第一章
鮮やかな桜が満開を迎える頃、誰もが薔薇色の高校生活を夢見て校門をくぐる。諦めていた高校進学も多くの人の力を借りてなんとか叶えることができた。中学生の頃、二度の暴力事件を起こし、何度も補導された。あの頃の自分は、まるで何かを壊すことでしか存在を確かめられないようだった。ニュースにはならなかったが、地元でこの事件を知らない奴はいなかった。
昔から感情の起伏が激しく、自分で自分を抑えられないことがしばしばあった。それでも担任の先生は俺を見捨てずに高校へ進学させてくれた。地元の底辺高校とはいえ、進学者の半数は同じ中学の生徒だったため、状況は何ひとつ変わらなかった。自業自得だと頭では理解していても、胸の奥にはどうしようもない寂しさが残っていた。
入学式を終えて教室に戻ると、クラスのあちこちで楽しそうな会話が飛び交っていた。結局、高校でも友達ができず、一人で過ごすことになるのだろうと諦めかけていたとき、隣の席の東雲という生徒は、誰とも話さずに黙々と本を読んでいた。
彼女は教室の喧騒とは無縁の空気を纏い、淡々とページをめくっていた。手元のペーパーバックには、『アルジャーノンに花束を』と記されていた。そんな姿を見て、孤独であることに何とも思わない人もいるんだなと、ふと感じた。
すると、担任の先生が教室に入ってきた。ざわついていた教室は徐々に静けさを取り戻し、全員が前を向いて着席した。
「今日からこのクラスを担当する道祖土です。皆さんよろしくお願いします」
そう言って、先生は教壇の前に立った。
「まあ、今日は特にやることもないし、みんな適当に帰っていいぞ」と先生は軽く笑って言った。
その言葉にみんなの緊張がほぐれたのか、次第に教室は再びざわめきを取り戻していった。そして、それぞれが荷物をまとめたり、友達と話し始めたり、席を立ったりしていた。
東雲はその言葉を聞くと本を鞄にしまった。無言のまま席を立ち、帰ろうとしているようだった。
どこか自分と似たものを感じた俺は、東雲を放っておくことができなかった。
「なぁ、友達いないのか? だったら一緒に帰ろうぜ」
気づけば、俺はそんなふうに話しかけてしまっていた。
それを聞いた彼女は、一瞬だけ驚いたような顔をした。それから彼女は、「いいよ」と、くすっと笑いながら言った。
荷物をまとめて校舎を出ると、外は淡いオレンジ色に染まっていた。
彼女と何を話せばいいのかわからず、脳内でひたすら会話のシミュレーションを繰り返していた。好きな本のこと? それとも、出身中学のこと? でも、そんなの興味なかったらどうしよう。一言目を発する勇気がどうしても出てこなかった。
そんな俺を彼女は察したのか、「今日は話しかけてくれて、ありがとね」と言った。
「うん、こちらこそ」
「じゃあ、私こっちだから。また明日ね、瀬戸君」
そう言って、彼女は軽い足取りで歩き出した。
俺はただ、その背中を見送るしかなかった。「瀬戸君」って呼ばれたの、いつぶりだろう。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなっているのを感じた。
翌日、教室に入ると、東雲はすでに登校していた。彼女はいつものように隣の席で本を読んでいたが、俺に気づくと、すっと顔を上げて、微笑んだ。
「おはよう。眞人君」
一瞬、心臓が跳ねた。俺は昨日の帰り道を思い出しながら、ぎこちなく返した。
「あれ、俺、下の名前って教えたっけ?」
東雲は小さく笑って、本を閉じた。
「クラス名簿に書いてあるよ」
それだけのことなのに、なんだか嬉しかった。自分という存在を、ちゃんと見てもらえている気がした。
「そういえば、名前まだ聞いて無かったね」と俺は東雲に聞いた。
「東雲麗華です。よろしくね」と言って彼女は手を差し出した。細くて、白くて、ふわっと温かそうな手だった。
一瞬、ためらったが、俺もそっと手を握り返した。
「瀬戸眞人……よろしく」と俺は言った。
「眞人君は私のことなんて呼んでくれるの?」
「そのうち考えておくよ」
「考えておいてね」と彼女は言った。
退屈な授業が終わり、放課後の委員会決めの時間になった。誰も手を挙げなかった学級委員長の席に、東雲が突然名乗りをあげた。
