領地のこと、親戚や貴族たちのと関係等も学び始めた。
さらにジュディスは何かあった時のために少しずつお金を貯めていきたかった。そこで自分に割り当てられているお金の管理だけでもさせて欲しいとアーサックに申し出た。侯爵夫人になった時にも役立つはずだからと。
まずは入出金をしっかり書き留め、無駄を省くこと。妊娠しているのだから社交のドレスは二枚もあれば十分。腹部の回りに余裕を持たせてリボンやレースで雰囲気を変えればいい。宝飾品は実家から持って来た物と侯爵家の代々の物があるから、必要ない。お茶会の持参の物はそれなりに家格を考えなくてはいけないが、高価なものは家令に言えば侯爵家の社交費から出してくれるはずだ。
伯爵時代に懇意にしていた宝石商にも連絡を取り、デザイナーとして再度登録させてもらった。
アーサックは、忙しそうにしているジュディスを心配していたが
「幸いつわりも軽いし、少しは動いている方が良いのですって。充実して過ごすことがお腹の子供にも良い影響があるって先生がおっしゃっていたわ」
そう言うとしぶしぶと頷いた。
お腹の子供が安定する時期を待って、アーサックと侯爵家の領地に行くことにした。アーサックは妊娠しているジュディスを気遣って、馬車の中で自分の膝の上に乗せてしっかりと抱えたり、傍に座ってジュディスを支えたりする。ジュディスはアーサックに優しくされるとかえって落ち着かなくなるので、心の中で小さなため息を吐いた。
侯爵邸の玄関の豪華な扉の前に馬車がつけられ、アーサックが先に降りてジュディスに手を差し伸べた。ジュディスが降りると直ぐに、玄関の扉から薄茶色のふわふわの髪をした若い女性がアーサックの下に駆け寄って来た。
「アーサックお兄様、会いたかった!」
彼女はジュディスが目に入らないというようにアーサックの腕にしがみついた。アーサックはそっとその手を外して少し困り顔でジュディスを見た。
「お兄様ったら、ずうっとこちらに帰ってこないのですもの。私寂しかったわ」
(ああ、こんなところに愛人がいたのね!)
ジュディスの心の中の黒い塊があっという間に広がったような気がした。
「ジュディス、紹介するよ。又従兄妹のケイラ・マーシュだ。行事がある時などにこの屋敷に来て手伝ってくれるんだ」
アーサックはジュディスの腰を引いて耳元で囁いた。
「一応、この地域では貴族待遇をされているが僕たちと同じ立場の貴族ではない。礼儀に欠けるところがあるので、不愉快な時は言ってくれ」
ジュディスはいつもよりアーサックが自分に密着しているので、愛人に夫婦の仲を見せつける必要があるのかと少し不思議な気持ちがした。
やはり二人の様子を見たケイラの表情が歪んだ。
「ケイラ、私の妻だ」
ジュディスは出来るだけ優雅に微笑んだ。
「ジュディス・ブレストンです。ケイラさんいつもありがとう」
すると彼女は、その童顔には似合わない鋭い視線をジュディスに向けた。
「お兄様は小さい頃から私を気にかけてくれて、私にはとても優しい人なの」
「そうでしょうね」
「だから、お兄様は私にとって唯一の大好きな男の人なの。お兄様も私が好きなのよ」
「なるほど」
ジュディスは微笑みを絶やさずに鷹揚に頷いた。今はまだ自分の立場が上だと思ったからだ。
「ケイラ、もう小さい頃とは違うから『お兄様』と呼ばないようにと侯爵夫人からも言われただろう? それに僕たちは友人以上の関係ではない。誤解を招く言葉は使わないでくれ」
ケイラはアーサックの言葉に明らかに不機嫌になり、身をひるがえして屋敷の中に戻って行った。
アーサックは屋敷内の二人の部屋に入るなり、ジュディスをそっと抱きしめた。
「疲れてないかい?」
「そうね。ちょっと疲れたかしら。ケイラさんに嫌われたような気がして......」
