表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
After Surf ...  作者:
9/45

影干しされてしまいそうだった。数日が過ぎても路地裏の行き止まりから一歩も動けない夏男。影社会で生きていかざる負えない。醜い顔を抱えたままどこにも行けない夏男に、いっくんは朝と夜の二回、ドッグフードを持ってやってきた。

いっくんはドッグフードを差し出して、夏男に「お手っ」と言う。夏男は複雑な気持ちを抱えながらも素直に手を出す。そして、悪魔は夏男の頭を撫でて「ああ、いい子だ」と誉めた。そして、夏男はドッグフードにむさぼりつく。喉が渇けば、バケツの水を飲む。ぴちゃぴちゃと舌の先で水を舐める。水が揺れる。バケツに張った水面の影が歪み、波打つ水溜りに夏男の顔がうつしだされる。醜い人面犬の顔が影に染められ、水面の揺らめきにぼやけながら醜く歪んでいく。その自分の醜い姿を見ては、夏男はどこにも行けない自分の、誰にも見られたくない存在を知る。

首輪をされてどこかに繋がれている訳でもない。だから、こんな路地裏から逃げ出したければ、逃げ出すことなんて簡単な筈。ただ歩き出せばいい。ただ、それだけなのに・・・・夏男は歩き出せずにいる。人間でもなければ犬でもない、醜い醜い半端な自分の姿を太陽の下に晒すことを考えると恐ろしくて、恥ずかしくて、死んでしまいたくなる。どこにも行けない。どこにも行けない・・・・。


悪魔が差し出す餌を食べ、ただ日陰で生きながらえ、バケツにはった水にうつる醜い自分を嘆きながら生きている。夏の男の象徴であるアロハシャツは時が経って秋になり、冬になれば、場違いで滑稽な格好になってしまうだろう。でも、そんな嘆くだけの日々は長くは続かなかった。現実は抱えきれないほどの痛みを哀れな存在に容赦なく叩きつける。生きていく意味のないような命に注がれる社会からの残酷裁きが下される・・・・。


夏男に一通りの初歩的な躾を終えた悪魔が吠える。


「この役立たず」


悪魔が自分のペットの顔面に唾を吐く。そして、夏男の体を何度も蹴り上げる。


「てめぇは、一体、餌食うばかりで何の役に立つんだ」


いっくんは、夏男の体に痛みを植えつけようとする。夏男は暴力の前に無力な犬である自分に怯えた。


「タダで餌食わせてる訳じゃねーんだよ」といっくんは何度も何度も夏男を痛めつける。痛みが体中の関節から涙のように流れ落ちる。どこにも行けない夏男は、怯えながら痛みに打ちのめされる。こういうのをペットの虐待と呼ぶのだろう。もしくは、「ペットの」という形容詞を排除して、純粋な虐待と呼ぶのかもしれない。力なきものを一方的に痛めつける行為。夏男は、体中にアザをつくって小刻みに震える。


「お前は、100の生命を助けるって俺様から課せられたお役目があんだ、それはどうなってんだ、あんっ?」と悪魔は吠えながら暴力に訴える。夏男は暴力の前で震えるしかない自分の存在を、昔いじめていたいじめられっ子達の姿に重ねた。

震えが止まらない。

いじめとは、自分に自信がある人間には与えられない刑罰で自分に自信のない人間に課せられた社会からの拷問なのだろうか。いや、違う。卑怯で弱みにつけこむことが大好きな悪魔が弱き存在を探し出して快楽を得る方法をいじめというのだろう。

いっくんは、弱き夏男を見て気味が悪いくらいに微笑む。

夏男は、人面犬に成り果てた自分に全くもって自信がなかった。そんな思い込みがイジめられていることに反抗できない自分を作る。

震えが止まらない。

目の前には卑怯な悪魔がいる。暴力の前で膝まづき、一日でも長く生きられることだけを願う哀れなイジメられっ子に夏男はいつの間にかなってしまっている。本当は、いじめられる前に噛みつけば・・・・・悪魔にすら恐怖心を植えつけられるのに。でも、今の夏男は悪魔に噛みつく勇気を持っていない。あるのは自己嫌悪だけ・・・・いや、自己が犬になって尾っぽ振ってるだけの自己犬尾か・・・。

