㊲
夏男は、とにかく山を目指した。街の騒音を鼓膜から消し去るほど歩かなければいけなかった。
「苦しい・・・」
思わず、夏男はため息とともに言葉を零した。小田原には辿り着いた。でも、辿り着くだけじゃ駄目。これ以上、一体何を俺に求めるんだ・・・と夏男は、心の中で力なく呟いた。下を向きながら、夏男は歩く。顔を隠すためじゃない。もうこの現実の中で顔を上げて生きていく気力がなくなってきている。それでも時おり折れたように下を向き続ける首に力を入れて顔を上げて、山のある方角を確認する。
歩く。歩いた。歩き続けて、意識も希望も消えかけた頃、かろうじて山の麓に辿り着いた。下を向いた夏男の顔が、山の斜面に擦れそうになる。急な坂道を夏男は、足を震わせながら登る。休みたい・・・・休めない。どこに養鶏場があるのかもわからない。でも、立ち止まることは時間が許してくれなかった。夏男は、山を登ってはいる。焦ってもいる。でも、半ば諦めてもいる。
ここまで、よく頑張ったよ、俺・・・・。だって、養鶏場の場所がわからなければ、どうしようもないじゃないか・・・・・。そう言い切って、諦めてしまいたい。でも、その言葉を口に出すのが怖い。全てを失ってしまうということがわかっているから。どんなに苦しくても失いたくないものがある・・・。
強烈な夏の山から発せられる青い匂いが夏男の鼻腔に突き刺さる。鶏じゃない鳥の鳴き声はあちこちから聞こえる。巨大なカラスが木から木へと飛び移り、うるさくカーカー叫びながら群れをなして夏男を見下ろしている。夏男の朦朧とした意識は、東西南北全ての方角から聞こえてくる蝉の鳴き声に方向感覚を狂わされ、自分の居場所を見失う。夏男の肺はこれ以上息をすることに苦しみを感じていた。山を歩き続ける夏男の視線にうつるのは夏の景色だけ。飛べない鳥達・・・・チキンの影はどこにもなかった。
「もう100の鶏の命は殺されてしまったのだろうか・・・」と夏男は考えた。それがこのテストの正解であるように思えた。
「間に合わなかったのだ・・・」と、夏男は言い訳をしようとする。でも、間に合わなかったという事実はあまりに悲しすぎた。違うと夏男は自己弁護をする。
「いや、間に合ってはいるのだ。でも、場所がわからなければどうしようもない。彷徨うしかない。俺だけじゃない・・・・皆、彷徨いながら生きてるんだ・・・俺だけじゃない・・・・。目的地がわからなければ、彷徨うしかないじゃないか」
自分だけじゃないと必死に自分に言い続ける夏男。そして、夏男の混乱は、ついに錯乱に変わる。
「あああ、間に合ったにしても、間に合わなかったにしても、全ては不可能という答えを導くための証明式に過ぎなかったのかもしれない。だから数学の時間は嫌いだったんだ・・・掛け算すらよくわからないのに・・・・」と夏男は吠えた。
そんな夏男の頭上から太陽が沈んでいく。街の灯りが届かない山の夜には真っ暗な闇しかなかった。夏男は闇に飲み込まれていく感覚を漠然と感じていた。そして、夏男は抵抗しきれず、道端に倒れ込み、吸い込まれるようにして眠りに落ちた。
☆
落ちていく眠りの中には、地球上の全ての海水をかき集めたような量の暗闇が広がっていた。闇は深く、黒く、果てがなかった。闇は純度100%の混じりっけなし。不純物は微塵も含まれていない。眠りの奥底で強い水流が、石ころのような夏男の意識をどこかに流そうとする。夏男は切れ目のない漆黒の闇の中で流されていく。
「諦めるしかないんだ・・・・俺は、このまま眠りの中で力尽きて死んでしまうんだろう・・・・」
夏男は、闇の海の流れに身を任せ、浮力と重力のちょうど境目で心の言葉を発した。
全ては終わりへと向かっている。
夏男は、自分にこれ以上何ができるのかわからなかった。そんな自分の儚い無力さを受け入れきれないまま、夏男は闇の奥底で涙を流した。
