第八章
あの旅から、一週間が経った。あの夜、泣きじゃくる委員長の姿が、今も脳裏から離れない。触れることをためらうほど脆く、何かを胸に抱えきれず、いまにも零れ落ちそうなその瞳。横顔には、静かな痛みが滲んでいた。気がつけば、その面影ばかりを追っていた。
珍しく夕食を食べに来なかった委員長に、最初は胸騒ぎを覚えた。あの瞳に宿っていたのは、誰にも見せたくない深い悲しみだった。けれど同時に、その奥底には、まだ自分で立ち上がろうとする、かすかな意志のようなものも感じた。泣きながらも、どこか彼女は強かった。あの涙は、誰かに助けを求めるためのものじゃなかった。ただ、堪えきれずに零れてしまっただけなんだと思う。無理に踏み込むことは、その最後の拠りどころを壊してしまう気がした。
助けたいという気持ちは、もちろんあった。けれど今の彼女に必要なのは、言葉でも手でもなく、たった一人で向き合える静かな時間なのかもしれない——そう思った。
だから僕は、そっとしておくことを選んだ。
連日降り続いた雨が嘘のように晴れわたり、空はどこまでも澄んでいた。窓を開けると、蝉の鳴き声が高く響き渡り、通りからは子どもたちの笑い声が聞こえる。今日は、先週の旅先で約束した“花火のリベンジ”の日。もう一度、彼女と海へ行く日だ。
家を出ると、風がやわらかく全身を包むように吹き抜けた。気持ちのいい夏の風だった。自転車を押しながら委員長の家へと向かう道すがら、あの日の景色がふと脳裏に浮かぶ。
橋の下、眠る彼女の寝息、黒いビキニと白い肌の対比、そして優しい笑顔——どれもが、まるで夏の断片を閉じ込めたフィルムのように、鮮やかに蘇った。
「出発前に、一緒にアイスを食べながら歩きたいな」そんな思いがよぎり、途中のコンビニでアイスを二本買った。アイスの冷たさが、手のひらにじんわりと沁みた。
委員長の家の前に着くと、周囲はひどく静まり返っていた。蝉の声すら遠のいて聞こえ、まるでこの一帯だけ時間が止まったかのようだった。誰もいない気配。気のせいだろうか、それとも……。
インターホンを押すと、甲高い電子音が無機質に玄関先に響いた。しかし、応答はない。扉の向こうから返ってくるはずの気配が、何もないまま、沈黙だけが広がっていく。もう一度、念を押すようにインターホンを押した。けれど、やはり何の反応もなかった。
嫌な予感が胸をよぎり、ドアノブに手をかけてみる。すると——
「……あれ?」
カチャリ。わずかな抵抗のあと、予想もしない手応えで扉が開いた。施錠されていなかった。
「すいません……東雲さん、いますか?」
声をかけるが、返事はない。玄関の中は暗く、重たい静寂が張り詰めている。靴を脱がずに、もう一歩だけ中へ。
「すいません、失礼します……」
不安が胸に広がる中、再び声を張った。だがそれでも、応答はない。風の通り道もないはずの家の中で、空気だけが妙に動いている気がした。
意を決し、「お邪魔します」と声を落としながら、俺はそっと家の中に足を踏み入れた。
玄関から一番近い、見慣れた委員長の部屋。その扉を開けると、彼女はそこに居た。
姿勢は、いつもの凛とした印象とは程遠く、肩が無抵抗に垂れ下がっていた。あの賢く澄んだ瞳は、今はどこまでも暗く沈みきっていて、いつか見た黒いビキニのように光を拒んでいた。白いワンピースから浮いた足が覗いた。そして、それは扇風機の風で微かに揺れていた。その様子が妙に現実離れしていて、夢の中に紛れ込んだような錯覚を覚えた。彼女の手には、水族館で買ったお揃いのイルカのキーホルダーが力無く握られていた。
静まり返っていた部屋の中で、いつからか蝉の声だけが妙に大きく、耳を圧迫するように響いていた。意識の深いところを叩かれるような、その声に耐えきれず、手にしていたコンビニの袋を床に落とした。アイスがコツンと鈍い音を立てる。
