表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
After Surf ...  作者:
7/45

 眠りから意識が目覚める瞬間、夏男は、はりついた瞼をゆっくり引き剥がすように目を開けた。傷口に当てた絆創膏を引き剥がす様に目覚めが痛い。頭も頭蓋骨が真っ二つに割れそうに痛い。寝ぼけた意識を覚まそうとして、神経を一本一本ちぎりとられているような痛みを感じる。それらあらゆる種類の痛みを未熟な感受性で受け止めようとした。

 が、全くうまくできなかった。痛みは大きく、それは夏男の全てを圧倒していた。その圧倒的な痛みの奥の奥の中心に、眠っている間に見た夢が、寝ぼけ途中の夏男の意識の中で・・・まだ眠っているように思えた。

 それは痛みの膜で覆われ、その痛みを突き破るような激しい痛みを伴わなければ目覚めない、起こせない、思い出せないような種類の夢であるように思えた。

 夏男は、その夢を思い出すことを恐れ、静かにまばたきをくり返し、痛みを避けるようにして自分が現実世界で目を覚ましたことを何度も確かめた。夢が現実で、現実が夢であるような現実がそこにはないことを確かめたかった。

 夏男の体は冷たい汗で覆われていた。

 しかし、尻の穴だけは妙に熱い。寝ている間に暑さに蒸された体、熱帯夜にあたためられた内臓の体温が湯気を出していて、肛門から放出される。

 内臓の肉のくさみが穴の置くから臭う。動物が生きる上での体内における水分以外のあらゆる全ての不純物を排出する場所が蒸された汗に疼く。冷め切る前の熱気ほど臭いものもない。

 夏男は自分が体の匂いに敏感になっている気がした。嗅覚がきく・・・。

 体の表面は、冷え切っている。でも、内臓はのぼせている。しかし、熱い体の奥底の背骨が凍っているような感覚が体から離れない。

 冷たかったり、熱かったり、凍えたり、全てをうまく把握できなくなっている。熱気と冷気が夏男の体でミルフィーユを作る。起き上がったこの世界で確固とした実感が掴めない。でも、臭いだけは強烈に夏男の鼻腔を正確に抜けていく。

 現実を織り成すあらゆる全ての臭いを本能が嗅ぎ分けようとする。そうすることで、現実を認識しようとする自分がいることに夏男は戸惑った。


 「一体、俺はどんな夢にうなされていたんだ・・・・」と夏男は、心の底の水溜りに一滴の雨が降るような小さな声で呟いた。雨が水面に落ちた後、そこには波紋が広がり・・・・夢の余韻が思い出せもしないのに体中に広がった。


 夏男は壁に掛かっている安価なアナログ時計を見た。まだ朝の5時半。母ちゃんはまだ眠っている。夏男は窓の隙間から入ってくる夏の早朝のまだ熱しきってない若く冷たいそよ風を吸い込んで、力なく吐きだした。喉が死ぬほど渇いていた。夏男の存在の全てが、その喉の渇きによって枯れ果ててしまいそうだった。水分が蒸発してしまうように、夏男の存在の全ては、痛みの膜で保護された場所に隠された夢によって蒸発してしまいそうだった。火のついた練炭がくすぶるようにして、その夢が体の奥底で煙をあげている。

 夢。

 思い出せない夢が夏男の感覚の全てを狂わせて、汗をかかせていた。夢は、夏男を蒸し、そして冷ました。それを繰り返す。夏男の生存本能は、困惑し、金縛りにかかったように動けない。だが、本当に死んでしまいそうな程に喉が渇いていた。

 夏男は、水分を欲し、目眩にふらつく意識と微かに痙攣する体を力づくで布団から起こして、台所まで水を飲みに行こうとした。疲れているのだろう。二本足で立つ力もない。這いつくばって前に進む。這いつくばりながら見る光景に少し違和感と新鮮さを感じる。視線の低さが妙に気に掛かる。


這いつくばって前に進む夏男は、ふと台所の脇にある壁掛け鏡を見た。そして、生まれてきてから今までに覚えた全ての言葉という言葉を脳内から失う。その鏡の中に、言葉では表現できない痛みが凝縮されていた。鏡の中にある激しい痛みによって夢を覆っていた痛みの膜が破ける。思い出せなかった夢が、脳髄から漏れて、体の隅々の神経まで行き渡る。

