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第六章

 あっという間に季節は巡り、気がつけば俺たちはもう二年生。クラス替えで委員長とは別のクラスになってしまったけれど、それでも彼女は変わらず、ほぼ毎日のように俺の家に晩御飯を食べに来る。

 今日は振替休日。早朝から彼女は部屋に上がり込み、昨日の残りのカレーを嬉しそうに頬張っていた。

「……やっぱりカレーは二日目が一番だね」

「そりゃよかった。どうせまた全部食べるんでしょ」

「もちろんだよ。あ、そうだ。明日から江ノ島に行きます!」

 突然の宣言に、思わずスプーンを止める。

「また急だね。泳ぎに?」

「うん。泳ぐ。けど今回はなんと……一泊二日のお泊まりです!」

 そう言って委員長は胸を張る。どこか小さな子供みたいな無邪気さがあった。

「へえ。そりゃまた随分張り切ってるね」

「そのために今日は今から買い出し行くから、荷物持ちお願いね」

 この調子で、俺はいつも彼女に振り回されっぱなしだ。でも、不思議とそれが嫌じゃない。むしろ最近は、この生活スタイルも悪くない――そう思えるようになった。

 あの冬の日。彼女の顔に残ったアザが気になって眠れなかった夜もあった。あの出来事以来、委員長の怪我のことは何も語られず、俺も深く聞けないまま時間だけが過ぎた。けれど、少なくとも今の彼女は、カレーを食べながら笑っている。それでいいのかどうかは、まだ自分でもよくわからない。

 家を出ると、世界はすでに夏の色に染まっていた。照りつける日差しにアスファルトが滲み、蝉の声が空を埋め尽くしている。額に浮かぶ汗をぬぐいながら、自転車のペダルを踏んだ。

「後ろ、ちゃんと掴まってろよ」

「はいはーい」と軽く返事をして、委員長が俺の背中に腕を回した。

 二人乗りで坂を下る。風が頬をなで、シャツの隙間をすり抜けていく。すぐ後ろに彼女の気配があって、その身体の重みごと信じて預けてくれているのが分かる。そんな安心感に、思わずスピードを少し上げた。

「きゃー、ちょっと速い」と後ろで笑う声がする。

 ショッピングモールへ向かう道の途中、小さな神社の鳥居が見えた。ふと目をやると、境内の片隅に真っ赤な彼岸花が群れて咲いている。

 休憩がてら近くに自転車を停めて、階段で腰を下ろした。そして、二人でロング缶のコーラを飲んだ。

「……あれ、一本だけ白い彼岸花じゃない?」と、委員長がコーラを口に運びながらつぶやいた。

 俺はポケットからハイライトを取り出し、ライターで火をつける。煙草に火がついた瞬間、彼女の言葉に従って目をやると、確かに赤の海の中で、寂しげに咲く、一輪の歪な形をした白い彼岸花が揺れていた。

 委員長は神社の柵をまたぎ、花のもとへゆっくりと歩いていった。そして、そっとそれを摘み取り、戻ってくる。そして俺の前に立ち、白い彼岸花を片手に、もう片方の手で煙草を指差しながらにっこり笑った。

「交換。一本ちょうだい」

「美味しくないからやめた方がいいよ」

「いつも美味しそうに吸ってるじゃん。私も吸ってみたい」

 白い彼岸花と引き換えに煙草を渡すと、彼女は少しだけ顔をしかめながら火をつけた。咳き込む音がして、肩が小さく揺れた。

「美味しくない……」

「だから言ったでしょ」

 思わず笑いがこぼれ、彼女もつられて笑った。

 コーラの残りを飲み干しながら、ふと視線がぶつかり合う。静かな時間が流れたあと、二人はそっと立ち上がり、古びた狛犬の背後の木陰で唇を重ねた。それはラム酒みたいに甘く、煙草の苦味と混じり合って、夏の午前に溶けていった。

 彼女がそっと笑う。それを見ながら自転車にまたがる。後ろに彼女を乗せ、再びペダルを踏み出す。風が胸ポケットに入れた白い彼岸花を揺らしていた。

 十五分ほど、自転車を漕ぐとショッピングモールに到着した。店内は人で溢れかえり、誰もが誰かと笑い合い、話を弾ませていた。かつての自分にとっては、それはまるで異世界のような光景だった。そんな世界の中に今、自分が自然にいることが、なんだか不思議で、少しだけ誇らしい。

「せっかくなので、水着を新調したいと思います。一緒に見たいから、ついて来て」

 委員長はそう言って、いつものように俺の右手を取った。その力強さに引かれるように歩き出した時、ふと視界の端に映画のポスターが映る。

「ねぇ、その後に映画でも見ようよ」

「いいね! 私、見たいのあるんだ」

「じゃあ、それを見ようか」

 他愛もないやり取りが妙に嬉しかった。こんな風に一緒に過ごせる日々が、ずっと続けばいいと思った。

 水着コーナーに着くと、そこには女性客が多く、なんとなく居心地の悪さを覚える。それでも、手を繋いだままの委員長が、ときおりこちらを振り返って笑ってくれるだけで、少しずつ緊張が解けていくのだった。

