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綴化  作者: 沼下 百敗
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第九章

 雑居房の薄暗い壁に映る影は、日々少しずつ伸びては消えていく。俺は左手にできた小さな擦り傷をぼんやり眺めながら、天井のひび割れを数えていた。刑務所の時間は長く、だが重くはなく、ただ無為に過ぎていく。

 ある夜、目を閉じると、突如として鮮やかな光景が俺の意識を満たした。蝉時雨の音とともに、夏の匂いが鼻をくすぐる。そこに立っていたのは麗華だった。制服姿の彼女は記憶よりも少し大人びていて、微笑みながらこちらを見つめていた。

「眞人君……遅かったね」

 あの頃の柔らかな声が、まるで風のように耳に響く。俺は驚いて目を開けると、そこはもう夢の世界だった。

 目の前には、夏の駅前のロータリーが広がっている。通り過ぎる人々の笑顔、太陽に輝く自販機の赤、遠くで揺れる信号機。

 麗華が手を振る。俺は慌てて駆け寄った。

「待った?」

「ちょっとだけ」

 二人で肩を並べて歩き出す。何でもない帰り道だが、今の俺には特別な時間だった。

「ねえ、花って時々、奇形に咲くことあるんだって。まっすぐじゃなくても、それって、ある意味で特別じゃない?」と麗華は道端に咲いている白い花を指差した。

「変わってるけど、なんだか綺麗だな」と俺は言った。

「ねぇ、眞人君。私、今度の文化祭で短編小説を書いて発表するんだ」

 嬉しそうに話す麗華に、俺は少し照れながらも「見に行くよ」と答えた。

 帰り道の途中、公園のブランコで二人並んで揺れた。あどけなさがまだ残る彼女の笑顔は、どこまでも眩しかった。

「昔はさ、もっと人に話しかけるのが得意だったんだよね」

「今は、変わったの?」

「変わったっていうか……怖くなったのかな。でも、眞人君のおかげで昔の自分に戻れたよ」

 彼女はその言葉に照れ笑いを浮かべていた。

「もし、私がずっと一緒にいられたら、どんな未来があったんだろうね」

「きっと、ずっと楽しいよ。俺が守るから」

 俺は胸の奥にあった決意を、はじめて彼女に見せた。


 キャンパスの並木道を歩く二人。麗華は笑いながら俺の腕にそっと触れる。麗華は文芸サークルで短編小説の冊子を作っている。

「最近、長編小説も書いてみようかなって思ってるの」

 俺は麗華の隣を歩きながらあくびをした。

「その時は読ませてくれよ」

「約束だよ」

 その後、近くのカフェで珈琲を飲みながら、冗談を言い合う。

「もし結婚したら、どんな家庭にしたい?」

「うーん、眞人君はきっと子どもに甘々だよね」

「麗華は叱れなさそうだけど」

「でも、笑顔の絶えない家にしたい」

 夢の中の麗華は、誰からも傷つけられることなく、心から幸せそうだった。


 白いチャペル。麗華は純白のウェディングドレスを纏い、俺の前に現れた。涙をこらえながらも、優しく微笑むその姿は、まるで天使のようだった。

「眞人君、ずっとあなたのそばにいると約束します」

「麗華、君がいるだけで、俺はもう何もいらないよ」

 誓いの言葉の後、二人は緊張しながらも満面の笑みで指輪を交換した。参列者からの祝福に包まれ、麗華は眞人の耳元で囁く。

「ありがとう。生きててよかったって、心から思えるよ」


 ある日、ベランダに洗濯物を干す麗華。その音で目が覚める。朝の光が差し込むリビング。焼きたてのパンの香りが漂う中、麗華がにこやかに俺を迎えた。

「おはよう。昨日の原稿、書けた?」

「うん、君のアドバイスのおかげで進んだよ」

 休日には一緒に料理を作り、時にはささいな喧嘩もするけれど、夜にはいつも笑顔でお互いの手を握り合った。

