第七章
翌日、関東は記録的な猛暑に見舞われた。照りつける陽射しの中、駅前に立つ彼女の姿が目に飛び込んできた。白いワンピースに麦わら帽子。風に髪を揺らしながら、少し不機嫌そうに腕を組んでいる。
「遅い! こんがり焼けちゃうところだったよ」
冗談めかした声に、俺は少しだけほっとする。
「ごめんごめん」と笑って言いながら、自然と彼女の左手を取った。ぎゅっと握り返される感触が、少しだけ嬉しかった。
電車を乗り継ぎ、ようやく辿り着いた江ノ島の浜辺には、夏を楽しむ人々が溢れていた。照り返す太陽と波の音、子供たちの歓声が混ざり合い、世界が鮮やかに輝いて見える。
海の家の隅に腰を下ろし、一服つけながら委員長を待った。潮風が煙をさらっていく。煙草の火を見つめながら、なんとなくこの夏がいつまでも続けばいいのに、と思った。
「……変じゃないかな?」
ふと声がして顔を上げると、委員長が恥ずかしそうに立っていた。黒いビキニが彼女の白い肌によく映えて、言葉が出なかった。浜辺の喧騒が遠くなるほど、目を奪われていた。
「……可愛いよ」
素直な気持ちだった。包み隠さず、ただそのまま。
委員長は顔を少し背けて、それでも嬉しそうに笑った。その笑顔が、今日という日を特別なものに変えてくれた。
海で泳ぎ、砂浜ではしゃぎ、気づけば太陽はゆっくりと傾きはじめていた。疲れた身体を休めようと、人の気配のない橋の下へ移動した。砂に腰を下ろし、並んで波の音を聞いていると、自然と視線が重なった。そして、言葉もなく唇が触れ合った。
遊び疲れたのか、彼女は俺の肩にもたれながら、穏やかな寝息を立て始めた。潮風が髪を揺らし、時間がゆっくりと流れていく。俺は海を見つめながら、ふと思った。
このまま彼女と未来を歩いていけたら、どんな日々が待っているんだろう。高校を卒業して、別々の道に進んでも、またどこかで一緒に暮らせるだろうか。結婚して、家族になって――そんな未来が本当に訪れるのだろうか。
大きな波が岩にぶつかって砕ける音がして、思考が一瞬で打ち消された。心の奥から不安がせり上がってきて、気がつけば彼女の肩を軽く揺すっていた。
「……どうしたの?」と、彼女は寝ぼけた声で言った。
その無防備な姿に胸が締め付けられる。愛おしくて、たまらなくて、静かに抱きしめた。彼女は驚くでもなく、俺の背中にそっと手を回し、頭を優しく撫でてくれた。
「本当に……どうしたの?」ともう一度、ささやくように聞く。
「……なんでもない。ただ、ちょっと寂しくなっただけだよ」
彼女は微笑んだ。あたたかく、でもどこか切なげに。
「眞人君でも、そんな気持ちになることあるんだね」
「時々ね」
俺はそう言って、もう一度彼女に口付けた。
波音が、遠くから近くへ、そしてまた遠くへとリズムを刻んでいた。夏の終わりを告げるような、そんな音だった。
夕暮れが近づく頃、空は鈍く曇り、やがて雨が降り出した。予定していた街の散策は諦めて、少し早めに宿へ向かうことにした。
夕食を終え、風呂から上がっても、特に何をするでもなく、二人でただぼんやりと部屋で過ごしていた。
「雨のせいで、花火できなかったね」と、委員長がぽつりとつぶやく。
「うん。仕方ないさ、この天気じゃ。また今度だね」と、煙草に火を点けながら答えた。
「悔しいなぁ……。ねぇ、また来週、もう一度ここに来ない? リベンジ花火、しようよ」
「いいね。まだ夏休み、あと一週間くらいあるし」と煙を吐きながら言った。
部屋の明かりは落とされ、静けさの中で煙草の火だけが、淡く揺れていた。
しばらくして、委員長がぽつんと口を開いた。
「ねぇ、眞人君……。いつも手をつなぐ時、なんで右手なの?」
「今まであんまり考えたことなかったけど、言われてみれば……そうだね」
一呼吸置いて、煙草の煙を吸い込むといつもより苦い気がした。
「たぶん、罪の意識なんだと思う。俺、この左手でたくさんの人を傷つけてきた。全部自業自得だけど……委員長にこの手を向けるのが、どこか怖かった」
そう言うと、委員長は一瞬だけ黙り込み、やがて優しく言った。
「私は、気にしないよ。眞人君がどれだけ穢れてたって」
「……きっと、自分の中の問題なんだ」
「私も……もう穢れちゃった。きっと、取り返しのつかないところまで来てる気がする」
委員長の声が、不安に震えていた。
「どうしたんだよ、急に」と問いかけると、委員長は俺の左手をそっと取って、自分の胸に当てた。
外では雨が静かに、けれど止む気配もなく降り続いていた。煙草の火を灰皿で消すと、部屋の中は雨音と微かな吐息だけが響いた。
委員長はぽつりと泣き出した。そっと頬を撫で、「大丈夫だよ」と言うと、彼女は俺の肩に顔を埋めた。
「左手がダメでもいい。自分をどうしても許せなくても……眞人君の右手だけは、私のために使って」
その言葉を聞いて、俺は委員長を静かに抱き寄せた。ただ、窓の向こうで降り続ける雨が止むのを、二人でじっと待っていた。