㊴
夏男は、逃げてゆく鶏の姿を養鶏場の真ん中で見守りながら、「100羽以上は助けただろう・・・」と呟いた。血だらけの顔、軋む体、ちぎれきってしまった筋肉と一緒に、夏男は倒れ込んだ。死の薬品が宙に舞っている。夏男は薬品づけの空気の下で倒れ込んだまま動けない。立ち上がることはもうできなかった。
「100羽の鶏を助けたところで、100の命を助けたところで、結局、俺は死んでいく運命なの・・・・か。結局、最後に死ぬんじゃん。そんなのってないよ・・・・な」
夏男は、なんだかやり切れない思いで仰向けになって天井を見ながら呟いた。辺りには長い歴史の中で食用として死んでいった鶏達の死の体臭がヘドロのようにこびりついている。夏男の嗅覚は、その怨念のようなものを儚げに感じる。助けた100の命もいつかは死ぬのだ。結局すべては終わりに向かって進んでいく。夏男は、養鶏場の真ん中で、自分が終わりに向かっていくのを感じた。
鶏達の多くは既にこの養鶏場から逃げ出していた。その逃げ出した鶏達を追いかけるために顔の見えない人間達も養鶏場を飛び出る。あたりには死の薬品を吸い込み、死んでいった鶏達の死骸が転がっている。そして、空っぽになった養鶏場は果てがないように広く感じた。寂しさだけがそこにあり、寂しさ以外の何ものもそこにはなかった。夏男は、その養鶏場の真ん中で誰からも忘れ去られたような感覚を味わう。置き去りにされた運命が養鶏場の真ん中に転がっている。空っぽになった養鶏場の雰囲気は、なんとなく昔の自分が抱いていた感情に似ているな・・・と夏男は苦笑いをした。あたり一面に撒かれた死の薬品が夏男の体に少しずつ吸い込まれていく。夏男の意識は息を吸うたびに遠のいて、薄くなっていく。目まいとともに暗闇の底へと人面犬の命は沈んでいく。
「また、暗闇かよ・・・」と夏男は小さく愚痴を言った。そして、夏男は静かに目を閉じた。
☆
夏男が落ちていった闇の奥で悪魔の高笑いが鶏達の絶望のコーラスの余韻に混ざって聞こえた。
「ははは、今年の悪魔晩餐会は例年にも増して素晴らしい」
悪魔大学の教授が、唐揚げを頬張りながら、悪魔美大の先生と語り合う。
「なんでも悪魔第一高校の生徒が、あの小田原の養鶏場から鶏を取ってきたらしい」
「おお、あの養鶏場。絶望と欲望が完璧に混ぜ合わされた死の肥料をチキンどもに食わす、あの小田原の養鶏場ですか。完全なる内部管理体制、保証された品質、ムラのない均一的な味わい。そして無菌のチキン」
「いくら我々が望んでも、あの小田原の養鶏場の鶏だけは手がでなかった。無菌主義の一環である魔よけがきつかった。あそこの工場長は、悪魔の鶏好きを知って、自分の残酷な楽しみを守るために何重にも魔よけを張っていた。しかし、あそこの養鶏場の工場長は、本当に残虐で有名でしたからなぁ。数々の武勇伝を拝聴すればヨダレがでますよ。我々が人間界で唯一尊敬をするヒトラー閣下殿と比べても遜色はないのではないですか?地上で最も残酷にチキンをさばける職人として悪魔から集めた尊敬は並々ならぬものでしたぞ。その慈悲なき冷徹な仕事ぶりを一度拝見させて頂き、死の芸術論を闘わせてみたかったですな」
「ははははは。そうですな。それにしてもうまい、この唐揚げは。その悪魔第一高校の生徒は是非我々の監督する国立大学で勉強して頂かないと。そして、現在の悪の王や先代悪の王のような世界を黒一色で塗りたくる野望を持った残酷な悪魔に教育して差し上げたいものですな」
「ああ、そうです、そうです。立派な悪魔の王を育てることこそ我々教育者の使命。醜い競争を生き抜く術を教えましょう」
悪魔の晩餐会は薄暗い闇の中、紫色の光を放つ大きなシャンデリアに彩られて催されていた。大きな大きなホールで、1000人以上のエリート悪魔教授がその場に集結し、グラスに人間の血液を注ぎ、旨そうに飲んでは酔っていた。