「今日はどこに行く?」

「公園でピクニックがいいな」と大きくなったお腹をさすりながら麗華が笑う。

「眞人君、こんな毎日が続いたら幸せだね」

 俺は彼女の頬に右手をそっと添えた。


 それは、何気ないけれどかけがえのない幸せの連続だった。そこで夢は静かに終わり、俺は目を覚ました。雑居房の冷たい空気が、夢の温かさを無情に奪い去る。

 「君がいなくても、俺の中で君は生きている」

 自分に言い聞かせるように言ったその言葉は、現実の冷たい壁を溶かし、希望の光を灯していた。


 あの日、海で麗華と別れてからどれほどの時間が経ったのだろう。四季がいくつ巡ったのかも曖昧なまま、俺はただ無機質な日々の中にいた。

 ある日、面会に訪れた父親が、一冊の文庫本を渡してきた。

 表紙の擦り切れたその本を見た瞬間、胸が締めつけられた。それは――麗華がいつも持ち歩いていた、小さな本だった。

 震える指先でページをめくると、日記が書いてあった。彼女の、誰にも見せなかった心の断片が、そこに静かに残されていた。


『四月 九日

 今日は初登校日だった。期待していたわけじゃないけど、やっぱり心のどこかで「誰か一人でも友達ができたらいいな」って思ってた。でも、現実は甘くなかった。教室はざわついていて、みんな既にグループになっていて、私だけがぽつんと取り残されてる気がした。隣の席の瀬戸君は、そんな私に声をかけてくれた。「一緒に帰ろう」って、急に誘ってきて正直驚いた。でも、不思議なことに彼はあんまり話さないんだ。歩きながらも、ほとんど無言で、私だけが話しかけてる感じ。ちょっと変わってるなって思ったけど、なんだか可笑しくて、思わず笑いそうになった。瀬戸君は、少し怖いところもある。目つきが鋭いし、何を考えているのか分からなくて怖かった。でも、その目は決して冷たいわけじゃなくて、むしろ優しい光を秘めていた。私には見えない何かを知っているような、そんな眼差しだった。初めて誰かに声をかけられた日。怖さと戸惑いと、ほんの少しの安心が入り混じった、不思議な気持ちの一日だった。』


『四月 十日

今日は、みんなの前で委員長に立候補するって決めた。正直、自分でもなぜこんなことをするのかよくわからない。ただ、あの役割を引き受けることで、みんなに「強い私」を見せられる気がした。本当は、すごく不安で怖いのに。誰にも見せたくない弱さが胸の中にあって、それがバレたら壊れてしまいそうで。だから、委員長の立場を盾にして、弱い自分を隠しておきたい。私がしっかりしなきゃって思うほど、心の奥はどんどん小さくなっていくけど、

それでも誰かに頼ることはできない。誰にも弱いところを見せられない。この仮面をかぶっていれば、少しは自分を守れるかな。誰かの期待に応えるふりをして、自分を騙しているのかもしれないけど。それでも、今はこれが私のやり方。強くなりたい。強く見られたい。誰にも気づかれないように。私の痛みも、涙も、すべて隠したままで。』


『五月 十一日

 今日は、久しぶりに誰かと一緒にご飯を食べた。

それだけで、胸の奥が少し温かくなった気がした。眞人君の作るカレーはびっくりするほど辛くて、思わず咳き込みそうになったけど……隣で眞人君が無言でモグモグ食べてるのを見てたら、なぜか可笑しくなって、笑ってしまった。彼は、相変わらず無口だけど、そこにいてくれるだけでなんだか安心する。声をかけたら、ちゃんと答えてくれるし、目が合うと、ちょっとだけ優しい顔をしてくれる。たぶん、味なんてどうでもよかったんだと思う。眞人君と一緒に食べられたことが、嬉しかったんだ。だから、辛かったはずのカレーも、美味しく感じた。また、食べたいな。今度は甘口がいいな――って、心の中で小さく呟いた。』


