第五章
雪がちらつき始めた頃から、委員長は学校に来ない日が増えた。最初は、また気まぐれなサボりかと思っていた。でも、妙に気になってしかたがなくなり、ある日、意を決して彼女の家を訪ねることにした。
団地の前に立ち、冷たいインターホンのボタンを押す。しばらくして、見たことのない中年の男がドアを開けた。
「……なんだ、お前」
濁った目と不機嫌そうな声。その顔には、酒と怒りの臭いが染みついていた。
「東雲さんはいらっしゃいますか。同じクラスの瀬戸といいます」
「麗華は、いねぇ。さっさと帰れ」
男は吐き捨てるように言い、こちらを一瞥すると乱暴にドアを閉めた。
その直後だった。中から、くぐもった悲鳴が聞こえてきた。
心臓が跳ね上がる。思わずインターホンを何度も押す。やがて、扉が再び開いた。
「……眞人君、どうしたの?」
そこには、酷く疲れた表情の委員長がいた。右目の上には、赤黒く腫れたアザ。髪は乱れ、服もどこかおかしい。違和感が服のシワや立ち姿から滲んでいた。
「……その顔、どうしたんだよ。誰にやられた?」
「ううん、大したことないの。ただちょっと、転んじゃって……。眞人君こそ、わざわざありがとう。でも……今日は帰って。大丈夫だから」
委員長は笑おうとした。でもその顔は、引きつっていて、どこか泣きそうだった。
「また、学校でね」
そして扉は閉じられた。
何度インターホンを押しても、彼女が出てくることはなかった。
凍えそうな帰り道を歩きながら、俺はただ、自分の無力さを噛みしめていた。
“友達”だなんて言っておきながら、彼女のことを何も知らなかった――それが、ひどく情けなかった。
その夜、俺はずっと眠れなかった。暖房の効いた部屋にいても、寒さが体の芯に貼り付いているようで、布団に潜っても指先がひどく冷たかった。目を閉じれば、あの玄関口で見た彼女の姿が浮かぶ。ひきつった笑顔、傷ついた目元、乱れた髪。転んだなんて、明らかに嘘だ。けれど、俺はあのとき、あれ以上何も言えなかった。
リビングに置いてある固定電話が、鳴った。時計を見ると、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。
画面に表示された名前を見て、息が止まりそうになる。慌てて通話ボタンを押した。すぐに繋がった。
「……もしもし?」
しばらく沈黙が続いた。遠くで、室外機か何かのモーター音が鳴っている。誰も喋らない無音の時間が、心臓を無駄に早く打たせた。
「……眞人君?」
やっと聞こえた声は、か細くて、少しかすれていた。
「……委員長か? 昼間は大丈夫だったのか?」
焦りから声が少し強くなる。彼女は応える代わりに、ぽつりと呟いた。
「……ごめんね。さっきは、ちゃんと話せなくて」
「いや、そんなの……俺のほうこそ、何もできなくて」
言いながら、自分の声がわずかに震えているのに気づいた。あの時、怒鳴り返すことも、家に押し入ることもできなかった自分が、急に情けなく思えてきた。
「……ねえ、眞人君」
「ん?」
「なんで来てくれたの?」
彼女の問いに、少しだけ言葉を選んだ。でも、気取った答えなんか出てこなかった。
「……心配だったから。あんなに、学校休むなんてさ……。何か、放っておけなかった」
通話口の向こうで、何かを飲み込むような音がした。
「……馬鹿だな、眞人君」
「よく言われる」
「でも……嬉しかったよ」
その言葉が、夜の静寂に溶けていく。テレビも音楽もつけていない部屋なのに、不思議と騒がしく感じた。心臓の音が、自分の中で響いていた。
「今は……大丈夫なのか?」
俺は小さな声で訊いた。すぐに答えは返ってこなかった。
「……わかんない。でも、たぶん大丈夫じゃない」
その正直すぎる言葉が、逆に彼女の限界を物語っているようで、胸が締めつけられた。
「それでもさ」
「……うん?」
「こうして話してると、ちょっとだけ、ましになる気がする」
沈黙が、会話以上のものを伝えることがある。その瞬間、俺たちは言葉を挟まないまま、電話の向こうとこちらで、お互いの孤独を見つめていた。
「……眠れないとき、また電話していい?」
俺は思わず言っていた。
「俺も……誰かの声が欲しいこと、あるから」
彼女は答えなかった。でも、しばらくして、小さく、かすれるように呟いた。
「……うん」
それだけだった。だけど、その「うん」は、きっと、何よりも強い肯定だった。
会話はそれきりだった。でも通話は、しばらくのあいだ切れなかった。俺たちは何も言わずに、ただ、お互いの呼吸音だけを聴いていた。画面の数字が時間を刻む。こんなに長く、誰かと黙って通話したのは、初めてだった。
やがて、委員長がほんの少し、寝息を立てはじめた。きっと、向こうはそのまま眠ったんだろう。
通話を切ることもできず、受話器を机に置いた。その後、自分の部屋から煙草を取って来て、ベランダに出た。煙草に火をつけ、一呼吸すると煙は暗い夜に消えていった。どこか遠くで雪が降っているような静けさのなか、少しだけ、まぶたが重くなった気がした。