「食べるのは、チキン。飲むのはフレッシュな人間の血に限りますなぁ」と辺りではグルメ談義に花が咲く。悪魔は肉食。立食形式のパーティに、ありとあらゆる肉が添えられている。肉を料理するのは若い学生の仕事。肉を扱うことは学問の一貫。その中でも、悪魔のいっくんのチキンの唐揚げの評判は群を抜いていた。
「悪魔第一高校のいっくん」
教授達は鶏の柔らかい肉を噛みちぎりながら、手を脂でべとつかせて、いっくんの名前をその非道な脳裏に焼き付けながらしたたかに酔う。会場の真ん中では酔いしれた教授達が面白半分に次々とグラスを割り、ガラスが砕ける音が余興の音楽のように辺りに響き渡る。ガラスが割れるたびに狂乱した笑い声が上がっては、気味の悪いハーモニーが空間を包む。その余興に合わせるようにして、学生のウィンドアンサンブルがシンバルを何度も叩き合わせながら、弦楽器を奏でる。
「それにしても、最近の仏達は何をやっているんでしょうなぁ。全く張り合いがない。悪がはびこり罰せられない世界。ま、所詮、性善説なんて嘘っぱちで、性悪説の正当性が生きとし生けるものに理解されたということでしょう。我々が悪の王の下で世界を征するのも時間の問題ですな」
「鎌倉の大仏なんぞは引き込もり始めたらしいですぞ。我々悪の勢力が押さえきれない程に大きくなり、他の仏達から相当絞られているらしい。世間からの批判に耐えかねて逃げ出す姿は、それはそれは滑稽だったと聞きます」
「はははははは。それは何より」
ホールの壁には悪魔の歴代の王達の肖像が飾られていた。肖像画は、悪魔界の国事の時のみ王の玉座の奥にある絵画館から外に運ばれる。それらの肖像画は悪の王が死んだ後その冷たい魂を保存するためのもの。歴代の悪の王達は永遠の命を額縁の中で保ちながら、肖像画の額の中で思い思いに動く。女を抱いたり、人を殺したり・・・・その額の中ではあらゆる欲望を叶えることができる。この額の中に永遠の魂を残すことこそ、悪魔として最も名誉あること。誰もがその名誉に憧れた。
「あの肖像画にいつか必ず俺の永遠の魂を残してやる・・・」
いっくんは厨房で包丁を握りながら、大きな夢を語った。語りながらも手は、次から次へと鶏達を手際よく絞めて裁いていく。そして、月の裏側、晩餐会ホールに隣接する悪魔教育センター内のそのキッチンの端にある生ゴミ捨て場に、夏男は捨てられていた。生ゴミと化した鶏の命の切れ端が肉の山となってゴミ箱から溢れ出している。夏男は、そんな山のように盛り上がる肉の切れ端の奥に押し込まれて捨てられていた。
ホールにいる無数の悪魔達が狂うように叫ぶ声が厨房にある生ゴミ置き場まで響く。その叫び声は、苛立たしく、そして心をずたずたに切り裂かれるほどの発狂音だった。騒々しさの中で会話内容が微かに聞き取れる。夏男はその腐りゆく会話の有様に耐え切れずに目を覚ました。鶏の肉の切れ端に埋もれながらも自分がまだ生きていることが夏男には信じられなかった。
夏男は生ゴミ置き場から辺りを見回した。悪魔のいっくんがコック服を着て調理場に立っている後姿が見えた。その周りに檻に閉じ込められた数え切れない程多くの鶏達が震えながら、殺される順番を待っていた。いっくんは肉をさばきながら、上機嫌にひとり言を言った。
「それにしても、完璧だ。完璧に俺のシナリオ通りだった。極上の絶望を餌に育てあげられた悲しみの味わいを持つ食用チキンを100羽。超有名悪魔大学の名誉教授が集まるこの晩餐会で料理する。この晩餐会で俺が作る鶏料理が名誉教授達に気に入られて、晴れて俺も推薦で一流悪魔大学へと進学して、エリート悪魔としてこの世界を動かす王を目指す」