『七月 二十七日

 今日は、眞人君と一緒にお祭りに行った。こんなふうに誰かと夏祭りに行くなんて、何年ぶりだろう。いや、もしかしたら初めてかもしれない。夜の空気はじんわりと湿っていて、屋台の灯りが揺れて見えた。たくさんの人がいて、ちょっと緊張したけど、隣を歩く眞人君の背中を見てると、なんとなく安心できた。射的では思わず声が出ちゃって、子どもみたいに笑ってしまった。あの時、眞人君もちょっとだけ笑ってくれた気がする。ベンチで、履いていた下駄の鼻緒が切れちゃって、立ち止まってたら、彼が何も言わずにしゃがんで、「乗って。歩けないだろ」って。おんぶなんて、恥ずかしかった。背中から伝わる体温に、心臓がドキドキして止まらなかった。けど……嫌じゃなかった。むしろ、嬉しかった。ずっと、このまま帰れたらいいのに、なんて思ってしまった。最近、眞人君のことが気になる。無口で、ぶっきらぼうで、ちょっと怖いと思ってたはずなのに、気づけば彼のことで頭がいっぱいになってる。なんでだろう。なんだか、胸がふわふわして――少しだけ、痛いような、甘いような。これが「好き」ってことなのかな。……まだ、分からないけど、もう少しだけ、この気持ちのままでいたい。』


『八月 五日

今日は……今日は……。もう、最悪。ほんとに、最悪だった。あんなの、望んでない。どうして……? なんで私ばっかり、こんな目に遭うの……? お風呂に入っても、全然綺麗にならない。何度も身体をこすったのに、肌がヒリヒリするくらい洗ったのに、ダメだった。心の中に残ってる汚れは、全然落ちてくれない。鏡の前に立つのが怖い。自分の顔を見るのが怖い。あのときのことが、何度も頭の中で繰り返される。忘れたいのに、忘れられない。閉じ込めたいのに、隙間から滲んでくる。「私が悪いのかな」って、また考えてしまう。ちゃんと断れなかったから? 声を出せなかったから? ……でも、怖かったんだよ。どうしたら、綺麗になれるの?どうしたら、元に戻れるの?いつか、ちゃんと笑える日が来るのかな。誰か、教えて。お願い、こんな私でも――大丈夫だって、言って。』


『八月 六日

今日は、水族館に行った。眞人君と。二人きりで。水の中をふわふわ泳ぐ魚たちを見てたら、不思議と心が静かになった。くらげがゆらゆら漂っていて、まるで時間までゆっくりになったみたいだった。その隣で、眞人君も静かに水槽を見ていて……なんだか、その背中がとても優しく思えた。途中で笑ったり、無言になったり、ちょっと気まずくなったりもしたけど、全部が、すごく大切な時間だった。本当に……忘れられない一日になった。帰り道、夜の風が少し冷たかったけど、隣に眞人君がいてくれて、それだけで温かかった。この気持ち、うまく言葉にできない。胸が、ふわふわして、でも少し苦しくて、どう書いたらいいのか、まだわからない。だから、また今度ちゃんと書こう。ちゃんと、自分の気持ちと向き合える日に。今日はただ……ありがとう、って書いておこうと思う。』


『十月 二日

今日は、眞人君から本を借りた。あの眞人君が、読書をするようになったって聞いて、ほんの少し驚いたけど……それ以上に、すごく嬉しかった。だって、前に私が小説が好きだって言ったこと、覚えててくれたのかなって思ったから。本のタイトルを見たとき、「え、これを選んだんだ」って、ちょっとだけ胸が熱くなった。私が大切に思ってた物を、彼が触れてくれてる気がして。たとえそれが気まぐれだったとしても、私の影響だったら――そうだったら……ちょっと誇らしい。ううん、すごく誇らしい。読み終わった後に話せたらいいなって思って、「これ、すごく好きな物語なんだ」って言った。

それから……それから、ちょっとだけ、言いすぎちゃったかもしれない。まるで、告白みたいなこと。眞人君、どう思ったのかな。黙ってたけど、嫌じゃなさそうだった。けど、分からない。気になる。怖い。でも、知りたい。……こんな気持ちになるなんて、ほんと、私どうかしてる。でも、今日は嬉しかった。本当に、すごく。』


『一月 二十六日

痛い。汚い。つらい。身体が痛いのか、心が痛いのか、もうよくわからない。なんで私、生きてるんだろう。どうして私ばっかり、こんな目にあうんだろう。誰にも言えない。誰にもわかってもらえない。

