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After Surf ...  作者:
41/45

 大仏様の大きな掌に包まれながら、柔らかな暗闇の中に落ちていく夏男の意識は既に熟睡状態。

 熱帯夜続きだった人面犬になってからの日々、ずっと寝不足が続いていた。今まで何度も暗闇の中で見つけてきた絶望を、落ちていく眠りの中で夏男は見つけることはなかった。

 今、身を委ねている柔らかな闇には一カケの苦しみの破片も存在しなかった。安らぎが夏男の疲れきった体を癒す。暗闇という羊水に沈んでいく胎児のように夏男は、深い深い眠りに落ちていく。暖かな感覚に包まれ、夏男の人面犬ライフが終わっていく・・・。人面犬としての夏男は、大仏の心のうちで成仏し、夏男は人間として生まれ変わる。母親のお腹の中にいる赤ん坊のように小さくなった夏男の新たな命が、少しずつ鼓動して大きくなっていく。

 闇の向こうに懐かしい何かを夏男は感じた。あの薄汚いアパートの生活の匂いだった。そのボロアパートの台所から小気味いい音が聞こえてきた。その音に耳を澄ませば、包丁がまな板の上で軽やかなリズムを奏でながら何かを切っている音だった。夏男が意識を浸している暗闇が薄らいでくる。

 闇を消していくのは、あの懐かしい匂いのする帰るべき場所の窓から差し込む朝の光なのだろうか・・・・。

 熟睡している夏男を無理矢理起こして遊びたがる小さな子供のような夏の朝の輝きが金髪坊主の夏男の周りではしゃぎまわる。

 夏男は、自分が人間に戻っていることを眠りの奥底の感性で感じ取った。そして、今という朝は、夏男が人面犬に変えられてしまったあの夜を乗越えた翌日の早朝であることを夏男は悟った。大仏様が、中学生の夏男の夏休みを一日でも無駄にしまいと夏休み初日に時間を戻してくれていた。

 流れる時を逆流させる大仏様の反則技・・・許される行為ではないが、無数の悪魔を退治することができたことに対する感謝の印として鎌倉仏委員会、満場一致の賛同によってその反則技は承認された。

 長谷寺の観音様が、夏男の意識の遠くの遠くで、「ちゃんと夏休みは勉強して、皆に追いついて、せめて高校くらいは出なさいよ。そうした方がいいと思うぞ。もちろん、それが全てじゃないが」と夏男に小言を言ってるのがなんとなく聞こえた。夏男は、その小言に苦笑いする。自分の学力には全く自信がなかった。その苦笑いを見て、長谷寺の観音様は、言葉を付け加えた。「勉強することが偉いんじゃなくて、とりあえず自分なりに色んなことを頑張ってみることが大切なわけだ。逃げずにな。色んなことに頑張ってみなさい。勉強、運動、恋愛、遊び、そして、もちろんこれから始める運命になるサーフィンも。偏っては駄目。一つを頑張って、他を疎かにすれば、いつか過去を後悔することになる。だから、全部に全力で頑張りなさい。全部を頑張れないなんて言い訳をするような年じゃないんだから。若い生命の力には果てがないんだから。自分の人生に対するへ理屈や言い訳なんて考えてる暇がないくらいにがむしゃらに生きなさい。そして、色んなことを頑張ることで多くのことを得ていく。それが喜びとなり、頑張ることが苦しくなくなる。もっともっと、もっともっと自分を成長させたくなる。そして、将来、海のように大きな心を持てるいい大人になりなさい、夏男。悪魔を退治してしまうくらいのお前さんなら、もうわかってると思うけど」


 夏男は、その言葉には寝返りを打ちながら素直に肯いた。


狭くて、ボロいけど温もりのある家の台所からは優しいリズムがテンポよく聞こえてきた。夏男はそれを心から欲していた。


「夏男、いつまで寝てるのよ。夏休みだからっていつまでも寝てて良い訳じゃないのよ」と母ちゃんの声が聞こえた。母ちゃんの声を聞いて、夏男は、眠りの中で涙を流した。その声が聞きたかった・・・。ずっと戻りたかった場所に戻ってきたんだと夏男は震える心を優しく撫でながら泣いた。

 心の水溜りは、涙の水溜り。

 その涙の水溜りに、また涙が降り注ぎ、美しい波紋を心に広げていく。

 夏男は、すぐに目をあけたくてもあけられない・・・。仰向けに寝ている自分の目尻に溜まった涙が布団に零れてしまう。泣けば、母ちゃんを心配させてしまう。悪夢を見た子供を母は守ってくれるだろう・・・・・でも、夏男は、悪夢を見たことを母に隠して、笑っていたかった。


母ちゃんが久々に手作りの朝ごはんを作ってくれている。夏男は、涙を全て心の水溜りに零れ落とし、少しずつ静かに目を覚ました。

 悪夢が幕を下ろし、自分が生きるべき世界がそこには広がっていた。その小さくて安くてボロい1DKのアパートには光が溢れていた。夏男の瞳は、その溢れる光を眩しくも嬉しく心の中に受け入れた。その光の向こう側に、我が家の黄ばんだ天井がある。仰向けに寝ている夏男はその天井を見つめて、自分が帰るべき場所に帰ってきたことを実感した。


「夏男」と、母ちゃんの声がもう一度聞こえた。

 もっと自分の名前を呼んで欲しい。

 もっと、もっと何万回でもいい、母ちゃんが自分の名前を呼ぶ声が聞きたかった。やり過ごした筈の涙がまた少し夏男の瞳に溜まる。夏男は、静かに身を起こした。この現実でもう一度起き上がるべき時がきた。