高校に入学してから、一ヶ月と少しが経った。東雲のことは、いつの間にか「委員長」と呼ぶようになっていた。けれど彼女は、学級委員長という立場でありながら、ときどき学校を休む。サボっているのか、理由があるのか、それはわからない。
ただ、誰も気に留める様子はなく、それが当たり前のことのように受け入れられていた。結局、みんな自分のことで精一杯なのだ。人のことなんて、さして興味はないのだろう。
教室に入ると、今日は委員長の姿が目に入った。
「お、委員長、今日はちゃんと来たんだな。サボらずに」
俺がそう言うと、彼女は読みかけの本をそっと閉じて、ふわりと笑った。
「サボってるわけじゃないんだよ」
その口調はいつも通り淡々としていて、どこか掴みどころがない。
学級委員長ではあるけれど、彼女はいつも本ばかり読んでいて、友人らしい友人もいない。相変わらず、教室の中でひとりだけ、ぽつんと浮いているように見えた。
「左手、また怪我してるよ」
「ん、これは料理中に切っちゃってね」
「眞人君、料理なんてしなさそうなのに」
彼女は俺の傷だらけの左手を、どこか哀しそうな目で見つめていた。
「右手は、とても綺麗なのにね」
「左利きだから、どうしてもこっちが荒れちゃうんだよ。……まあ、それより俺が本当に許せないのは、嘘をつく奴なんだ。もし委員長が嘘つきだったら、特別にこの綺麗な右手でしばいてやるよ」
そう言って冗談めかして笑うと、彼女はふふっと笑って、静かに言った。
「じゃあ、私、しばかれちゃうかもね」
「……委員長は嘘つきなの?」
「さあ、どうだろうね。そろそろ先生来るよ」
そう言って、彼女は微笑んだ。その笑顔は、ふとした瞬間に思い出してしまうほど、鮮烈だった。だけど、それを彼女に伝えてはいけない気がして、俺はその想いを胸の奥にしまい込んだ。
授業が終わり、それぞれが部活や委員会へと足を向けるなか、自分には向かうべき場所がなかった。どこに行くわけでもないが、とりあえず街をぶらつこうと思い、帰り支度を始める。
「眞人君、一緒に図書館寄っていかない?」
声の主は、やはり東雲だった。委員長とは名ばかりで、ああ見えてけっこう寂しがり屋だ。意外と高い頻度で、どこかに誘ってくれる。
「今日は用事があるんだ。ごめんな」
そう言うと、彼女は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「じゃあ、また明日ね」
その笑顔が、なんだかやけに眩しく見えて、少しだけ胸が痛くなった。
特にあてもなく街を歩き、いつものゲームセンターに入る。店の入り口から一番奥にある、人気のない筐体の前に腰を下ろした。
ポケットから取り出したハイライトに火をつけ、煙を吐き出しながら、百円玉を投入口に落とす。
曇った瞳で対戦画面をぼんやり眺めていると、不意に肩を掴まれる感覚が走った。その瞬間、意識が一瞬だけ途切れた。気がつくと、床に倒れ込んでいた。視界の先には、三人の男がこちらを見下ろしている。
鋭い痛みが頬を襲い、熱を持った感覚がじわりと広がっていく。重たい身体をなんとか起こし、左の拳に力を込めた。そのまま一人に狙いを定めて、思いきり拳を振り抜いた。鈍い感触と共に、相手の鼻血が拳に飛び散る。鉄の匂いが鼻をかすめた。
結局、こうなるんだな。そんな諦めとも開き直りともつかない思いが頭をよぎった。
残りの二人と取っ組み合いになり、ただただ身体を動かした。殴られ、蹴られ、押し返す。全身に血が巡り、頭の奥が熱くなる。瞳孔が開き、世界がスローモーションのように広がっていく。今なら、なんでもできる気がする。そんな錯覚に支配されながらも、やがて店員と警察が現れ、その幻想はあっけなく終わりを迎えた。俺は、取り押さえられた。
取り調べを終えて帰宅する頃には、すでに空はすっかり夜の帳に覆われていた。街灯の明かりがまだらに照らす歩道を歩いていると、前方に制服姿の生徒が見えた。どこか見覚えのある後ろ姿。近づくと、それはやはり東雲だった。
時計を見ると、針は夜の十時を指していた。
「委員長、こんな時間に何してるの?」
声をかけると、彼女はぴくっと肩を震わせ、こちらを振り返った。