目の前の光景を、脳がうまく処理できなかった。現実感が剥がれ落ちていく。誰かの笑い声がこだまする。ただ茫然と立ち尽くし、彼女のその姿を見つめ続けた。
男の声が部屋の奥から響いた瞬間、身体が緊張に包まれた。
「おい、なんだ。誰かいるのか」
足音が近づく。
「お前、この前のクソガキじゃねぇか。勝手に入ってんじゃねぇよ」
その言葉に反射的に、俺は左手を振り上げた。拳が男の顔を捉えると、男はバランスを崩し後ろに倒れ込んだ。その衝撃で壁に掛かっていた時計が音を立てて落ちる。
「いってぇな。はぁ? お前、いきなりなんだよ」
俺はすかさず彼の上に跨り、幾度も拳を打ち込んだ。拳の一つ一つに込められた感情が、重く、激しく響いていく。
「あれ、お前がやったのか?」自分の声が掠れて聞こえた。
「あれ? なんの事だよ。知らねーよ」と、男は素知らぬ振りをした。
「お前のせいだろ」と言いながら、怒りに任せて何度も拳を振り下ろした。
最初は必死に抵抗していた男も、やがて動かなくなった。胸の奥で燃え上がる興奮を感じながら、俺はただ無心で顔を左手で何度も殴りつけた。
やがて静かになった男から離れ、おぼつかない足取りで委員長の部屋へと向かった。玄関には幼い頃の委員長の写真が飾られていて、その姿に触れ、現実へと引き戻された。
「なぁ、委員長。アイス、買ってきたんだ。二人で歩きながら……駅まで行こうよ」
そう言いながら、彼女の首にかかっていたロープをそっと解いた。結び目がほどける音が、やけに大きく響いた気がした。
彼女の体は、重力に引かれるように静かにこちらへと傾き、俺の胸元へ崩れ落ちてきた。
「……抱きしめてほしかったのか。まったく、最後まで我儘なんだから」
そう呟くと、彼女をそっと背負い、ゆっくりと玄関へと向かった。
蝉が鳴いていた。何事もなかったかのように、空は青く晴れ渡っていた。
「さあ、行こう。今日は晴れてる。……ちゃんと、俺が連れて行くから」
「……委員長、前は言わなかったけど、意外と重いんだな。びっくりしたよ」
そう呟きながら、彼女の体を背中に支え直す。
「今日は暑いな。こんな日に海で泳いだら、絶対気持ちいいよな」
ゆっくりと歩きながら、彼女がまだそこにいるかのように語り続ける。
「そうだ、海に行く前にさ、色々話そうと思ってたんだ。卒業してからのこと。……委員長のおかげで、俺、高校なんとか卒業できそうなんだよ。だから、とりあえず仕事探さないとな。委員長は頭いいから大学行くんでしょ? 俺も行ってみたいけど、無理だな、バカだから」
「大学で、もっといい男見つけてさ、そいつのとこ行かれたら……俺、絶対泣くと思う。でも、今はこうでも、委員長のためなら頑張れるよ。仕事して、真面目に生きて……料理してる姿、見てみたいな。エプロンは、何色が似合うかな……やっぱり黒かな。委員長、黒が似合うんだ。ほんと、かわいかったよ」
蝉の声が、どこまでも続いている。季節だけは何も知らない顔をしていた。
「……このまま歩いて、海まで行こうか。夜になっちゃうかもしれないけど、着いたら、あのときできなかった花火、やろう。線香花火、どっちが長く持つか、勝負しような」
ふと笑い出す。乾いた声で。
「あ……あは、あはははは……っ」
委員長を背負いながら、俺はただ、ひたすらに海を目指して歩いた。足の感覚はとっくに麻痺していて、腕にももう力が入らない。
やがて、視界の先に淡い光が広がった。潮の香りが風に乗って運ばれ、波の音が耳に届く。
目の前には、あの日と同じ海が広がっていた。
「……委員長は、嘘つきだな」