 夏男は、布団から上半身を起こす一連の動作の中で、さりげなく、バレないように涙を拭いた。夏男が寝ていた布団の脇にちゃぶ台が置かれていて、その上に炊き立てのご飯と、ネギと豆腐と厚揚げと他にも具がこれでもかというくらい一杯入った温かい味噌汁、おひたし、そしてハムエッグに納豆がお膳立てされていた。

 冷え切った売れ残りの唐揚げはもうなかった。

 目を覚ました夏男に、母ちゃんは、「顔を洗ってきなさい」と言う。夏男は素直にそれに従って台所で顔を洗った。暑い夏、水道から出る水が冷たくて気持ち良かった。そして、顔を洗った夏男はタオルで顔を拭きながら、恐る恐る壁に掛けられた鏡を見つめた。最後にその鏡で見た自分の姿は、人面犬だった。でも、今朝は金髪坊主、中学三年生の夏男の姿がその鏡には映し出されていた。夏男は安堵し、鏡に映る自分に生まれて初めて微笑みかけた。鏡の中の自分も笑ってる。なんだか嬉しかった。


母ちゃんは食卓についている。夏男は、急いでちゃぶ台に戻った。母ちゃんは夏男を見た。その母ちゃんの顔がとても愛しかった。たった二人の家族・・・・。でも、二人が揃えば幸せな朝の食卓の風景がそこに広がる。


「夏男。昨日、お前に言われて母ちゃん気づいたわ。鬱病の影に隠れて、気づいていたのに・・・色んなことに気づかないフリしてたわ。子供の前で哀れな自分を演じてみたりして・・・どうしようもない母親だったね。夏男の言葉が胸に突き刺さった時、もう逃げ切れないところまで来たんだってわかったの。これ以上、逃げたら夏男が潰れてしまうって・・・気づいた。もう手遅れかもしれないけど、今更ながらでもいい母ちゃんになれるように頑張らなきゃ・・・って思ったわ。頑張ったって何も変わらないって諦めてたけど、何もしないで自分を哀れむことで側にいてくれる人を傷つけるくらいなら、駄目でも頑張ろうかなって。たった二人の家族だもんね。二人で生きていくしかないんだもん。なのに、たった一人の可愛い息子にスーパーの売れ残りの唐揚げを週に何度も食べさせちゃって・・・・母ちゃん、お前に言われてはっとしたわよ。ああ、母ちゃん、甘えていたんだって。ちゃんと息子に温かいご飯を食べさせてあげなきゃって。そして、温かいご飯を食べる子供の顔を見るのが・・・・・きっと私にとって何よりの幸せなんだって」


 母ちゃんは夏男の目をしっかりと見ながら話した。夏男はやっぱりじっと見つめられるのが恥ずかしくて、視線を味噌汁に落として、夢中で具を口にかきこんだ。母ちゃんは少し寂しそうな思いを言葉に滲ませながら、夏男に語りかけた。


「夢を見たわ。夏男がいなくなった夢。母ちゃん、一人で鎌倉の花火を見に行ってるの。あんなに悲しい花火は見たことなかったわ。寂しくてどうしようもなかった。きっと神様か仏様が教えてくれたんだろうね、夏男が私にとってどれだけ愛しく、大切かを・・・。自分のこのちっぽけな命を捧げても・・・あなただけは、生きていて欲しいと思った。あなたがいてくれた幸せな日々がどれだけ尊いものなのか・・・今更ながらやっとわかったの。夏男は私の全てなんだって。あなたがいてくれるから私は生きていけるの。あなたが生まれてくれたから、孤独を感じ続けていた私は本当の幸せを手にすることができたんだって・・・」


 夏男は、母の言葉を一つずつ噛み締めながら、炊き立てのご飯に納豆を掛けて食べた。ゴミばかりを漁って食べていた頃・・・・・こんな日が来るとは思わなかった。母ちゃんは涙を溜めながら、夏男の姿を見続けていた。それでも夏男はやっぱり照れくさくて、母ちゃんの目を見れず、ハムエッグの半熟の黄身を箸で突っついた。黄身がじわっっと白身の上に広がっていく。


「夏男、ありがとね。あなたが小さい頃からこの駄目な母ちゃんを必死に守ってくれてきたことに・・・今更ながら気づいたわ。いや、気づいていたけど、気づかないフリをしていたのね。相変わらず自分の馬鹿さ加減に頭が来るわ・・・。夏男は、誰よりも優しくて純粋な心を持っていることを、たった二人の家族の母ちゃんが信じてあげられなかったら、誰が信じてあげるってのって感じよね。あなたを悪魔と呼ぶ人間がいる。でも、あなたが悪魔じゃないことは私が一番よくわかっている。夏男は・・・・母ちゃんを守るために悪魔になろうとしたんだよね。もう二度とそんな思いはさせないから・・・馬鹿で無力な私だけど、この命を懸けてもあなたを守ってみせるわ。ごめんね、いつも母ちゃん、鬱っぽく泣いたりして。もう薬も飲まない。強く生きる。母ちゃん、これから頑張るから許してね」と母ちゃんが申し訳なさそうに夏男に言うと、夏男は、「母ちゃんは、ずっと頑張って俺を育ててくれたから・・・」と小さく返した。母ちゃんはその夏男の言葉に少しの安堵感を混ぜながら、優しく笑った。

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