いっくんは大きな中華包丁を握りながら、大きく高笑いをした。生きた鶏の腿を躊躇なくぶった切る。血が飛び散る。鶏は絶叫する。悪魔の笑いは止まらなかった。鶏達は怯えながら、鳴き続けた。ガス漏れをしているような恐怖の臭いが厨房に充満する。
鶏をあげる油はぐつぐつと煮え立っていた。数羽に一羽、いっくんは、裁くのが面倒くさくなって、生きたままの鶏を油に投げ込んだ。夏男は、思わず目をそらした。生きたまま油に揚げられる鶏は、あまりに可哀想だった。可哀想・・・それ以外に、どんな言葉を当てはめればいいのか。悲惨・・・・?わからない。言葉に当てはめきれない光景が厨房に広がる。いっくんは、そんなことにはお構いなしに、ついさっきまでの出来事を遠い過去を振り返るような感じで思い出していた。
「夏男は、純粋で簡単に騙されやがった。100の命を救ったところで、誰があいつを人間になんて戻すか。人面犬のあいつが嘲笑され苦しむ姿ほど愉快なものはない。あいつも馬鹿だな。というか、俺が作った脚本と俺の演技力が卓越していたというべきか。完璧に台本どおりにあいつは鶏を救い出した。いや、俺の調教が完璧だったのだろう。悪魔のペットに仕立てあげた俺の能力か。はははははは、100羽で充分だと思ったが、小田原の山道で鶏達が逃げ出してくるのを待ち伏せしていれば、100羽なんて数じゃない。捕まえても捕まえ切れない程のチキン達がやってくる。こればっかりは嬉しい誤算だった」
悪魔のいっくんが、ほくそ笑みながら自らの優秀さに陶酔する。
夏男は、そのほくそ笑んだ悪魔の横顔を生ゴミ置き場から睨みつけた。怒りに震えた。心の奥から噴出するようにとめどなく悪への憎しみが湧いてくる。人面犬の夏男の睨みは、ただの不良中学生だった頃の睨みとは鋭さが全く違っていた。切れ味が刃光りする。いっくんが手に持つ中華包丁の刃が鈍く見えるほど、睨むもの全てを真っ二つに切り裂く目を夏男はしていた。
いっくんは、夏男に睨みつけられていることすら知らず、鶏を一羽、新たに籠から取り出し、震える喉元の鳥肌を切り裂こうとした。それを見て、夏男は生ゴミ置き場から飛び出し、いっくんの右腕に飛びつき、死に物狂いで悪魔の上腕三頭筋に噛みついた。
痛みに悪魔の顔が歪む。しかし、いっくんは素早く圧倒的な力で夏男を振り落とし、床に叩きつけた。いっくんは、左手で握っていた鶏を苛立ちながら強く床に叩きつけ、気絶させた。そして、いっくんは、床に倒れ込む夏男を見下し、「馬鹿な奴だ」と吐き捨てるように言った。
「飼い犬に手を噛まれるとはこういうことだな。そして飼い主を噛む犬は処分される。悪魔に刃向かって生きていられると思ってるのか。俺の慈悲でなんとか死の薬品舞い散る養鶏場から助けてやって生ゴミとして処分してやろうと思ったのに。お前は、分別されないゴミの悲惨さを知らないのか?まあ、いい・・・・。俺に刃向かうことで死ぬことを選ぶのもいいだろう。生ゴミ置き場を寝床にして、おとなしく適切に処理されればいいものを・・・・」
いっくんは、倒れている夏男の首に両手を回し、夏男の体を持ち上げた。両手で夏男の首を締め上げ、ギロチンにかけ絞首刑にしようとする。夏男の首は捻りちぎられるように締め上げられる。無残にも夏男の口から舌が力なく垂れ落ちる。窒息する夏男の顔を、いっくんは、磨き上げられたメガネの奥から鼻で笑うようにマジマジと見つめた。
「人面犬の顔って醜いよな。こんな姿で生きていたって誰にも好かれないぜ。どんな努力をしても無駄なのさ。お前は所詮人面犬。誰もお前を受け入れちゃくれない。それが真実よ。真実だけさ、テストで○を貰えるのは」
夏男の首を絞めるいっくんの頭にアドレナリンで煮えたぎった血が上っていく。夏男を殺すことに興奮しているのだろう。自分のペットを殺すことに・・・・。