「ケイラは大人になり切れていないというか、妄想癖があるというか、僕の嫁さんになれると信じていたようなんだ。身分的にも無理があるし、僕も両親もそんなことを考えたことも言ったこともないんだが」
ジュディスはこの際だからと単刀直入に尋ねた。
「あなたの愛人ではないの?」
「まさか! 彼女はただの親戚の女の子だ。それ以上に思ったことはない。彼女はちょっとしたことでも自分の都合の良いように解釈してしまうんだ。どちらかというと苦手な人間だ」
それが本当なら、ジュディスはまたもや期待(?)を裏切られたことになる。だが、愛人というならばせめて敬意の持てる人が良いとジュディスは強く思った。
次の日の午後、アーサックは仕事で出かけており、ジュディスだけが庭の見えるサロンで、写生をしていた。
そこへケイラがやって来た。
「ジュディスさん、ここにいらしたのね」
本来なら、貴族でもないケイラがジュディスを「さん」付けで呼ぶことはあり得ないのだが、ジュディスは面倒だったので何も言わなかった。
「あそこに見える芝生の広場ではね、アーサックお兄様と追いかけっこをしたり、鬼ごっこをしたりして遊んだのよ。それからあの生垣迷路では、お兄様と手を繋いで歩いたの」
「そうですか」
「あっちの薔薇園では、お兄様は私の髪に薔薇を良く差してくれて、ケイラが一番かわいいと言ってくれたの」
「そうですか」
「そのうちにお嫁さんになってくれとも言われたわ」
彼女は自分の願望を現実と思ってしまう人なのかと、アーサックが苦手だという気持ちが分かった。
そこへアーサックが姿を見せ、ジュディスの下に真っ直ぐにやって来て「ただいま」と言いながらジュディスの唇に軽く口付けをした。
ジュディスは傍に膝をついたアーサックの頬を撫でて、柔らかい笑みを浮かべた。
「お帰りなさい。早かったわね」
「君に会いたくてね。調子はどう?」
「私もお腹の子供もとてもいいわ」
昨夜、アーサックとジュディスは自分たちの仲の良さを見せつけないと、ケイラはあきらめることがないだろうと話し合っていたのだ。
「明日だが、君も出かけられるかな? 君も知っている通り、我が領地は木工芸が盛んだ。知人の木工所に行って、子供のベッドやゆりかごを頼みたいと思っているんだ」
「嬉しいわ。ぜひご一緒します」
その会話の間、ケイラは何も言わずに、ただ俯いていた。
ジュディスには、それがかえって不気味に思われた。後で考えればこれがあの事件の引き金になったのかもしれない。
二日後の午後、青い空は秋の気配が漂い少し肌寒い風が吹いている。
アーサックは執務室に籠っていて、ジュディスは侍女長と明後日に行われる領地の有力者を集めての昼食会の段取りなどを話し合っていた。
明日は侯爵夫妻も領地に来ることになっている。
そこへやたらに機嫌のよいケイラが現れた。
「侍女長、私、何かお手伝いすることがあるかしら」
「ケイラさんには、私と一緒に各テーブルの花飾りなどの点検をお願いしていたと思います」
「ああ、そうでした。ところで若奥様、今日は秋らしい素晴らしいお天気ですわ。この屋敷の三階に建物から少し張り出した領地全体が見渡せる場所があるのですがご覧になりませんか? 一度は見ておくべきかと思うのですが」
ジュディスは『若奥様』と言うケイラの言葉の響きが、上ずっていて気になった。
「そうですね。三階くらいなら登れるわね」
「私もご一緒します」
「侍女長は昼食会の準備でお忙しいのでしょう? 大丈夫です。私が若奥様をご案内しますから」
「それではお願いします。くれぐれも慎重に」
ケイラの後ろについて、手すりにつかまりながらゆっくりと階段を登った先には小さな部屋があった。三方が大きな窓になっていて、遠方までよく見える。
「素晴らしい景色ね。まあ、なんて綺麗な湖なんでしょう。珍しい鳥がたくさんいるわね」