わかってほしいのは、たった一人――眞人君。助けて。声に出せたら、どんなに楽なんだろう。でも出せない。出したら、壊れてしまいそうで。今の私じゃ、眞人君の隣に立つ資格なんてないよね。汚れてしまった。全部。心まで。けど……今日は、初めて、ほんの少しだけ抵抗した。怖かった。手を振り払った瞬間、殴られた。痛かった。震えが止まらなかった。だけど、私の中の何かが、たしかに叫んでた。「もう嫌だ」って、「これ以上壊されたくない」って。眞人君に胸を張れる自分になりたい。けれど今は、まだ遠すぎる。でも、ほんの少しだけ、今日の私を褒めてあげたい。泣きながらでも、怖くても、それでも私は――立ち向かったんだから。』


『八月 十二日

今日は、初めて煙草を吸ってみた。……うん、美味しくない。全然。むせちゃって、喉がヒリヒリする。あんなの、どうして眞人君はいつもあんなに美味しそうに吸えるんだろう。不思議。なんだか、大人びて見えるんだよね。あの横顔。ちょっとだけ憧れちゃう。でも、やっぱり私にはまだ早いかな。たぶん、背伸びしたかっただけなんだと思う。今の自分を、少しでも変えたくて。強くなれたらって。ほんの一瞬だけでも、大人になれた気がしたくて。黒いビキニ、やっぱりちょっと恥ずかしかったなぁ……。鏡の前で何度も見て、やっぱりやめようか迷ったくらい。もう少し痩せないと、似合わないよね。でも――「似合ってる」って、眞人君が言ってくれた。たった一言だけど、それだけで嬉しかった。』


『八月 十三日

海。ただそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいんだろう。きっと、それは眞人君と一緒だったから。潮の匂い、遠くで響く波の音。熱い砂浜、きらきらと跳ねる水しぶき。全部が映画みたいで、夢みたいだった。でも、これは現実。眞人君が隣にいる現実。それが、嬉しくて嬉しくて――胸がぎゅっとなった。水着、似合ってたかな。少し恥ずかしかったけど、眞人君が目を逸らさずに見てくれたこと、気づいてるよ。言葉には出さなかったけど、その視線が、私を肯定してくれたような気がした。笑った。たくさん笑った。水をかけあって、ふざけ合った。眞人君の瞳の中に映る私は、ちゃんと笑えてたかな? 心から。橋の下で声に出せなかった言葉が、胸の中でぐるぐる回っていた。だけど、ひとつだけ確かな気持ちがある。――もしも、このまま眞人君とずっと一緒にいられたら、って思った。嫌なことも、全部忘れられる気がした。苦しかったこと、怖かったこと、あの部屋の匂いも、父の手も、眞人君の隣にいれば、ぜんぶ遠くへ消えていくような気がした。楽しくて、穏やかで、安心できる毎日。そんなの、きっと夢物語だってわかってる。でも、それでも私は信じたい。信じたいよ。だって――今日、私は幸せだったから。たぶん、今までの人生でいちばん。ねぇ、眞人君。私ね、本気でそう思ってる。

本気で、あなたと生きていきたいって思ったんだよ。ありがとう。今日という日をくれて。私、これから何があっても、この一日だけは、絶対に忘れない。』


 涙が止まらなくなって、とうとう途中で読むのをやめてしまった。ページの向こうに息づいていた委員長の声が、もう聞こえない。

 あの日、もしほんの少しでも長く、彼女のそばにいてあげられていたら……。あのとき気づいていれば……。後悔が波のように押し寄せ、胸を激しく締めつけた。

 気がつくと、俺は取り乱しながら文庫本を床に落としていた。落ちたその本の背表紙に、小さな文字が走り書きされていた。

 「これで私の物語はおしまい。次は君の番だよ、眞人君。今までありがとう。大好き。」

 それを見て、目の前がぼやけた。

 父親との面会が終わっても、俺はずっと泣き続けた。涙はやがて枯れ果て、ただ空っぽな自分だけがそこにいた。それでも何かをしなければならないという想いだけが、まだ胸の奥に残っていた。そして、俺は右手で鉛筆を取った。今度こそ、彼女に応えるために。

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