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国道134号線は、夏男の進行方向に向かって左手に大きな海の景色が延々と続く。磯の香りと焼けた砂浜の匂いが夏男の吸い込む空気に混じってくる。走っても、走っても左目の端で眺める海の景色は変わらない。
夏男は荒れた呼吸にため息を混ぜた。
あまりにも海が大きくて、力が抜けそうだった。七里ヶ浜は何も言ってはくれない。
夏男の脇をジョギングする人達が事もなげに走っていく。それでも夏男は、国道134号線、夏の湘南鎌倉沿いを浮かれて走って糞詰る車の渋滞よりは早く走った。
前足を出して、追いつかせるようにして後ろ足を前に出す。前足の筋肉がちぎれ、後ろ足の筋肉が続けて切れる音が夏男の体内から聞こえる。ぶちぶちぶちぶち。
夏男の右目の端に江ノ電が走る。空っぽの体で、筋肉繊維をちぎりながら必死に走っている自分を、電車は簡単に追い越していく。
左目の端には相変わらず果ての見えない海。両目の端に広がる光景が、夏男の心を真っ二つに割ろうとする。目の前には先の見えない道が続いてゆく。その道の先で100あるチキンの命を救いに行く。でも、鶏達の死刑執行がいつ行われるのかさえ夏男は知らなかった。
不確かな情報ばかりを頼りに前に進むことの不安が夏男の疲労の蓄積を早める。不安が頭をよぎる度に強い自分と弱い自分を痛いほど実感する。江ノ電は、どんどん先へと進んでいく。そして、きっと終点の藤沢で一息を入れるのだろう。
国道134号線を休む間もなく走る夏男は、信号が赤になった時にだけ立ち止まる。走り続ける夏男。汗をふきながら荒れた呼吸を押さえ込むようにして沈めようとする。苦しみの果てに見る赤信号に救いを求める。赤く光るランプの前での刹那の休息に呼吸を整え、大きく深呼吸をしようとする瞬間にいつも信号が青に変わる。青になった瞬間に夏男はため息とともに全速力で走り出す。
「全てにおいて俺には時間がない」と夏男は、止まることなく流れ続ける時間に刃向かうようにして現実を確認する。
流れる汗をうまく拭くことすらできない。汗は容赦なく目の中に流れ込んでくる。しょっぱく染みる目を夏男は瞬きを繰り返すことで癒す。瞬きをする度に一瞬だけ現実が暗くなるが、気にしないように努力する。
走る速度は、走ってきた距離に反比例して少しずつ落ちていく。
未来が遠い・・・・と実感する瞬間を何度も何度も思う存分味わう。まだまだ遥か先に鎌倉高校駅前。偏差値の低い中学生の夏男は高校にいけるのかもわからない。いや、人間に戻れるのかもわからない。それでも、走り続けた。そして、がむしゃらに走り続け、鎌倉高校を後にした。鎌倉高校駅前には、高校生が数人楽しそうな会話をしていた。目の前に広がる海には無数のウィンドサーファー達が風を掴んで気持ち良さそうに遊んでいる。
江ノ島が少しずつ近づいては来ていた。腰越漁港脇にあるサーフショップからは、遊泳時間の終わりを確認したサーファー達がボードを抱えて海へと入っていく。マリンスポーツに興じる海に惚れた人々は海に体を浸しては嬉しそうに笑っている。
最近のフィットネスブームの延長か、ここ数年、鎌倉では遠泳大会が頻繁に行われる。夏男は、左目の端で海を見た。泳いだ方が小田原まで早く着けそうな妄想に駆られた。一度だけ、今、脇を走っている腰越海岸をゴールにした遠泳大会を見たことがある。その時に、飛魚のように泳ぐ人間達がいたのを覚えている。逗子から片瀬江ノ島東浜の腰越までの10キロをあっという間に泳ぐ人間の群れが海から次々とビーチに上がってくるのを見て夏男は唖然とした。
「あいつらは、半漁人か・・・」