「水着、選んで欲しいな。眞人君のも私が選んであげるから」

 そう言われて、俺は学校指定の水泳用水着しか持っていないことを思い出した。

「じゃあ、お互いに選び合って……あとでここで集合にしようか」

「わかった。とびきり可愛いやつにしてね」と、委員長はにっこり笑って去っていった。

 水着なんて自分で選んだことはなかったが、なんとなく黒いビキニが彼女には似合いそうな気がした。一見無口で、芯のある彼女には、派手すぎず、大人っぽさのある黒がしっくりくる。

 数十分後、再び水着売り場の一角で合流する。

「眞人君、選び終わった? ……ビキニ?! 流石に派手じゃないかなあ……」

「でも、とっても良く似合うと思うよ」

 そう言うと、委員長は少し頬を赤らめて、視線を逸らした。

「……そう言うなら、これにしようかな」

 結局、委員長は俺が選んだ黒いビキニに決め、俺も委員長が選んだスポーツブランドの黒い無地の水着にした。

「二人そろって真っ黒。カラスみたいだね」

「無難すぎたかな。もうちょっと冒険してもよかったかも」

「でも、私は嬉しいよ。眞人君とお揃いみたいで」

 そう言って笑う委員長の表情に、夏の光が差し込んでいた。

 その後、併設された映画館に向かい、二人で恋愛映画を観た。ポップコーンの塩気がやたらと鮮明に感じられるほどには、正直つまらない映画だった。だが、ラストシーン。ヒロインが首を吊って死ぬ場面だけは、異様な迫力があって、画面から目を離せなかった。そして、残された主人公がこれからどうやって生きていくのかを想像すると、胸がざわついた。やるせない、というより、何か取り返しのつかないものを見たような気持ちだった。

 映画館を出て、眩しいほどの陽射しに目を細めながら歩く。

「……あの映画、悲しい話だったね」と委員長が言った。

「もっと、ふわふわした恋愛映画かと思ってた。ポスターの雰囲気は明るそうだったし」

「うん。私も、青春ラブコメみたいなのを期待してたから、あんな終わり方するとは思わなかったよ」

 委員長は、どこか寂しそうな笑顔を浮かべていた。

 帰り道、まだ時間があったため、二人で図書館に寄ることにした。

 委員長は、自分で選んだ小説を手に、黙々とページをめくっている。時折、前髪を耳にかける仕草が気になって、俺は何度も視線をそらした。

 俺が手に取ったのは、なぜか「花の図鑑」だった。読んでいるページの隅には、白い彼岸花の写真が載っていた。神社で見つけたのとそっくりな、真っ白な花弁。その横に、小さくこう書かれていた。


綴化(帯化)とは、本来は一本に伸びる茎が、何らかの要因で複数に分岐・融合し、平たく広がるように変形する現象をいう。正常ではない。けれどその形は、時に驚くほどに美しい。


 読み終えた瞬間、胸の奥に、どくん、と音が響いた気がした。正常じゃない。でも、美しい。

 ふと、向かいの席の委員長が、俺の持つ本を覗き込みながら言った。

「へえ、さっきの花ってそういう風に言うんだ……」

「うん。……なんか、変わってるけど、悪くないなって思った」

 彼女は頷いて、また本に目を戻した。その横顔が、どこか遠くを見ているように見えた。

 俺たちは、それから一言も交わさず、日が暮れるまで並んで本を読んでいた。

 あの静かな時間が、きっと、いちばん穏やかだった。

 その後、読書を終えて、委員長を自宅まで送るために図書館を後にした。二人乗りで自転車に乗っていると、前方から歩いてくる見覚えのある男の姿が見えた。あの冬の日、委員長の家で見かけた――おそらく父親だ。

「おい、こんなとこで何やってんだ麗華。図書館行ったんじゃなかったのか。遊んでんならさっさと帰って来いよ」

 その声には怒りと苛立ちがにじんでいた。

「先ほど、図書館で偶然会った友達に送ってもらっているところです。今から帰ります」

 委員長は、氷のように冷たい声でそう言った。だが、その声とは裏腹に、彼女の手が小さく震えているのが俺の背中越しに伝わってきた。

「お前、この前のガキか。連れ回してないで、勉強でもしてろよ」

 その言葉に、頭の奥で何かが切れた気がした。気づけば、拳が無意識に固まっていた。けれど、今ここで殴ってしまえば、委員長の立場がもっと悪くなる――。ぐっと堪えて、深く息を吸った。煙草を吸った訳でもないのに、口から煙が出そうだった。

 黙ったまま委員長を家まで送り届けた。別れ際、委員長は何も言わなかった。ただ、ドアの前で一瞬だけ、振り返って小さく微笑んだ。その笑顔が痛いほど儚く見えた。

 家路を辿りながら、自分の無力さがまた胸に突き刺さる。俺は一体、彼女の何を救えているんだろうか――そんな思いが、いつまでも頭を離れなかった。

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