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After Surf ...  作者:
38/45

 そこには、とてつもなく大きな工場のような建物があった。その建物は鉛色で統一され、窓一つなく、正方形の箱のような形をしていた。その箱の中から鶏の恐怖の叫びが聞こえてくる。しかし、その悲鳴が聞こえてくる養鶏場は恐ろしく無機質な雰囲気を醸し出していた。

 アンバランスな空間に夏男は違和感を感じずにはいられない。そして、山の自然に囲まれた環境下で身の毛もよだつ程に恐ろしいくらい・・・否、不気味なくらいに人間の体臭が辺り一面から夏男の鼻に強烈に臭った。

 その工場は人間の存在意義を人工的に象徴した一種の塊のように思えた。工場の周りに犬小屋がいくつかあったが、どれも空っぽだった。犬小屋の周りには血が飛び散っていた。夏男は真夏の夜の悪夢を見ている気がした。そして、絶句して、呆然とした。


「これが・・・・養鶏場か・・・・」


 緊張感に押し潰された夏男が、やっとのことで発した一言。夏男は、力なく、圧倒的で威圧的な建造物を見上げていた。


鶏の悲鳴は鳴り止まない。そして、その悲鳴がその箱のような建物の中から聞こえてくるのは間違いがなかった。夏男は、その事実に躊躇した。その養鶏場はどう見ても重化学工業地帯にある工場のようにしか見えなかった。その箱のような工場の周りには、風が吹き抜けてこない。エアポケットのような空間にその養鶏場は建てられていると夏男は感じた。そして、建物の周囲を薄い膜のようなものが覆っている錯覚を夏男は見る。霊気のようなものが見える。養鶏場の周りには強い怨念のような魔よけが施されていた。


 ごくりと夏男は、唾を飲み込んだ。この箱の中へと入っていかなければいけない。それが、自分が背負った使命だった。

 夏の熱帯夜・・・・なのに夏男は冷めたい脂汗を額に浮かべた。

 窓もない箱に、一枚の腐った木で出来た扉があった。そこが入口だということは一目でわかる。その扉には鍵はかかっていなかった。

 夏男は、体を押し当てて扉を押し開けて、養鶏場へと入っていった。

 扉を通り抜けるとすぐ次の扉があった。木造で、またこの木も腐っていた。

 その扉をまた開ける。更に次の扉がある。

 夏男は、目の前にある扉を開け続けた。何枚も扉があった。これだけ扉を作る意味が夏男にはわからなかった。その上、どの一枚の扉にも鍵がかかっていなかった。しかし、押して開ける扉は、閉まってしまえば引いて開けて戻るしかない。犬の夏男には、扉を引くことはできなかった。手を自由に使える人間以外は戻ることができない作りになっている。戻れない現実を前にしながら扉を一枚開ける毎に鶏の臭いが強烈になった。夏男はその圧倒的な量の鶏の臭いを嗅ぎ、吐き気を伴う目まいを感じた。飛べない鳥達が羽根をバタつかせる音がどんどんどんどん大きくなっていく。

 夏男は、最後の扉を開け、真っ暗な廊下に出た。それは冷たい暗闇が充満した真っ直ぐな廊下だった。タイル張りの床に冷たさが敷き詰められている。

 夏男は、足の裏を震わせながら、先の先に突き当たりが見えるのを確認した。そして、その突き当たりは右に曲がれるようになっていた。夏男の目が闇に慣れたからこそ見える道の先。辺りは、骨の芯まで冷えてしまいそうな程、空調が効いていた。冷凍庫の中に閉じ込められたかのよう。夏男が着たアロハは熱い汗を吸い込み続けてきたが、その水分を一瞬にして冷気の中で凍らせた。

 冷たさと共に、真っ暗な廊下に鶏肉として食されるもの達の運命の雄たけびが充満しては反響する。いや、食されはしない。鳥インフルエンザにかかったから処分されるのだ。氷点下の冷たさにも感じる空調が効いた空間で食肉用の冷凍チキンにすらなれないチキン達。夏男は、その鶏達の運命に引き寄せられるように歩いた。そして、突き当たりまでやって来て、右に折れ曲がった。すると、そこにはまた長い廊下があった。先の先の突き当たりが左に曲がっている廊下。冷え切った闇は、相変わらずそこにあったが、闇にチカチカと光が反射した。夏男は、一瞬目がくらむ。目をつぶった夏男の眼球に光りの残像が焼きついた。