涙の雫が闇の奥底に零れ落ちていく。静かに水流に弄ばれながら涙は深く深く落ちていく。そして、闇の奥底、闇の海を突き抜けた奥の奥、深海の奥の地底をも通り抜けた場所に・・・水溜りのようなものがあった。そこには水溜り以外には何もない。
落ちていった涙は地底に滲み込み、ろ過されながら底を通り抜け、小さく音を立ててその溜まりに吸い込まれていく。
夏男の涙は流れ続け、その水溜りは夏男の涙を受け止め続ける。水溜りに波紋が広がる。波紋が広がる度に辺りを覆う音のない深い闇が一瞬歪む。夏男は涙を流し続け、闇は歪み続けた。
☆
どれくらい眠りの奥底で夏男は泣いていたのだろう。体中の力が涙とともに全て零れ落ちたような感じで、意識がぼやけてはっきりしない。もう目を覚ますことはないかもしれないと夏男は直感で悟った。そして、最後の祈りを遠のく意識の中で愛するものへと捧げた。
「母ちゃん、元就、井伊。ごめんな。俺は、もうこれ以上つっぱりきれないよ・・・・」
最後の祈りが心に響き、余韻が透き通るように消えていった後、夏男の心は沈黙で満たされた。夏男の意識は、広がってゆく沈黙と死を受け入れるための合意を交わそうとした。
夏男は、心臓の鼓動が小さくなっていくの聞きながら、終わりというもの向かって静かに肯いた。
手を差し伸べる。
しかし、沈黙と握手をしようとしたその瞬間、闇の向こう側から津波のような鶏の鳴き声と暴れ狂う羽音が夏男の心に押し寄せてきた。
沈黙は一瞬にしてあたりから消え去る。
鶏達の叫び声が聞こえる。
喉の内側の粘膜を全て吐き出してしまいそうな鶏達の絶叫。
その叫びに、夏男の体中の神経と細胞が一斉に目を覚ました。
何時間、眠っていたのだろう・・・・。
いや、何時間なんて単位ではないのかもしれない。それはたったの数分、数十秒の眠りであったかもしれなかった。
鶏の悲鳴のバックコーラスに夏山の虫達が驚きざわめく。
朝ではなく鶏が夜に鳴く目覚めた現実、静寂さはこの真夏の夜のどこにも見当たらない。
飛べない鳥が死に物狂いで羽根をばたつかせる音がやまびこのように山中に響く。
夏男は、起き上がり鶏達の絶叫が聞こえてくる方角に向けて力の限り走り始めた。
眠りは、夏男の中に微かな体力を生み出していた。
全力で走る夏男。
ここまでの道のりで切れた筋肉繊維が、さらに細かく切れていく痛みを伴ったみじん切り状態になる。精神的にも、肉体的にも切り刻まれていたが、それでも月明かりに照らされた目の前にある道を必死に夏男は駆けていく。
大量の鶏達がもがく音が、皮膚がひりひりするくらいにリアルに肌で感じられた。
非現実的な要素は、全く排除された絶叫。
夏男は山の斜面にある獣道を駆け上がった。
登れない山などないと自分に言い聞かせているように、気迫で斜面をよじ登っては走っていく。
鶏達の断末魔の叫び声が夏男の鼓膜にこびりついて離れない。
悲鳴は更に大きくなっていく。
夏男が地面を蹴り上げると土埃が舞った。
体中に圧し掛かる夏男を押し潰そうとする地球の重力を撥ね上げる四本の足の腿はパンパン。小さな獣道の脇を覆う木々は、夜の闇に隠れて不気味に夏男を見ている。その木々の一本一本が夜の仮面を被って、枝を伸ばし夏男を弄ぼうとする。走る程に夏男は枝の先で刺される。
体中に傷は増え、破けた血管からは血が流れる。
木々の向こうに獣の気配がする。
肉食獣が、夜の闇に身を潜めて獲物を狙う気配がする。
闇が無数の気配を作り出し、幻想的に空間を支配する。ただ、夏男はそんな暗闇にうごめく不気味な存在達の気配には慣れっこだった。もうどれほど暗闇の中で時間を過ごしたか・・・・。闇に目が慣れている。闇の本質を見極められる。そこに肉食獣はいない。恐れるものは何もない。闇が見せようとする幻想を夏男は気にも留めない。夏男は、獣道の先にある養鶏場だけを心に留めた。獣道を駆け上がっていくのは、人面犬ただ一匹。夏男は、がむしゃらに足を前に進めた。そして、獣道を抜けた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ・・・・