 夏男は、痺れを伴うその痛みにうめく。目が潰れそうになる現実が左右逆さまで鏡に映し出されていた。夏男は鏡に映る激痛に気を失いかけ、体を支えられなくなりそうになる。

 が、首を横に振りながら、鏡にむかってガンをとばした。持てる力の全てを眉間にしわ寄せして鏡を睨みつけた・・・・。

 夏男は、「あんっ?」と顎を前に突き出し、首を横に傾け、鏡を下から上に見上げて強がり、そして吠えた。でも、夏男の耳に聞こえた夏男の声は「わんっ!」という犬の吠え声だった。夏男は、その自分の声を聞いた。気絶寸前の力を失った瞼が重たくなる。夏男は目を閉じ、暗闇の中で崩れ落ちた。何もかもが痛かった。痛みに耐えられなくなって泣きそうになった。痛みの膜が破れた音の余韻が夏男の中で響いていた。その奥にあった悪夢がありありと夏男の記憶の中で蘇る。悪夢は目覚めた現実に浸食していく。心の奥底から滲みだした悪夢と今ここにある現実が混ざり合い、何が夢で何が現実なのか・・・区別がつかなくなった。

 鏡には、人面犬になった夏男が映し出されていた。


夏男は人面犬にされた自分の姿を、もう一度鏡の中で確認する勇気を持たなかった。

 「嘘だろ・・・」と言ってしまいたい衝動に駆られた。だが、夏男はその衝動を抑えた。言葉を口に出したくなかった。声を出せば、自分の喉の奥から自分の耳の奥の鼓膜に聞こえてくるのは悪夢の続き、「わんっ!」であることはわかっていた。

 声をもう一度出した瞬間に悪夢が現実を完全に飲み込むだろう。目の前に広がる現実が嘘じゃないことは夏男自身が一番よくわかっている。誰が何と言おうと、誰がどんな見解を述べようと、誰がどんな批判をしようと、誰がどんな軽蔑をくれようと・・・・自分の目の前にある現実を本物の事実として認識できるのは自分しかいない。それが嘘じゃないことは自分が一番よくわかっている。悪夢な現実が自分をリンチしようとしている現状を、囲まれた夏男が・・・・・一番よくわかっていた。しかし、信じてしまいたくない自分が未練がましく夏男の中にいる。夏男は、目を閉じて、黙ったまましゃがみこんだ。


夏男は、アロハシャツを着た柴犬になっていた。どうせならただの柴犬になりたかった・・・・。凛々しく澄んだ瞳で遠くを見据え、美しい毛並みを風になびかせ、耳をつんと立てて、太い尻尾をくるっと巻いて優雅に携えた柴犬。賢く無駄吠えなどもせずに、勇敢な気質を持ち、4本の足の筋肉でしなやかに力強く地を蹴り走る姿は、天然記念物になる程に昔から日本人に愛され続けてきた。そんな強くたくましい理想の柴犬になれるのなら良かった。素朴で飾り気のない犬。外国から輸入されてきた犬のような派手さや見栄えもない。でもその柴犬の持つ純朴さは、遠い昔から日本人がこの島国の上で品格や威厳として大切にしてきた大和魂の根源に通じるもの。

 夏男は、顔を上げ恐る恐る鏡を見る・・・。鏡に映るアロハシャツを着た柴犬は知性が足りないように見えた。顔は柴犬の名残りと夏男の人間としての表情が混ざり合った半分犬で半分人間の出来損ないの人面犬。中途半端な自分の存在が顔に浮かび上がっているのがわかる。三流ホラー映画のゴーストのメイクの失敗作のようで、ドラキュラにも狼男にもなりきれていない。夏男の瞳がシールを貼っつけたように柴犬の目元にくっついていて・・・しかも糊付けが悪く、その両目はいつめくり上がって風に飛ばされるかわからないような感じ。更には、可愛らしい犬の丸っこい鼻が少し高くなって形の崩れた三角に・・・。そして、歯並びも犬の鋭い犬歯はなく、人間と犬の歯並びを混ぜ合わせてぐちゃぐちゃ。そんなあまりに醜い自分の柴犬姿に夏男は吐き気を催す。でも、昨夜何も食べていない夏男の胃からは何も吐き出せない。吐き出せてしまえたら楽なのに・・・とすら思う。

 夏男は、目を開き、もう一度だけ鏡に映る自分の姿を目の端っこで見た。鏡に映る夏男の姿も夏男のことを目の端っこで見ていた。


「今までもそうだった・・・」と夏男は自分に言い聞かせるように、声に出さない声で自分に喋りかける。

 ずっと・・・ずっとずっと・・・・左右逆さまに映る自分の姿を鏡の中に見るのが怖かった。悪事を働けば働くほど、そこには悪事を働きたくないと思う自分の姿が映されているように感じて、つっぱればつっぱるほど・・・・素直になりたい自分が鏡の中にはいたような気がする。鏡は全てを左右逆さまに映す。だからこそ赤裸々に全てを映しだしているように思えた。自分の弱い部分が包み隠すこともできずに、モロにうつしだされているような気がしていた。自己嫌悪の仮面をかぶってクールを装って鏡の前に立てば、素直な自分の気持ちが鏡の向こうの向こうの向こうに見える気がした。何もかもが矛盾だらけ。鏡に映る自分と鏡を見つめる自分、どっちが本物なのかわからずに、いつまでも鏡を直視できずにいたら、気づけば鏡にうつしだされる左右逆さまの自分が半端で醜い人面犬になっていた。