「うわ、びっくりした…… 眞人君こそ、こんな時間に何してるの? それに、袖……血がついてるよ。怪我してるの?」
そう言って、委員長は俺の左手をそっと取った。その目は真剣で、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「……いきなり絡まれたんだよ。たぶん、中学の時の同級生だと思う」
なるべく軽く言ったつもりだったが、彼女の手のぬくもりが、逆に痛みを強く感じさせた。
「委員長こそ、何してたんだ?」
「図書館に行ったあと……ずっと歩いてた。家に帰りたくなくて」
彼女は、ふっと目を伏せた。
「お母さんは夜の仕事でいないし……再婚したお父さんのこと、好きになれないの」
その言葉に、俺の中で何かがひっそりと共鳴した。誰にも言えない寂しさや、家にいることが息苦しい感じ。わかる気がした。
「……だったらさ、うちでご飯でも食べていけば?」
言ってから、自分の体温がじわっと上がるのを感じた。緊張のせいか、顔が熱い。
「……いいの? 嬉しいな」
委員長は、子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。その笑顔に、胸の奥が不思議と軽くなる。
自宅へと並んで歩きながら、ふと、彼女の手を繋ぎたいという衝動に駆られた。だが、傷だらけのこの左手が、それを許さなかった。この手で繋いだら、彼女まで汚してしまいそうな気がした。
「お邪魔します」
「この時間は誰もいないよ。何か適当に作るから、座って待っててよ」
委員長は遠慮がちにリビングのソファへ腰を下ろし、リモコンを手に取ると、テレビのスイッチを入れた。画面から流れる薄ぼんやりとした音が部屋に広がる。
その間にキッチンへ立ち、冷蔵庫の中を確認する。手慣れた手つきで玉ねぎとにんじんを刻み、鍋に火を入れる。じゅうっと油のはねる音がして、次第にごま油の香りが部屋を包み込んだ。
「今日はカレーね」
「ありがとう。何か手伝う?」
「テレビ見てていいよ」
肉を切っている最中、ふとゲームセンターでの出来事が脳裏によぎる。血の匂い。拳に残る感触。あの時、体中を駆け巡った興奮が今もどこかに残っている。もしかして、あれが本当の自分なのかもしれない。そんな思いが一瞬よぎって、鍋の中の具材をかき混ぜながら、心の奥がじわりと冷えた。
「委員長、カレー出来たよ」
「眞人君って料理するんだね。意外」
リビングから歩いてきた委員長は、ほんの少し嬉しそうな顔をしていた。
「まあ、親父はほとんど家にいないからね」
「……誰かと晩御飯なんて、久しぶりだな」
その言葉に、思わず心が静かに反応した。俺も、誰かとちゃんと向き合って食事をするのは、いつ以来だろう。
「結構辛いけど美味しいよ」
彼女はそう言って、リスみたいに両頬をふくらませてカレーを口いっぱいに頬張る。その姿があまりに自然で、思わず小さく笑ってしまった。
「ところで眞人君はさ、どうして人を傷つけるの?」
不意に投げかけられたその言葉に、思わず返事が詰まった。しばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「……昔から、この方法でしか自己表現できないんだ」
「そうなんだ。でもね、もっといい自己表現の方法、私知ってるよ」
彼女は、まるで秘密を打ち明けるみたいに微笑んで続けた。
「私、本が好きなんだけど……読むだけじゃなくて、実は書いたりもするの。自分の中で昇華しきれない感情を、文章にすることで整理してるって感じかな」
「ふーん、いい趣味だね」
気恥ずかしくなって、少しだけそっけなく返す。
「眞人君も一緒にやらない?」
「何を?」
「だから、書くの。一緒に小説とか日記とか、文章を。なんでもいい。絶対、そのほうがいいと思うんだ。眞人君に合ってる気がする」
「俺が……?」
予想もしなかった言葉に、思わず変な声が出た。
「うん」
「……考えておくよ」
そう答えながら、なぜか胸の奥がふわりと温かくなった。
「それより、そろそろ帰った方がいいんじゃないか。家の近くまで送るよ」
委員長を家の近くまで送り届けたあと、提案された“意外な方法”に困惑しながらも、どこか心が躍っている自分に驚いた。