④
「問題は鎌倉仏委員会だな」といっくんは呟いた。
いっくんは噛まれた右足に包帯を巻きながら苦痛に顔を歪めつつも、優秀な脳みそ内の思考回路をぐるぐるにかき混ぜる。どろどろになった思考を欲望という卵黄と一緒にかき混ぜて、ホイップクリームのように甘くした時の悪魔の思考はとてもじゃないが食べられるものではない。見た目は、ヨダレが出るほど甘そうなのだが、食べれば中毒を起こし吐き気を催す・・・そして体は激しい痙攣を起こした後に動かなくなり硬直していく。脳みそをかき混ぜる悪魔の目の前に広がる夏の夜の闇は濃く、そして後味が粘りつくように暗い。右足に巻いた包帯は、止血しきれないドロドロとした血液で黒く滲み、生臭ささを夜の闇に漂わせていた。
「あの鎌倉の大仏が俺のことをずっと監視しているのはわかってる。その監視下でもこれだけの成績を上げられるのは悪魔高校界広しといえども俺くらい。ただ、あの老いぼれパンチパーマを油断させない限り、俺の大学受験はうまくいかない。老いたとはいえ、やはり奴の力は圧倒的。でも、あのパンチパーマを騙すくらいのことは英才教育を受け続けたこのエリート悪魔の俺にとっちゃ何でもない筈。完璧な未来を描けるのはエリートだけの特権であり、その特権行使を邪魔するものは誰であろうと蹴落とす。そうやって競争社会において勝ち残り、俺は悪魔社会で王になるんだ」
いっくんは、小田原から鎌倉への帰り道、国道134号線の上に血を滴らせながら歩いた。
ぽた・・ぽた・・とコンクリートとに打ち付けられて潰れる血液の雫の音が夜の歩道に響く。いっくんは、背中に風呂敷の包みを担いでいる。その包みは重たく、歩くのはつらいが・・・痛みのあまり体が痺れ、軽い目眩を起こしていて、翼を広げて空を飛ぶことができない。痺れた体が空中で痙攣を起こせば墜落してしまう。
小刻みに震え続ける足で硬い道路の上を歩かざるおえないという現実は、あまりに苦しかった。そんな翼をたたんだいっくんは、苦しみをオブラートさせるような妄想を必死に脳髄から抽出しようとした。痛みに研ぎ澄まされた意識をぼかしていく必要があった。麻酔効果を求めた妄想は、歩くたびに膨らんでいき、そしてワンステップ毎に具体的な輪郭を持ち始める。空を飛べない現実に疲れを滲ませるいっくんの呼吸は、鼻息だけが気味の悪いくらいに荒々しくなっていく。口で吸い込んだ空気が、鼻から抜けていく時に、小さな台風が鼻の周りに巻き起こり、鼻腔の奥にある妄想に含まれる不純物を鼻くそにして吹き飛ばした。そうやって純粋なる妄想が形作られる。ステップ バイ ステップで、妄想がろ過されていく。そして、いっくんの眼球には脳内のトランス状態が幻想という形を借りてはっきりと見えるようになってきた。麻酔が効き始め、目の前に浮ぶ純度の高い幻想を見つめながら、いっくんは、足早に前へと進み続けた。
犬の死体を風呂敷に包み、サンタクロースのように背負いながら歩き続けるいっくん。歪んだ意識の中で鶏に思いを馳せた。そして、ふと我に返る。
揺らめく幻想は一時的に眼球から消えていく。いっくんは、現実的に自分の成すべきことを思い出した。江ノ島側の鵠沼海岸前にあるラブホテルの前には、夏なのにサンタクロースの人形が置かれている。そのサンタが、季節感のない楽しげな顔をして、前を通り過ぎていく現実逃避気味な悪魔を笑っている。
いっくんは、苛立つように逃避しかけた現実をぐっと胸元に引き寄せて、ポケットから唐揚げのレシピが書かれたメモを取り出した。そして、粗い呼吸を抑えて小さく深呼吸をした。傷口が乾かない悪魔の血が国道134号線を湿らせる。いっくんの右足には噛みつかれた跡が残る。深く刻み込まれた歯型は、脳の髄まで噛みつかれたかのように激しく痛み、いっくんは、目眩を抑えきれずにいた。
唐揚げのレシピを見る目は霞む。寄せては返す湘南の海が喘ぐ悪魔の姿を波音とともに見つめている。唐揚げのレシピを凝視するためには、もう一度麻酔が必要だった。あまりに痛みが煩わしくて、意識が集中できない。いっくんは、もう一度脳髄を刺激し、妄想を抽出した。そして、沸きあがる水のように溢れる妄想に意識を浸した。