震えが止まらない。そして、いっくんは、夏男に餌を与えるのを止めた。途端に夏男は飢えた。

震えが止まらない。震えが止まる瞬間が一瞬たりともない。ただ、目の前にある現実が怖い・・・。



夏男は、路地裏の影に溺れながら、何も口にできない日が続いた・・・・。

夏男は、悪魔の姿を路地裏で探した。しかし、悪魔の姿はどこにもない。悪魔が残した訳のわからない課題だけが、むなしく脳裏をよぎった。夏男は飢えた胃の叫びに体を蝕まれながら、絶望する苦しみから逃げるように行き止まりの路地裏から歩き出した。

悪魔ですら餌をくれない現状。

生きていかざるおえない生命の衝動。

自分の足で餌を探すしかない。

夏男は何気なく見たニュースで語られていた社会問題化しているニートについて思い出したりした。親のスネ・・・・いや違う・・・・悪魔のスネでもかじれるものならかじりたい。でも、スネをかじらせてくれる悪魔なんぞいない。かじらせてくれるのは肉親だけだろう。夏男は、母を想う。売れ残りの唐揚げでも息子のために持って帰ってきてくれる。その意味を少しだけ知る。鬱になっても息子の存在をかろうじて覚えている母親。忘れられないだけマシかもしれない、この腐った世の中で・・・・。


食べ物がない現状・・・・でも、生存本能が、夏男を餓死させてはくれない。自らの力で歩き出さざるおえない状況を自立というのだろう。それがこんなに早く来るなんて思ってもみなかった・・・・。

生き残らざるおえない今という時間に早いも遅いもない。路地裏の日陰を後にする夏男の後姿を、影に隠れながら、いっくんは氷の表面がどろっと溶け出すような表情で眺めていた。路地裏にいるだけでは飢えて死ぬ。生きるために食べ物を探しに出るしかない夏男・・・・・・。そして、人に戻るには、悪魔に与えられた意味不明な課題をこなすしかない。冷たい表情がどろっと夏の熱気に溶けた笑みだけが路地裏に残る。


「なかなか調教は順調じゃないか?」と悪魔エリート大学に進学した先輩は、いっくんに言った。真面目で知られていた同じ高校の先輩で有名校に入った後、大学デビューをしてチャラくなった。いっくんは、コネもエリート街道を登る上で重要だと考え、そんな先輩に表向きは、従順だが心の中で軽く馬鹿を見下すような目線で見ている。そして、「先輩のアドバイスのお陰で」と思ってもない言葉を返した。その言葉に釣られて「俺の推薦入試はな・・・・」と先輩が偉そうに成功談を語ろうとするが、いっくんは、聞いてるフリだけをしておいて、手帳を広げて親からもらったお小遣いの収支を見た。

夏男に餌をやるのは親のスネかじりでは、後数日が限界だった。自分のお小遣いを確保するには、この辺が潮時だった。有名大学に入学した後、遊び呆けている先輩の自慢話は続いているが、いっくんは、話も途中に無言でその場を去っていった。入学するだけで満足しているような奴には、鼻から用はないとでも言わんばかりに。



「わん・・・」


夏男は力のない声で小さく吠えた。弱弱しい自分の声がいつまでも心に響いた。どこに行けばいいのかもわからないまま、夏男は、閑静な住宅街を抜け、山腹にある草に覆われた東勝寺跡の前をとぼとぼと歩き、『高時腹切やぐら』と呼ばれる場所までやってきた。


元弘3年、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府が滅び・・・時の荒波に飲まれ、歴史の海に沈み、滅亡した鎌倉幕府執権北条家。

鎌倉幕府設立後、頼朝との間に産んだ子が全て死に絶え、受け継がれなかった源家の血筋を想う母政子は何を考えたのだろう。

鬱になったかもしれない。

由比ガ浜に救いを求めたかもしれない。

そんな彼女は自分と頼朝の子が全て死に絶えた後、源家の血を完全に排除し、権力のみを受け継いだ。

そうするしかなかったのだろう。

そのなれの果ての北条家高時一族870人が自害した場所が、腹切りやぐら。鎌倉の歴史・・・・・。

虫の羽音、蝉の鳴き声、小鳥のさえずり、遠くで鳴くカラスの声が、腹切りやぐらのある山に響く。木々で覆われたその場所には冷たい影が広がり、涼やかな霊気が漂っていた。土だらけで、泥だらけの地面。そんな場所を彷徨えば、自分が871人目になって自害してしまいたいと夏男は思った。消えてしまいたい・・・・・・と夏男は喘ぐ。