「あそこでお兄様とよく水遊びをしたの。この領地はいずれお兄様と私の物になると楽しみにしているのよ」
「ケイラさん? 何の話?」
「あ、ごめんなさい。つい将来のことを考えてしまったわ」
ジュディスはケイラが普通の思考を持っていないのか、それとも自分へのあてつけでそう言っているのか判断が付かなかった。いずれにしてもこの人から早く離れた方が良いだろうとそう思った。
「少し冷えて来たから、私は戻るわ」
ジュディスは、すぐ近くにある階段を下りようとした。この階段は踊り場がなく二階まで一直線になっているので、手すりにつかまりながら慎重に一歩を踏み出した。
その時にジュディスの背後でケイラが呟いた。
「私がお兄様のお嫁さんになるはずだった。でも、あなたがいれば、私はお兄様の一番になれない。二番じゃいやなの。幸い誰も見てないし、あなたがこの階段を踏み外したことにすればいいわよね」
振り返ると、彼女は何かにとりつかれたような相貌をしていて、ジュディスは恐怖を覚えた。途端に彼女がジュディスの背中を押した。
寸でのところで手すりにしがみつき落ちるのを耐えたが、彼女は「あんたなんかお腹の子供と一緒に死ねばいいのよ」と追い打ちをかけ、また思い切りジュディスの肩と背中を押した。
さすがにその力には耐え切れず、ジュディスは手すりを離してしまった。体が空中に放り出され、なぜかアーサックの顔が浮かんだ。
(愛していると言えばよかったかな)とそう思った時、「ジュディス!」という叫び声と共にジュディスの体は大きな腕の中に抱えられていた。
「アーサック?」
「衛兵、ケイラを捕まえろ!」
段上にいるケイラはアーサックを見ると、顔を青くしてヘナヘナとその場に膝をついた。
それからはよく覚えていない。気がついたら、ベッドの中にいた。慌ててお腹を触ったが子供は無事なようだった。傍らには、アーサックがジュディスの手を握って眠っていた。
ジュディスはそっとアーサックの頬にキスをした。
そのキスで、目を開けたアーサックはジュディスをすぐに抱きしめた。
「怖い思いをさせてすまなかった。僕のせいだ」
「あなたは私を助けてくれた。それで十分よ。でも、どうして危険だって気が付いたの?」
「仕事が一段落したので、一緒にお茶を飲もうと思って君を探したんだ。侍女長に聞くと三階の眺望室にケイラと一緒に行ったと言う。なにか嫌な予感がして、近くにいる衛兵を連れてすぐに駆け付けた。本当に間に合って良かった。君を失うことは僕の未来も失うことだ。ジュディス、愛している」
アーサックの胸に顔を寄せたジュディスは、自分もとっくに彼を愛していたのだと自覚した。だが、嫉妬に狂ったケイラの瞳を思い出すと、素直に彼に愛しているとは言えなかった。アーサックが愛人を連れてきたら、自分もああなるのだろうかという不安が心をよぎった。
ケイラへの処罰がどんなものだったのか、ジュディスには知らされなかった。風の噂では、処刑は免れ、遠い島の病院に入ったという。
そして時は流れ、瞬く間に二十二年の月日が過ぎた。
アーサックとジュディスはブレストン侯爵とその夫人として貴族界にしっかりとした地位を築いている。
二人の間には四男一女の子供たちが生まれた。一番下の十歳の男の子を除いて、皆、身の振り方が決まっている。
二十一歳の継嗣である長男と十九歳の次男は父親と同じサンドラの大学校で学んでいる。次男の担当教授は、ラッセルだ。次男はそのまま学校に残り法律の専門家として身を立てるつもりらしい。恋人もラッセルとトリシャの娘だ。
十五歳の三男は学校を卒業したら、遠縁の子爵家の養子になる予定だ。
ジュディスは、子供たちに愛人がどうのこうのという話はしていない。『誠実に生きなさい』としか言っていない。彼らは彼らの人生があり、自分たちで運命を切り開けば良いと思っている。