痛みを浸しては薄くしていき、妄想の膜を通して現実を見ようと、いっくんは思考に水中眼鏡をかけた。すると、唐揚げのレシピがよく読める。水中眼鏡越しに、唐揚げを料理していく手順を忠実に見ることができた。ただ、現実感が抜けきらない麻酔効果は長くは続かずに、痛みは断続的にいっくんの脳裏に響く。いっくんは、リズムを刻み続けながら脳を絞めつける痛みの間と間の陶酔した意識を持ってレシピを眺め、舌なめずりをした。そして、現実と妄想の狭間で一番初めに手にしなければならない材料に気づく。それは、レシピのどこを見ても書かれていない素材だった。
「馬鹿が必要だ。兵隊が必要だ。俺は指示を出すだけでいい。自ら手を下すまでもない。自分がリスクを追う必要はない。俺がこんな惨めに傷つく必要もない。俺の命令に尻尾振って従う飼い犬が必要なんだ。未来の悪魔の王のための生贄となる飼い犬でありペット・・・」といっくんは、夜の闇に同意を求めるように語りかけた。
闇は悪魔の言葉に無言で頷く。疲弊して傷ついた悪魔は血を滴らせながら、溢れる妄想の中でどす黒く汚い計画を考えついた。
「名案。これで、鎌倉仏委員会も欺ける。完璧な大学受験だ。自ら負った怪我や苦しみをも巧妙なチャンスに変えてしまうのは悪魔の王となるべき俺だけだろう」
自画自賛の果てに、悪魔は何かを企み始めた。
☆
学校指定の夏服を着ずに、アロハシャツを着て登校する夏男を先生達は注意しない。夏男には、あらゆる悪行を重ねてきた実績がある。誰もが夏男を悪魔だと思っていた。先公を何人ぶちのめしたかかわからない。貧乏で小遣いなんてないから・・・古風だがノートを破って手作りしたパーケンを売ってカツアゲもする(勿論、パーティなんて開かれない)。自分を一度でも馬鹿にした人間を徹底的にぶちのめす。むしゃくしゃすれば学校の窓ガラスを割る。それでも放校にならない義務教育。ただ、学校に通う悪魔に目を合わせる人間はいない。砕け散ったガラスを恐る恐る扱うように夏男は扱われた。
誰もが夏男を正面から見ない。だから夏男も誰かの顔を正面から真っ直ぐ見ることもない。そんな日々が積み重なって、見られ慣れない自分の瞳を人にさらすのが怖くなり、夏男は常に身構えるようになった。夏男は常に睨みをきかせ、自分の周りの全ての存在にガンをつけながら鎌倉で生きていた。つっぱらなきゃ、自分の一番弱いところを見られているような不安に悩まされる。
「殺すぞ、てめぇー」と狂犬病にかかった犬のように吠えまくっていた。そんな細目で見つめる現実。本当は大きな瞳を人に見られるのが怖かった。目を背けられる現実に慣れきってしまい、誰かと目を合わせることにどうしようもない違和感を夏男は覚える。
一学期の終業式、校長が「夏休みの過ごし方」について体育館の壇上で長々と話していた。先生も生徒も誰一人そんな話を聞いちゃいない。授業のない終業式の日。前日に親睦会と称し、生徒全員の通知表につける評価を終えて羽目を外して飲みすぎた先生達はあくびを噛み締める。三年生達は同じ塾に通う友達と小声でくだらないお喋りを続け、受験勉強から来るストレスを慰めあっていた。一・二年生は、夏休みの部活の合間にディズニーランドに行くプランなんかを話し合う。誰も校長の話なんざ聞いてない。気になるのは、終業式の後にホームルームで渡される通知表だけだった。しかし、そんな緩みきった教育環境の中、オール1確実の夏男は、誰も聞かない校長の話を体育館裏で煙草を吸いながら聞いていた。ウンコ座りした股関節がプルプル震える。
一本目の煙草を吸い終わり、二本目を口にくわえて火を点けようとした瞬間、考え直して、くわえた口から煙草を戻し、ポケットの中にしまった。夏の大きな青空を見上げ、「どうせ、またむせるからな・・・。二本目の煙草で」と空に語りかけた。
夏男は、一つ長―ーいため息をついた。「長い長い夏休み。俺は一体何をすりゃいいんだろう」と、何をしていいのか悟れない金髪坊主の中学生は自分に問いかけた。
☆
家に帰りたくはない。帰りたいけど、帰りたくない。夏男はいつもこの二つの気持ちの間で悩み苦しみ、疲れ果てる。
「鬱っぽい母ちゃんを見ると、やり切れない」
しわくちゃになった白いシャツにプリントされた夏男の悩みが心のハンガーにぶら下がっている。
「たった二人の家族なのに」
シャツのバックプリントには、そう書かれていた。しわくちゃになったシャツのしわを伸ばすアイロンがあればいいと思う。でも、きっとアイロンがあったところで、うまくしわなんて取れないことは夏男が一番よくわかっている。しわだらけのシャツをぶら下げた心は、自然と足を家とは逆方向へと向かせる。行くところもなく、夏男はゲームセンターに辿り着く。