山肌をくり抜いた大きな穴がある。それが、腹切りやぐら。追いつめられた北条家一族は、その穴の中に身を委ね、そして皆、死んだ。命あるものは、いずれは皆死ぬが、穴の中で自分に刃をつきたてて死ぬというのは、あまりに物悲しい・・・・。

夏男は、その穴に近づくのを恐れた。それは本当に肌に鳥肌が浮ぶような冷たい霊気を発する穴だった。

夏男は、やぐらを遠くから見つめる。夏男は、自分の心にぽっかりと空き続けてきた穴によく似ていると思った。その穴は背筋が疼くほど冷え切った暗闇を有していて、致命的なほど深いように思えた。夏男は、腹切りやぐらみたいにあいた自分の心の穴の中にいろんな感情を捨ててきた。そして、その穴の奥深くに投げ込んだ感情を感じることは二度とないと夏男は思った。取り戻すには、夏男自身がその穴に落ちていかなければならないから。穴に足を踏み入れるということは、生きてきた過去の苦しみをひとつひとつ思い出し、人格を構成する要素を片っ端から粉々に砕いて、粉末の毒を作るようなもの。苦しみしかない過去を思い出す行為は毒を飲んで自殺するのと何等変わらない。人は、背負った苦しみを忘れる努力をして生きている。人面犬になってもそれは、変わらない。


そよ風が吹いた・・・。


そして、夏男の体を覆う毛を揺らした。


深くて暗い穴を前にして何を思えばいいのかもわからないけど・・・父ちゃんがいれば、犬になんてならなくてよかったんじゃないか・・・・・夏男は、そんなことを思った。

夏男の足の裏は泥だらけ。山道の地面はぬめり、すべった。

胸がぎゅーっと締めつけられる。心持ちとは裏腹に夏男の空腹な意識が朦朧と溶けはじめる。

死ねばこの空腹も楽になるのだろうか。

夏男は、穴に向かって一歩足を進ませた。しかし、その一歩が軽い衝撃を地面から虐待を受けた体中の筋肉と関節に響かせ、悲鳴をあげさせた。そして夏男は我に返った。死ねない。死ぬにはあまりに若すぎる。腹きりやぐらが夏男にそう言っていた。そよ風が吹いてくる。死んで全てを終らすこともできずに、気を持ち直すと今生きている自分の環境がより苦しくなった。悪魔に追い込まれた行き場のない醜い自分が「もし・・・・だったなら」なんて、センチメンタルな詩を過去を書き換えるために書かせようとするが、そこにはたった一つの言葉すら浮んでこない。仮定の世界で生きられればどんなに楽だろう。いや、仮定がなくてもいい・・・・家庭があれば・・・・。

行き詰った気持ちを言葉にできない自分がつらい。夏男はたまらなくなって、悔しくて、苦しくて、穴に向かって大声で叫びたくなった。


「わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」


霊気が漂う場所、木々の葉の間から見える太陽に向かって夏男の遠吠えは響いた。ずっと路地裏の日陰に隠れていた夏男の体が太陽の眩しい光に馴染めずにいた。山に生い茂る木々が作り出す陰とその合間から零れ落ちてくる夏の光・・・・。葉という葉に光があたり、葉は、みずみずしさを光に含ませて反射させる。その無数の輝きに目を細めながら、夏男はもう一度力の限り吠えた。


「わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」


何を思えばいいのかもわからない。でも吠えずにはいられない。どれだけ吠えたところで、夏の日差しに醜い顔が馴染まない。夏男の遠吠えの余韻が辺り一面に響き渡り、山に生える青草の匂いと一緒に夏男の心に重く残った。その余韻が少しずつ時間の中に飲み込まれては、消えていき、響き渡った遠吠えの最後の一言が空の下でぷっつりと途切れるとともに、人間が絶叫する声が辺りに響いた。