非道。そんな非道さに、悪魔のいっくんは夏男を絞め殺すことに冷徹になりきれず、胸を高ぶらせた。楽しみたいと思った。一瞬で殺してしまうのはつまらない。そんなところにいっくんの若さが出る。
「なんなら、お前をこの悪魔晩餐会で料理してやろうか。それがいいかもな。人面犬のソテーなんて、苦しみ汁が肉の間からたっぷり出てきて旨いかもしれない。あああ、それがいい。お前を絞めて調理してやる。全くもって俺は知恵が回る。ま、料理される前にエリート悪魔から念仏ならぬお題目を聞かせてやる。お題目・・・・ははは、そういえば、今頃大仏は何をしてるんだろう。俺の頭の良さに翻弄されて、お前の存在すら見失っている筈。お題目だ、お題目。何度でも聞かせてやる。そして、俺が唱えるお題目を聞きながら、あの世でも自己犬悪とともに暮らしな、夏男。お前は醜いよ。人面犬は絶望的に醜い。こんな生き物がいること自体、世の中のご迷惑さ。人間にもなりきれず、犬にもなりきれない。なんてお前は中途半端な存在なんだ、夏男。どうだ、こんなお題目。救われきれない命に向ってかけてやる言葉としては適切だと思わないか?喜べ、いずれ悪の王に、否、悪の神になる俺がこの手でお前を料理してやるんだから。醜い生き物を絞め殺して、生き残るべき価値を持つエリートの皆様に生贄の味を存分に食していただこう」
悪魔の切れた思考は叫び続ける。
夏男の顔から血の気が引いていった。
夏男は、酸欠状態で脅迫された死を窒息寸前の喉元に詰め込まれる。青ざめた皮膚。鬱血する顔面の毛細血管で行き詰る赤い血。血管が浮かび上がった破裂しそうな顔。目玉が飛び出そうになる。夏男は死の渕に突き落とされる・・・・・・・。
悪魔は、そんな夏男を見て笑っていた。しかし、夏男の意識が完全に落ちる寸前に、悪魔のいっくんは粉々に砕け散った。
悪魔のドス黒い血飛沫がシャワーのようにいっくんの体から吹き上がった。夏男は悪魔の黒い血を全身に浴びた。いっくんの肉体は無残にばらされ、肉片があたりに飛び散った。
一流であった筈の悪魔の脳みそが力なく厨房の地面に落ちて弱弱しく震えていた。夏男の首を締めつけていたギロチン処刑台であったいっくんの両腕は、床に転がっていた。
夏男は床に倒れ込みゴホッ、ゴホッとむせながら、急いで空気を吸い込んだ。血管の中に酸素が取り込まれ、止まりかけた心臓が安心したように再び動き出した。
夏男は何が起きたのかわからないまま周りを見回した。いっくんがかけていた磨き上げられ続けたメガネが血で汚れて、粉々に砕け散っていた。まだ温かい血の熱気で眼鏡の破片は、曇っていた。そして、なぜか夏男の前には鎌倉の大仏様がいた。鎌倉の大仏様は真っ直ぐに夏男の目を見ていた。
「久々に出した・・・・。伝家の宝刀、大仏チョップ」
大仏様は手に残る感触を確かめながら自分の必殺技の切れ味を再認識した。どうやら、いっくんが夏男を殺すことに興奮し、我を忘れ、隙ができた瞬間、瓦を割るように大仏様は、いっくんの体を真っ二つに割ったらしい。
夏男は信じられないといった表情で呆然と大仏様を見ていた。そして、大仏様の背後には鎌倉の仏様やらが勢ぞろいしている。阿弥陀様や観音菩薩様や地蔵菩薩様や阿弥陀如来様やら釈迦如来様達が戦闘モードで無数に大仏様の後ろに陣取っていた。
鎌倉の大仏様は、仏委員会に号令をかける、「仏委員会の皆さん、やっちゃってください」と。
それを合図に、仏委員会は、厨房から悪魔晩餐会のホールへと雪崩込み、エリート悪魔を次から次へと退治していった。不意を突かれた悪魔達の悲鳴が断末魔の叫びのようにあたりに響く。おもわずちびってしまいそうなほど、その叫びはおぞましかった。