店内から情緒なき電子音が一定のリズムを刻んでは外へと聞こえてくる。繰り返される耳慣れた音に誘われるようにして夏男は、ゲーセンの自動ドアをくぐろうとした。その時、ゲームセンター裏の路地から物音が聞こえた。夏男は、自動ドアの前で立ち止まった。耳を澄ます。自動ドアは開きっぱなしの状態で、室内から冷房の冷気が室外へと漏れ出してくる。夏男は、煙草臭い冷気が蒸し暑い空気に混じりあっていくのを肌で感じながら鼓膜に力を入れた。声が聞こえる。
「おい、お前ら金持ってんだろ?」
ゲーセン周りでよく聞かれる台詞。
「持ってません」
幼い小学生の震える声が聞こえてきた。やってはいけないことをやっている奴等がいる。小学生からカツアゲることじゃない。ここが、誰の縄張りだかわかっていない奴等の存在が夏男を苛立たせる。夏男は、自分の縄張りで許しもなく粋がってる奴等がいるという事実にブチ切れ、路地裏に向かってかったるそうに歩きだした。そこで六人の大仏中の三年生が二人の小学生をカツアゲしていた。
この六人は、いつも集団で行動する。自称不良達だが、格好だけで根性は全くない。夏男が毎回ボコボコにしてイジメ抜いている通称「チワワズ」。小型犬の群れで、きゃんきゃん、きゃんきゃんよく吠えるが目をウルウルさせてすぐに泣き出す。
ゲーセン裏のチワワズによる小学生カツアゲのやり方をじっくりと観察した後、夏男は低音が渋くきいたドスの座った声でカツアゲに割って入った。
「おい、チワワズ。てめぇーらここで何やってんだ。あんっ?」
夏男はガンを飛ばす。チワワズは、狂犬に睨まれて目を潤ませる。
「あっ、夏男さん。いや、夏男様」と、チワワズ達の小学生相手の粋がりっぷりは一瞬で陰を潜め、「すいません。出過ぎたマネして反省してます。夏男さんがマーキングしてる縄張りですよね、ここ」と六人は可愛く尻尾を振った。
夏男は、睨みつけるのみでそれ以上何も言わない。ビリビリする沈黙の中、チワワズは、夏男の睨みをへりくだった姿勢から上目遣いで見つめながら、後ずさりしていく。そして、皆、「どおーするぅぅぅ・・・?」という目配せで愛くるしくお互いを見つめ続け、夏男が微かに瞬きした瞬間を逃さず、チャリンコにまたがって逃げていった。
自転車を必死に漕ぎながら去っていくチワワズ。夏男の縄張りから追い出され、「ちっ」と舌打ちする反抗的な態度が夏男の耳に聞こえた。悪魔と呼ばれる少年の地獄耳に聞こえないものはない。「チワワズ、次あったらマジぶっ殺す」と夏男は苛立つようにして独り言を吐いた。そんな金髪坊主の夏男を小学生二人は、震えながら見ていた。小学生達の半ズボンの奥、真っ白なブリーフの股間に黄色い染みがちょぴっとついた。夏男は、チワワズに向けていた睨みを効かせたまま小学生達を見つめた。
「助けてやったんだ。金だしな」と低くかすれた声で夏男は、小学生達に言った。そのあまりの迫力に小学生達は泣き出してしまった。夏男は「ちっ」と舌打ちをして、辺りをキョロキョロ見渡し、自分を知っている人間が一人もいないことを確認した。そして、怖くて泣きじゃくる小学生達に「泣いて許してもらえんのは、今のうちだけだと思いな」と夏男は言い放ち、地面にかーっぺと痰を吐き捨てて小学生達を見逃した。
夏男は、ゲーセン内へと戻る。夏男が入店すると何人かの客はトラブルを恐れて店を出て行った。ゲーセンの店長は、夏男の出現に眉をしかめる。夏男が入店している時間は、売上が一気に落ちる。しかし、夏男は、お構いなし。夏男は、ポケットに手を突っ込んで小銭を取り出す。500円しかなかった。
「はぁー、ゲーセン代チワワズ達から納めさせればよかったぜ。俺も焼きがまわってんな、カツアゲしくじるとは」と、夏男は50円をゲームに投入し、ゾンビ達を銃でぶっ放すゲームのスクリーンを細い目で見つめながら呟いた。
夏男は銃の引き金を引き続け、ゾンビを殺し続け、得点をあげていく。その行為は何の意味も夏男の人生にもたらさない。ゾンビを殺すことに意味を見出せないし、得点をあげていくことにも意味を見出せない。ただ銃を撃ち続けて、持て余した暇を殺していく。ゲームでゾンビを殺す腕は上達しても、洪水みたいに周りに溢れ出した自分を飲み込もうとする暇な時間の泳ぎ方だけは全然うまくならない。いつも溺れてしまう。殺しても、殺しても目の前に現れるゾンビみたいな退屈な時間を相手に格闘することに疲れて、夏男は、最後には諦めるようにして静かに家に帰っていく。ポケットの中にあった500円は、とっくになくなっていた。