「テレビ・・・・」


 目を閉じたまま夏男は、呟いた。

 確かに、闇の中で、チカチカと光っていたのは、ブラウン管のような箱だった。夏男は、焼きついた残像を見つめながら、ゆっくりと目を開けた。

 廊下の真ん中に、一台のテレビが置かれていた。廊下の真ん中は、工場の休憩室のようになっていて、少し広めの空間が用意されて、パイプ椅子や机が幾つか並んでいた。

 夏男は、廊下を前へと進み、テレビに近づいた。休憩室を注意深く見れば、食べ残しの食器や、ページが開いたままの雑誌が机の上に置いてあった。古新聞が高々と積み上げられ、灰皿からはみ出したタバコの吸殻が冷気に凍っていた。

 点けっ放しのテレビには報道番組が流れていた。ニュースのキャスターが、真剣な顔を作り、落ち着いた声に若干の抑揚をつけて原稿を読んでいた。

 三分程、鳥インフルエンザについてキャスターは話した。

 幾つかの養鶏場で、鳥インフルエンザらしい原因で死んだ鶏がいる。そして、それらの養鶏場では、人や他の養鶏場への鳥インフルエンザウィルスの拡大を恐れて、養鶏場にいる鶏を全て処分する予定。ただ、現在のところ、鳥インフルエンザの人への感染確率は、非常に低い。更に、現在出荷中の鶏肉は、問題ない。パニックにならないように。当局の調べによると鳥インフルエンザにかかった鳥肉は市中に出荷されておらず食の安全は確保されています。そんなことを、ニュースキャスターは淡々と箱の中で語った。

 真っ暗な世界に浮ぶニュース番組は、自分の存在意義の絶対性を信じているようだった。真実を報道しているという自負を隠そうともしなかった。絶対という言葉ほど、脆くて、曖昧な意義を持つ歪んだものもないのに。続いて、ニュースは、巷を騒がせる食品偽装の事件を次々と足早に読み上げた後、コマーシャルの後に農林水産大臣が不祥事の末に春先に自殺したことについての特集を予告した。


 夏男は、休憩室のテレビの脇を通り抜けて、廊下を前へと進んでいった。前へと歩んでいく夏男の後ろで、箱はずっと喋り続けていた。電源をOFFにしない限り、永遠に喋り続けるだろう。よくもまあ、そんなに喋ることがあるもんだな、と夏男は思った。

 夏男は、廊下を更に突き当たりまでやって来て、左に曲がった。そして、目の前にある光景に立ちすくんだ。眼前の光景から発される受け止め切れない程の圧倒的リアリティに、夏男は、気が遠くなるような冷たい悪寒を肌で感じた。寒気が、夏男の意識に霜を張り、体の芯が自分という存在を揺さぶるようにして激しく震えた。


そこには一面ガラス張りの養鶏場があった。敷地にしてサッカーグラウンド十個分くらいはあるだろうか・・・・。その大きな養鶏場の周りを強化ガラスが完璧に覆う。そのガラスの中に鶏達は閉じ込められていた。そのガラスに閉じ込められた鶏の数・・・・100なんてもんじゃない。1万だか、1000万だか、1億だか、数の概念を通り越えた鶏達がそこにはいた。

 夏男は、その光景のあまりの迫力に動けなくなった。そこにいる全ての鶏が悲鳴をあげていた。ただの一羽も叫ばないものはいなかった。その養鶏場の真ん中で全身白い防護服に身を包んだ人間達が五人、背中に銀色のタンクを背負い、そのタンクに繋がるホースのようなものの先から死の薬品を養鶏場一面に撒いていた。人間達の顔は、防護服に隠されて見えなかった。顔の見えない人間達は、死の薬を撒くことを一瞬たりとも止めようとしなかった。そして、この養鶏場の鶏達のどこかに潜んでいるといわれている鳥インフルエンザウィルスを根絶やしにするために鶏達を次々と殺していく。

 人間達は、無菌なんだ、この場所は、無菌なんだと・・・・自問自答しているように思えた。無菌の養鶏場に入り込んだウィルスを探すためにやっきになる顔の見えない人間達。

 鶏が次々とあっけなく死んでいく。その光景を見て、夏男は狂おしいほど激しく震えた。罪なき逃げ惑う鶏達・・・・・絶叫する鶏達、うろたえることしかできない鶏達、飛べないのに飛んで逃げようとする鶏達、絶望して動けなくなってしまう鶏達。彼らに逃げる場所はなかった。ただ、皆、あっけなく死んでいく。