夏男は、目の端っこで鏡を見ることをやめる。そして、震えながら鏡を真正面から見てみた。何かをじっと見る時、夏男は睨みをきかせずには見ることはできない。目を細めて、斜めからガンをとばさずにはいられない。小刻みに震える夏男は鏡の中にいる人面犬の自分にガンをとばした。

 鏡の中の自分が自分に対してガンをつけ返してくる。お互い威嚇して睨みあう。夏男は鏡と睨みあう自分に底のしれない寂しさと孤独を感じた。夏男は睨みをきかせて鏡を見つめたまま動けずにいた。睨まなきゃ負けてしまいそうな気がした。強がりな瞳が涙で溢れてしまえば、夏男が小さな人生と短い時の中で積み上げてきた全てが音を立てて崩れ落ちてしまうような気がした。

 夏男は人面犬の自分にガンをたれ続けた。泣かないようにつっぱった。鏡の中の人面犬も泣き出しそうだったが、夏男は睨み続けることをやめなかった。鏡の中の自分も同じ事をしていた。左右逆さまで。



睨むことしかできな現実に空腹が奇襲をかける。昨夜、母ちゃんにキレて、そのまま無理矢理に空腹に締めつけられる胃を押さえ込むようにして、頑張って眠った。

 スーパーの売れ残りの鶏の唐揚げが小さなちゃぶ台の上にまだ残っていた。

 夏男は、4本足で這いつくばりながら、ちゃぶ台のところまで戻り鶏の唐揚げを求めた。寝る前に見た唐揚げはギッドギッドの油と衣に包まれていた。でも、今、夏男の目の前にある唐揚げの油と衣は干からびていた。唐揚げは死んでいるように見えた。チキンとして死に、唐揚げとして死んでいた。死後硬直した唐揚げ。

 夏男はその二度死んだ鶏の唐揚げを、ちゃぶ台に前足をのせて立ち上がりながら、むさぼり食べた。立ち食いするチキン唐揚げ。味なんてなかった。そこには二度死んだ鶏の、味のない死体の意志みたいな無機質な感覚だけがあった。

 ムシャ、ムシャ、ムシャ、ムシャ。

 夏男は、空腹を満たすためだけに肉を食した。


夏の朝の六時・・・・もう夜明けとは言えない程に光に満ち溢れている。アパートの脇には、花が好きな大家が植えた朝顔がその花を咲かせていた。朝露が葉の上から一滴零れ落ち、それに呼応するように一滴の言葉が夏男の前で零れ落ちた。


「夏男?」


 その声に、だるく生暖かい熱帯夜の名残りが残る空気が凍りついた。


 時間すらも凍りつく・・・。


 悪夢を見てから、短い時間の間に色んなものが凍りつく。

 母ちゃんが物音に気づき、目を擦りながら、自分の意識を探るようにして夏男の名前を呼んだ。母ちゃんの声を聞いて、夏男の心臓は破けてしまいそうな程、激しく動揺した。

 体内を殴りつけるような心臓の動悸が痛い・・・。

 こんな惨めで醜い姿を母ちゃんに見られたくはない。夏男はそう思った瞬間にちゃぶ台を蹴り上げ、走り始めていた。

 擦り切れきってしまってつるつる滑る畳の上をぎこちない4本足走行の足取りで走り、ボロアパートの玄関へと向かった。

 なぜだか玄関の扉には鍵がかかっていない。その上、半開きになっていた。思い出せば、悪魔が悪夢の中で夏男を連れ去る時のままだった。扉は悪魔が開けたまま、誰にも閉められずに、呆然と開いたままになっていた。


「夏男?」


 母ちゃんがもう一度夏男の名を呼んだ。

 その声は遥か遠いオトギの国から聞こえたように思えた。

 醜い、中途半端な人面犬になった自分を見れば、母ちゃんは泣くだろう。夏男には母ちゃんの涙を見るのが、どうしようもなく辛かった。いい子になれないからこそ、母ちゃんが泣くといつも苦しくなる。なんで、こうもどうしようもない、手のつけられないような現実だけが世界中に散らばっているのだろうか・・・・。大人になりきれていない夏男に、その原因はわからない。夏男は訳がわからず2階建ての安アパートの階段を降りた。そして路上に出て、名残惜しそうに振り返り、自分の家を見た。

 もうあの場所には帰れないのだろうか・・・・。

 夏男は、「母ちゃん・・・」と静かに母を呼んだ。

 思い出にすがるようなその声が自分の心にだけ響いた。

 夜は消えるようにして終わっていた。

 夏の早朝、昇りたての太陽の光はまだ少しだけ冷たかった。

 逃げるしかない現実が世界の果てまで広がっているような気がした。そんな手に負えない現実の中で、夏男は人面犬として街に出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