顎の下にえらを隠していそうな海水ずぶ濡れハイレグパンツを履いたマッチョな生物を見て、そう思った。そのことを思い出して夏男は、妄想から我に返った。
あああ、そうだ・・・・この世には人面犬もいれば半漁人もいる。そうなんだ・・・・半漁人ではない自分は走るしかないのだと夏男は、自分に言い聞かせる。
半漁人は、陸に上がれば干からびて死ぬから・・・・。夏男が格闘すべき現実は、今のところ陸の上にあがっている。そんな現実を噛み砕きながら夏男は、溜まった唾と一緒に飲み込んだ。難しく考えなければこの世の中の原理はとってもシンプルなのかもしれない。分別がつくということは余計な希望や妄想、そしてその裏側にある絶望を持たなくていいというメリットがあると思った。
「俺が泳いだら、死ぬな」と、夏男の頭に浮んだ安易な思いつきは、海に沈んでいって溺れた。そして、夏男はひたむきに走る努力をした。しかし、走っていく程に、夏男は自分の世界に入り込んで、色んなことを考えた。体が苦しくなればなる程に、思考はその苦しさを和らげるようにどうでもいいことを考えようとする。本当にどうでもいいことばかりだと夏男は思った。何の役にも立ちやしない。
口の中が、渇ききっていく。口内の皮膚がカピカピし始める。
鎌倉市と藤沢市の境に足をかけると前方から暴走族の一団が渋滞の間を縫って爆音を鳴らせながら走ってくる。134号線では見慣れた風景。周りを歩く市民も特に驚いた様子はない。そして、走り去る幾つもの海水浴場からは帰宅しようとする家族連れの声が夏男の耳のまわりに聞こえてきた。夏の強い日差しを浴びながら、幸せを満喫して遊んだ子供達の顔。そんな子供達の姿を目にすると、人生をもう一度やり直したいと思う気持ちが、夏男の心の砂浜に蟻地獄のような深く危険な罠を作った。夏男は、その罠をなんとかやり過ごした。まだ、そんなに長い道のりを走って来た訳じゃない。でも、走れば走る程に心が弱くなっていくのを強烈に感じた。自分の弱さが苦しい・・・・そして悔しい。心にできた蟻地獄に引きずりこまれそうになる。夏男は、口を大きくあけて呼吸する。長い舌を口から垂らして喘ぎ、そして渇ききってざらつく舌に走る向かい風を感じて体温調節をする。開けっ放しの口から吸い込む空気が生温い。抑え込む狂い始めている理性がアイスクリームを食べたいと叫んでいた。だけど、海の家にソフトクリームを買いに行っている時間はない。
夏男の呼吸は乱れ続けていく。体の感覚が全て抜け落ちそうになる。でも、裸足で踏みしめるコンクリートの地面が、体中に衝撃を与え、抜け落ちそうな感覚を膝関節に響く痛みと共に体の中に押し戻す。
金髪坊主の不良だった頃にナイキのエアマックス95をカツあげた事を思い出した。あの靴が今欲しいと思った。衝撃吸収・・・・なんて素晴らしいことなんだ。
「俺のまわりに存在するあらゆる全ての衝撃を吸収してくれ、エア」
夏男は、苦し紛れに渇ききった言葉でそう呟いた。でも、そんなこと言ったところでどうしようもない。アスファルトに着地した足の裏からは、次から次へと衝撃が体中に走る。筋肉細胞と骨の関節に釘を打つ続けられている感覚が現実。
夏男は、喘ぐ・・・・。痛みの感覚だけが忘れられない思い出のようにいつまでも体の中から消えない。走れば走る程、前に進めば進む程、痛みは増えていった。
「畜生・・・・」
こんな現実に対して、吠えられる言葉がこれしかない自分が情けなくなる。もっとなんかあるだろう・・・・と。走り続けなければいけない現実が愚痴を零す夏男に教訓的な言葉をくれる。
「ジャスト ドゥー イット」
口の中がひび割れてくる。吐き出す息に水分の香りは感じられなくなっていく。砂漠化していく。くじけてしまいそうに現実は色々大変・・・・・。だけど、約束を平気で反故できるほどに、現在思春期の夏男は腐れない。