「人面犬やぁぁぁぁぁああああああ」


夏男の呼吸が一瞬止まった。視点が固まり、瞳孔が開いた。

今まで影に隠れていた自分の醜い姿を、木漏れ落ちる光の下で誰かに見られた。夏男はその声を聞いた瞬間に自分の顔を見られまいと本能的に下を向いた。そして、体を震わせ、怯えながら地面を見ながら必死に走り出した。逃げなければ・・・・。


「人面犬がおるぞぉぉぉぉぉ。人面犬やぁぁぁぁぁぁぁぁ」


誰かが騒ぐ。その誰かがどこにいるのかは夏男にはわからない。

夏男は、歯を震わせながら必死に下を向く。背の高い草が鬱蒼と生い茂るだけで何もない山肌、東勝寺跡のどこから聞こえてくるその声。その騒がしさから夏男は必死に逃げた。でも、足音が夏男の背後についてくる。追って来る足音と絶叫する声は別々のところで響いているような気がした。どこだかわからない遠くて近い場所から人面犬を叫ぶ声が聞こえるのに、夏男の真後ろに夏男を追う足音がぴったりと貼りつくようにくっついていた。

夏男は、追われていることに恐怖を感じた。走ることが苦しい。それでも夏男は息を切らせながら、泥だらけの腹切りやぐら前を転ばないように必死に走った。

苦しさは走る程に増していく。

夏男は、山を降り、アスファルト道路へと至った。足裏は泥だらけでコンクリートを踏みつけた時に夏男はコケた。アスファルトと足裏にこびりついた土が馴染まない。

夏男を人面犬と叫び続ける誰かの声はまだ聞こえる。でも、コケた瞬間に夏男を追いかける足音は消えた。夏男は気づく。すぐ後ろで自分を追いかけていた足音は、四本ある足の後足二本だったことを・・・。

焦りは自分の足音すら他人の足音のように夏男の鼓膜に響かせていた。

犬である自分を再認識させられた。

夏男は、コケて擦り剥いた体を持ち上げて、夏の太陽に焼かれた熱いアスファルトの上を下を向きながら再び走り始める。

夏男は涼しげに流れる滑川にかかる小さな橋を越えて、路地裏を探した。また影へと逃げ込んだ。また・・・太陽の当たらない場所に醜い自分を隠した。足の肉球が感じていた熱は、急激に冷めていく。その消えゆく温度を追うようにして、夏男は、路地裏の影に身を隠しながら、必死に自分の存在をこの世から消そうと努力する。ただ、そうしようとすればする程、意識も現実の世界も、今まで生きてきた自分の過去も、全てが辺りに漂う夏の蒸気に蒸されて揺らめく感覚を味わう。不安定な自分の存在を影に押し込みきれない。腹きりやぐらから走ってきた後遺症・・・・呼吸困難が夏男の喉を締め上げた。

視点があわない夏男。

よろめきながらふらつきながら路地裏にうづくまる。脱水症状を起こしながら、夏男は大量に汗をかく。喉の渇きに喘ぎながら、水分を失い切ろうとする夏男の意識と体は湯気を出しながら朦朧としていく。目に映るもの全てが歪む。夏男は、影に馴染みきれない自分の体をひきずりながら何度か移動させる。そして、最終的に路地裏の太陽の温もりが届かない日陰の中でも最も冷たい日陰の上に横たえた。

その瞬間に、カタッ・・・・カタカタカタッ・・・・と物音がする。心臓が一瞬止まる。ふらついていた夏男の視点が音の鳴る方向に定まる。路地裏の小さな石ころが路地裏を抜けていく風に弄ばれ、転がっていく音だった。夏男は音を恐れるようになる。物音を聞くと本能的に逃げ出そうとする。耳に残る残響が自分の存在を再認識させる。そして、恐怖が蘇る。


「人面犬やぁぁぁぁぁああああああ」


倒れ込んだ夏男、もう一ミリも動けない。だが、体は一ミリ刻みに細かく震える。音のない世界で死んでしまいたい・・・・。もう、誰かが自分のことを人面犬と呼ぶ声は聞きたくない。夏男は、怖くて震える現実から逃げるようにして気を失った。失った意識の中で、夏男は過去を思い出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