さて、今宵、一週間にわたった王太子殿下と十七歳の長女、シャナイアとの華燭の典がやっと終わった。
湯あみを終え寝室に入ったジュディスは、ベッドサイドボードの上に置いてある『銀の砂糖入れ』をいつものようにそっと撫でてから、バルコニーに続く大きなドアを開けた。
晩春の風はまだ少し冷たいが、ほてった身体にはちょうどいい。
バルコニーの手すりに身を寄せながら、星を見た。今日は王太子とシャナイアの結婚を祝うようにひときわ輝いている。
ジュディスは今宵こそアーサックに本当の気持ちを伝えようと思った。
「風邪を引くよ」
アーサックが傍に来て、星を眺めているジュディスの肩にショールをそっとかけた。
振り向いたジュディスは、月の光にほの暗く光っているアーサックの瞳をじっと見つめた。
「あなた、愛しているわ......」
アーサックは驚いたように目を見開いた後、ジュディスの両肩に手を置いて、彼女の額にキスをした。
「君からその言葉を初めて聞いたような気がする」
「初めて言ったわ。あなたを愛しているのにずっと言えなかった。それを言ってしまって、もしもあなたが愛人を連れてきたら、自分がとてもみじめになるような気がして」
「君と共に未来を創ると約束したんだ。そんなことあるわけがないだろ?」
「でも、長い年月には誰かに心惹かれたこともあったでしょ? あの可愛らしい秘書さんとか」
「全くないとは言わないが、何を守りたいかを考えれば答えは直ぐに出たよ」
「あのケイラさんの事件が尾を引いていたの?」
「それもあるが、君が常にここに居たからね」
アーサックは自分の胸に手を当てた。
「君だって、王宮で君の傍にいつも侍っている近衛騎士や、若き商会長などとずいぶん親しげだったが......」
「好意を示されれば嬉しい気持ちはあったわ。でも心が躍ることはなかった」
「よかった! 今だから言うが、僕は君が九歳位の時にお茶会で君と会っているんだ」
「え?」
「君は熱心に花を描いていただろう。興味を引かれてその絵を後ろから覗いた。まだ幼いのにとても上手で驚いた。だから他のも見せてと聞いたら、恥ずかしいからいやだと君が言ったので、むりやりその画帳を取り上げた」
「覚えていないわ」
「でも、君は怒らなかった。こんな装身具を作りたいのと言って微笑んだ。それがあまりにも可愛くて、ずっと忘れられずにいた。だから僕に縁談が持ち上がるようになった頃、君がいいと親に言った。両親も釣り合いも取れるし良いだろうと同意してくれた」
「私はただの政略結婚だと思っていた......。今日はお互いに初めて知ることばかりね」
「ああ、結婚したてみたいだな」
二人はまたバルコニーの手すりにもたれて、しばらく星の瞬きを見つめていた。
「ねえ、私名義のお金も随分貯まったのよ。宝飾店を開きたいのだけれどどうかしら?」
「賛成だよ。でもまさか、僕と別れる前提じゃないよね」
「もちろんよ。二人でオーナーになるの」
「それなら、もう一人娘を作ろう。シャナイアが王室に嫁いで君も寂しいだろう? その子はきっと店の役に立つんじゃないかな」
アーサックは、そう言ってジュディスを横抱きにしてベッドに向かった。
「......まるで初夜のようね」
「孫と子供が一緒の年齢になるかもしれないな」
「どうかしら。もしそうなら社交界の格好の話題になるわね」
「愛人の噂話よりはよっぽどいいだろう?」
「ええ」
ジュディスは微笑みながら、自分たちの間に愛と信頼が確かに根付いているのを感じた。心の奥底に巣食っていた黒い塊はいつの間にか綺麗に消えていた。
終
お読みいただきありがとうございます。誤字のご指摘はいつも助かっています。また次回の作品でお会いしましょう。