元就との約束・・・・。夏男はガビガビな口で必死に空気を吸い込む。腐らないために新鮮な空気を肺に押し込む。疲れが滲みでてくる足取り。それでも足を前に出すことをやめない一歩の前進は、速度は落ちても間違いなく一歩の前進であって、夏男は一歩一歩前に進んで走っていった。
片瀬東浜を走り抜けた時、ビニールボートを抱えた水着姿の家族が夏男を心配そうな顔で見た。
「あの犬大丈夫かな?ボロボロになって走ってるよ」
「野良犬なのかな?それにちょっと顔が人間っぽいよ」
「可哀想ね・・・・。でも、何か、走らなければいけない理由があるのよ、あの犬には」
「おい、早く駐車場に戻るぞ。渋滞がひどくなる前に帰るんだからな」
そんな家族の会話が微かに聞こえた。誰かが心配してくれると甘えたくなる。それでも噛み切って渡したアロハシャツの袖がない右前足が視界に入る度に、この道を走っていく意味を思い出す。時間は情け容赦なく一定の間隔で正確に時を刻んでいく。
時間を追い越したいと狂おしい程に強烈に思う。でも、時間は容赦なく体力を失っていく夏男の足取りを置き去りにして前に進んでいく。
太陽が少しずつ西へと沈んでいく。時速3‐4キロにも満たない速度で歩道を走る夏男の脇を、渋滞が一時的に緩和された車達が焦るようにしてアクセルを踏み込んで次々と走り抜けていく。ヒッチハイクなんかができればいいのだろう。頭を使えばいくらでも小田原に一刻も早く辿りつける手段はあるだろう。でも、夏男はそれをしなかった。自分以外の力で目的地に辿り着いたとしても、夏男はそこで100羽の鶏を助ける自信がなかった。小田原に続くこの道を走りきった自分なら100という無限にも思える数の命も救えるかもしれない・・・・・。そう思った。だから、夏男は、ただ自分の足で前に進むしかなかった。
呼吸は荒れ果てて、肺が痙攣しかけていた。
遊泳時間が終った眼前の江ノ島水族館前でサーファー達が小さな波に乗ったり、飲まれたりしていた。夏男は、走りながらその光景を見ていた。なぜだかはわからない。夏男は、母ちゃんだったらもっとうまく波に乗れているだろうと思った。一度として母が波と戯れる姿を見たことはない。でも、夏男の遺伝子が何かを記憶していた。母が昔、サーフボードの上で見た景色。母が優しく波を操りながら海に愛された頃の記憶が夏男のどこかに眠っている。耀く小麦色の肌を太陽に愛撫され、艶やかな肢体が海を弄んでいた頃。母はきっと波に揺られている時、誰よりも輝いていたに違いないと夏男は走りながら思った。父親が誰だかわからない匿名希望の遺伝子・・・・そんなことを思ったりもした時期があった。父親がいないことで苦しんだけど・・・・でも、少なくとも俺は母ちゃんの息子だと乗れないサーファー達が波に巻れる姿を見て夏男は思った。半分は誰のものかわからなくても、もう半分は間違いなく、花成鬱子の遺伝子を受け継いでいる。母の遺伝子が、過去から受け継いできたものを夏男はなんとなく感じた。それでいいじゃないか。夏男は江ノ島に通じる橋の信号を通り過ぎる時にそう思えた。夏男は、観光地江ノ島に群がる人の波を母ちゃんから受け継いだ波乗り遺伝子のおかげで軽やかに乗りこなす。夏男は、これだ、と思った。夏男は、疲弊しきった体を波に乗せるような感覚で前へと進んでいく。
酸欠になる寸前。失われいく潤い。干からびながら走る犬は、不足していく酸素の変わりに体内に思考を補充し、なんとか直面している現実をぼやかそうとした。
はぁ・・・・はぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・・。