 夏男は目の前で繰り広げられているこの大虐殺の光景にかつて感じたことのない圧倒的な恐怖とマグマが沸騰するような怒りを感じた。一羽、一羽、次から次へと死んでいく。しかし、防護服に身を包んだ人間達は、鶏たちがどんな死に方をしようが気にも止めていなかった。どっちにしてもいずれ死ぬんだからと、そこには食肉としての鶏の尊厳はなかった。


 夏男は、震えを力で抑え込んで、ガラス張りの養鶏場の入口へと向かった。強化ガラスでできた養鶏場の扉には鍵が掛けられ、夏男は扉を開けることはできない。三度体当たりしたがビクともしなかった。鶏達が死んでいく光景だけが眼前に広がる。開かない扉をうまく開ける方法を考えられればいい。でも、この強化ガラスの前では何もかもが通じない気がした。どんな小手先の努力もこの扉の前では無意味。

 夏男は怒りを眉間に寄せて眼前の光景を睨みつけながら、その強化ガラスでできた扉に力いっぱいの体当たりをする。そして、何度も何度も突っ込んでいった。自分の体をその扉に激しくぶつけ続ける。骨が軋んだ。関節が泣き叫んだ。でも夏男はつっぱりながら、その扉に体をぶつけ、一度で駄目なら、もう一度、それでも駄目なら、またもう一度体当たりを続けた。頭突きを繰り返す額からは血が流れ、首と背骨は折れかける。脳みそが振動し、視界が揺れる。

 開かない扉が無言でそこに佇んでいる。

 夏男は、全体重をのせて体を当て続ける。衝撃が、夏男の存在意義の全てに、激しい痛みを伴って響いた。何度体当たりしたかはわからない。自分という存在が砕け散るほどに体当たりをし続けた。それでも、扉は開かない。ただ、ほんの微かではあるが、体を扉に当てる度に、ミシッ、ミシッと強化ガラスが軋む音がし始めた。息を切らして血だらけになりながら夏男は突っ込み続ける。ミシッ、ミシッ、ミシッ、ミシッ。

 ガラス扉と体当たりを続ける夏男の骨にヒビが入り始める。そして、顔を歪めながらつっぱりの根性を極めた渾身の体当たりを夏男がガラス扉にお見舞いした時、ガラスの扉は粉々に崩れ落ちた。

 痛みに朦朧としながら夏男は、養鶏場の中へと足を進ませる。踏みしめるガラスの破片が夏男の顔を更に歪ませる。痛みに痛みが重なる。ただ、足の裏の肉球に突き刺さったガラスが、消えてしまいそうな夏男の意識を持ちこたえさせる。

 痛みに喘ぎながら、夏男は、激しく乱れた呼吸を整えて、大虐殺風景を睨みつけた。そして体中に残る微かな気迫を全てかき集め、養鶏所全体を揺らすような大声で遠吠えをした。


「わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」


 夏男は、喉をひねり潰すような声でもう一度叫んだ。


「わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」


鶏が一斉に夏男の方を向き、夏男の目を見た。


「みんな逃げろ。逃げるんだ。お前達を閉じ込めていた扉は今開いた」


 夏男は、遠吠えに意味を混ぜる。夏男の後ろには崩れ落ちたガラスの扉の残骸があるだけ。行き止まりに道が現れる。鶏の瞳の奥に小さな希望が生まれる。夏男は、遠吠えし続けた。


「わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」


 皆、気づけ。気づくんだ。扉は開いた。扉は、開いたんだぞ。夏男は、そんな気持ちを込めて、養鶏場の隅でうずくまる鶏の耳にも届くように、何度も何度も遠吠えた。


 その夏男の遠吠えを聞き、養鶏場中の鶏達が一斉に全速力で走りだした。夏男がぶち壊した扉へと津波のように殺到する。一羽、そしてまた一羽とこの悲惨な現実から逃げていった。防護服を着た顔の見えない人間達が、慌てた。

 リスク管理上ありえない不測の事態が起きた。人類の英知を結集した工場のような養鶏場の管理体制をぶち壊したのは、どう見てもボロボロで醜いただの一匹の負け犬だった。

 顔の見えない人間達は、逃げ切れていない鶏を逃がすまいと追い詰めては死の薬品を撒こうとした。夏男は、遠吠えをやめ、顔の見えない人間達の下へ駆けていき、思いっきり噛みついた。鶏達は逃げていく。養鶏場の入口には無数の扉がある。でも、どれも腐った木の扉。鶏達は集団で木の扉を口ばしで突付き、穴を開けて脱出していった。月も星も明るく輝く夏の夜空の下へとチキン達は走り出していった。

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