かすれた声でそう呟き、最後の力を振り絞って、彼女の頬に右手をそっと添えた。その瞬間、俺の意識は、静かに闇の中へ沈んでいった。
目を開けると、白い天井が視界に入った。点滴の音が小さく響く。どうやら病院のベッドの上らしい。
隣に立っていた看護師と目が合うと、彼女は一瞬動きを止めたあと、驚いたような顔でどこかへと走って行った。少しして、白衣を着た医者が現れ、その後ろから父親と、スーツ姿の見慣れない男たちが二人入ってきた。空気が重くなる。
「意識ははっきりしていますか?」と医者が静かに問いかけた。
「……はい」
「記憶の方はどうですか? どこまで覚えていますか?」
「……あまりよく、覚えてないです」
俺の答えに、医者はしばらく沈黙し、それから慎重な口調で続けた。
「落ち着いて聞いてください。今は病院にいます。意識も安定しています。ただ、警察の方が事情を伺いたがっています。何か事件に関係している可能性があるようです。覚えていることがあれば、教えてもらえますか?」
それまで黙っていたスーツ姿の男が、静かに立ち上がった。
「……瀬戸眞人君だね? 私は捜査一課の山本。刑事だ」
その落ち着いた低い声に、俺はうなずくしかなかった。
「突然ですまないが、君には“ある事件”について話を聞かせてもらう必要がある。……現時点で、君には殺人の容疑がかかっている」
男はポケットから一枚の写真を取り出し、俺の前に差し出す。
「この人に見覚えはあるか?」
そこに写っていたのは、あの時、俺が……殴り続けた男だった。
一気に冷たい汗が流れ、心臓が早鐘のように鳴り出す。曖昧だった記憶が、音を立てて蘇ってくる。叫びたくなるほどの嫌悪と恐怖と混乱が、胸の中をかき乱した。
俺はベッドの上でもがき、苦しみ、荒く息を吐いた。父親が駆け寄って肩を押さえ、俺の背を撫でながら「大丈夫だ、落ち着け」と繰り返す。
「……麗華。麗華は……どこにいる……?」
かすれた声でそう問いかけると、刑事は目を伏せたまま静かに答えた。
「……東雲麗華さんは、発見された時には、すでに……」
その言葉の先を聞くまでもなかった。脳裏に、あの白いワンピースが、扇風機の風に揺れていた光景が蘇る。脳が現実を拒絶しようとしても、フラッシュバックのように彼女との記憶が次々と溢れ出し、視界が滲む。
もう二度と戻らない、優しかった時間。それが幻だったかのように、消えていく。
全身の力が抜け、身体が沈み込むようにベッドに倒れ込んだ。
「眞人。辛いかもしれない。でも、これが現実だ」
不意に言い放った父親の声はどこか冷たくも、同情を含んでいた。
「君には、東雲麗華さんの父親を殺害した容疑がかかっている。そして……彼女に何が起きたのか、その真相も、これから調べなければならない」
山本と名乗った刑事は一歩引いて、静かに言った。
「また日を改めて来る。今はまだ思い出せないこともあるだろうけど……思い出せる範囲で、話を聞かせてくれ」
病室に静寂が戻った。ただ、心の中には終わりのない叫びが残っていた。
そこからの記憶は曖昧で、時間の感覚も失われていた。
病室のベッドの上で、ただ淡々と続く取り調べを受ける数日間――まるで夢の中の出来事のように現実味がなかった。時折、看護師の足音や遠くのナースコールの音が、現実へと無理矢理引き戻してくるだけだった。
やがて医者から「退院できます」と告げられたその日、俺はそのまま警察に引き渡された。
そして――
東雲麗華の父親を殺した罪で、俺は懲役五年の判決を言い渡された。
判決が下った法廷で、誰も俺の名前を呼ばなかった。ただ「被告人」として扱われ、過去のすべてが切り離されていく感覚だけが残った。
麗華の笑顔も、声も、指先の温もりさえも、遠く霞んでいく中で、俺は静かに頭を垂れた。