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悪魔のいっくんは、夏男より先に小田原市街に入った。そして、街の隅で自分に言い聞かせた。
「もうやるしかないんだ。もう後戻りはできない。夏男が救い出す小田原のチキンを料理して、悪魔晩餐会で教授達に俺の能力を知ってもらうんだ。チキンを制するものは、悪を制す・・・・。そう古いことわざにもある。最高の肉を料理するしかないんだ」
悪魔のいっくんが武者震いをする。緊張を和らげるために、あたりの民家にスプレーで落書きを施した。しかし、絵を書き切る前に手に持ったスプレー缶の塗料はなくなってしまった。中途半端なストレス発散・・・・。
「糞・・・・。これは、模試だぞ。100のチキンを手に入れるのは、受験の前段階の模擬試験にしか過ぎないんだ。できて当たり前。本番は、それを料理をするところ。何をイライラしているんだ、俺は。たかが材料を仕入れるだけで・・・・・」
いっくんは、そこまで言ってスプレー缶を民家の窓ガラスに投げつけた。そして、その後大声で意味のわからない言葉を叫び始めた。何を叫んだかは悪魔自身わかっていないようだった。割れた窓ガラスの向こうから、悲鳴が聞こえ、いっくんは壊れたように叫び続ける。そんな悪魔の学生が重圧を感じて暴れているちょうどその頃、鎌倉仏委員会は、悪魔晩餐会に乗り込むための闘いの準備を着々としていた。いっくんは自分が小田原にいることで、鎌倉にいる仏達の企みへのマークが甘くなっていることに気づいていない。
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夏男は消耗していく体力が引き起こす眠気を上瞼に乗せながら、なんとか西湘バイパスの小田原ICに辿り着いた。高速道路を下り、出口を出てすぐ右にあるラーメン屋と回転寿司屋を横目に小田原市街へと走っていった。
小田原城を中心とした城下町が夏男の眼前に広がり、人や車が頻繁に行き来していた。夏男は、国道一号線を再び走る。
歩道を行く夏男を見て、小田原市民達は、ギョッとする。しかし、喘ぎながら街を走り抜けていくボロボロの夏男を、小田原市民は人面犬とすら認識することができなかった。わけのわからない生物。国道とバイパスを走る車の排気ガスを浴び続け、夏男の体毛という体毛には、黒い粒子がすす汚れのように付着していた。海からの潮風が夏男の体にしょっぱい調理用の塩をかけては太陽の直火でローストし、真っ黒に日焼けした犬に仕上げていた。アロハシャツは流れる汗を含みきれず、びしょびしょ。疲れ切った顔は人間でも犬でもなかった。
夏男とすれ違った通行人は、夏男が放つ体臭に思わず吐き気を催す。が、夏男は、通行人の脇をあっという間に通り抜けて、走り去る。通行人は、振り返り、訳のわからない生物が歩道を走っていく後姿を呆然として見つめていた。
「なんだ、ありゃ・・・・」
唖然とする小田原市民達。夏男は、市街で歩くリスクを恐れた。スピードを落とせば自分の正体を捕まれる。もう慣れたが、時間のない今となっては余計な面倒を抱えたくない。人々の注意を一瞬でかわし続けなければならなかった。
高速道路を降りて、三十分程夏男は走り続けた。そして、小田原の中心地である東海道本線小田原駅前まで走ってきて、夏男は、立ち止まり、そして立ちすくんだ。どデカイ駅ビルが目の前にあって、その前にバスやタクシーがせわしなく発車しては到着している。小田原駅からは駅のホームアナウンスが聞こえてくる、「黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい・・・・・」と。
夏男は、小田原駅前で、立ち止まったままどうしていいのかわからなくなる。混乱していた。
「養鶏場はどこにあるんだ・・・・」
夏男は、そう力なく呟いた。見渡す限り街だった。鶏の影はどこにもない。そびえたつ難攻不落の小田原城が夏男を見下ろす。小田原の中心地に着いても、養鶏場の場所がわからなければ、どうにもならないという現実をここまで来て夏男は思い出す。小田原駅前が、最終ゴールではない。
「そうだった・・・・小田原まで辿り着くだけじゃ駄目なんだ・・・・」
焦りと苛立ちが夏男を苦しめる。視野が狭まっていく。でも、その狭まる視野を無理矢理広げようとすればする程、目の中に景色が入ってこないように思えた。夏男が呆然と見つめる先にあるものは、街であり、人であり、車であり、交差点であり、観光地のお土産屋さんだった。鶏はどこにもいない。
夏男は、小田原駅前の商店街の隅をあちこち養鶏場を探してうろついた。そんなことをしても無駄なのはわかっていたが、気持ちの整理がつかなかった。証券会社の支店前の歩道で信号待ちの営業マン風の男が腕時計をちらちら見ながら時間を気にする。夏男はその仕草を見た時、自分には時間がないことを思い出し認識した。
「どうすりゃいいんだ・・・」
夏男は、疲れ果てていた。そんな夏男の姿を営業マンは、ちらっと一瞥した。よく見れば、その営業マン風の男は悪魔のいっくんが人間を装っているようにも見えた。営業マンは、口の端に微かな苛立ちを浮かべていた。そして、時計が正午を指していることを何度も確認し、時間が差し迫っていることを暗に誰かに伝えようとしているかのようだった。
信号が青に変わり、営業マンは、早足で交差点の先にあるケンタッキーフライドチキンに向かって歩いていった。営業マンは、カーネルサンダースおじさんの置物を横目に、店内に進んで行き、躊躇なくフライドチキンを注文した。時間とチキンの相関関係が、営業マンの一連の暗示的行動で夏男の心の中で一つになる。
夏男は、ケンタッキーフライドチキンの店舗を唖然として見つめ続け、そして、「あそこが、養鶏場じゃないか・・・・」と呟いた。無意識の内に、足がケンタッキーフライドチキンに向かう。が、すぐに馬鹿げた考えに気づいた。
「疲れ果ててんな、俺・・・・・」
疲弊しきった思いつきを、夏男は首を横に振って否定した。あそこが養鶏場な訳じゃないじゃないか・・・・・。あそこは、死んだ食用チキンを揚げるだけの場所だろ・・・・・KFC。
夏男は、少しだけ過去を想った。一週間前、鎌倉の夜空に花火が枯れたのは夜九時前・・・・。そして、現実を想い返す。後、九時間もない。タイムリミットは、狂いそうな夏男の目の前で狂うことなくその存在をすり減らしていく。時間がない。それはわかっていた。でも、眠気の波が夏男の意識に総攻撃をかけている。夏男はその眠気に防戦一方ながらも、なんとか抵抗し目を見開いていた。
「ここじゃない・・・」
夏男は商店街の真ん中で立ちすくみながら、ため息を混ぜてそう呟いた。市街に養鶏場はない。ならば、山を目指すしかない。夏男は海のある方角を背にして山へと向かった。眠気の突撃は、あまりに凄かった。歩きながら眠りこけそうになる。何度か電柱に当たった。それでも、夏男は、あくびを噛み殺した。
過去を思い出す。そして、自分が歩まなければいけない現実を認識する。
養鶏場・・・・どこにあるのかわからない場所を目指し、夏男は山を目指す。小田原駅近辺から山までの道のりは、犬には本当に遠い・・・・。




