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「鳥インフルエンザ・・・・・?」
いっくんは、怒りを堪えながら頭を捻る。
「そんなの俺のシナリオにはないぞ。何のことだ。あそこの鳥はインフルエンザなどにはかからない。徹底品質管理されているチキンだぞ。無菌状態の鶏舎で育つんだ。微熱・・・。熱なんて持ちようがない。夢も希望も祈りもないチキン達だ。感情を熱くするものなんてないし、体温は常に一定なんだ。しかも、夏だぞ、今は。そもそもインフルエンザの季節ではない」
悪魔エリートの脳髄に不可解で解読不能な元素記号の塊が並び、一つの偶然として存在している。数式通りに答えが出なくなった現実に苛立ちはじめる。
「それになんなんだ、あの事故りそうになったガキは・・・。予定にない。更に、あのガキの戯言は、予測可能な事象の範囲を越えている。シナリオにない。締め切りは目の前。シナリオを書き直す時間はないんだ。糞、何をやらかすかわからないガキなんぞ、いっそ轢き殺されれば・・・・・・」
そこまで言って、言葉を途中で区切り、焦るいっくんは手帳をめくる。指先に汗が滲んだ。
絶望の際に立った夏男に、100の生命を救うヒントを教えてやるというのが、いっくんの計画だった。小田原に向かうプランを教えてやる予定だった。そして、それを教えようと思ったコンマ・数秒前に、夏男は小田原の養鶏場に向かって走っていった。
いっくんは、シナリオから外れた現実に初めて直面した。学ランからハンカチを取り出して、額に滲み出た汗を擦り切るようにして拭いた。
「まあ、いい。何はともあれ、夏男は、国道134号線を小田原に向かって走っていった。この世には、偶然という可能性も存在している。偶然であれ、必然であれ、結果としてはあるべきことが行われていればいい。逆に、予測不能なガキのお陰で、夏男のやる気は、俺がヒントを教えてやるよりも前向きになっている。悪くない。証明式では表しきれなかったことが起きているが・・・むしろ偶然という事象のお陰で俺の運気と計画がより強固になったとすら言えるのかもしれないな」
いっくんは、計画に若干の誤差は生じたが、シナリオが最終目的に向かっていることに変わりないと自分に必死に言い聞かせた。むしろあらゆる全てを、若さが+(プラス)に考えたがる・・・・。
いっくんは、日課として悪魔社会の政治情勢をキャッチアップする傍ら、各チャンネル全ての朝のニュースの占いを毎日チェックする。そして、ふと今日の自分の運勢を思い出した。各局によって若干の誤差はあるが、星占いも血液型占いも何もかもが、「今日は信じられないようなハッピーなことが起こるかも?」と言ってたな・・・と、いっくんは振り返る。
占い、スピリチュアルカウンセリング、相性、無責任な未来予想。糞も味噌も見わけられないような奴等が信じようとする詐欺行為を学歴を誇るエリートが信じてしまう悲劇。
腐ったメディアの影響が悪魔にまで染みとおっていることに大仏様は、したりと微笑んだ。長い長い歴史の中で、占いを信じて天下を取った奴は一人もいないという事実。これが裏付けることの意味を知らなければ、待っているのは破滅。
「そーいえば、今日のラッキーアイテムは、乗り物だった。大型トラックも乗り物だな。あああ、当たってる」
悪魔が、我を忘れていた。シナリオに外れた現実に向き合えなくなってすがるのは陳腐な占い。テレビ局やネットに占いを流している奴等の裏を取った方がいい。大仏様の無責任でジョークが混じったサイドビジネスなのかもしれないのだから・・・・。
☆
小田原までの長い道のりを、人面犬の体で3日以内に駆け抜けなければならない。元就につっぱって約束したものの、花火大会終了後から休むことなく動き続けた体と悩み続けた苦しむ心は夏男の血液の流れを疲弊させきっていた。血管が凝り固まって細くなり、体の隅々まで体力が行き渡らない。走る夏男の体を、夏の熱気が容赦なく蒸し続ける。まるで、「この暑さに耐えられないのなら、夏男なんて誇りある名前を名乗るな」とでも言わんばかりに夏が夏男を苦しめる。疲れ果てた体は、走り始めてすぐに息があがった。リズム良く呼吸をしようと努力するけど、口の中いっぱいに広がるネバネバした唾液を集めて道に吐こうとする度に呼吸が崩れてくる。地面に吐ききれなかった糸を引く唾が体に張りついた。粘着性の強い唾液が、夏男を鎌倉に引っつけようとしていた。あらゆる全てが夏男を鎌倉に押しとどめようとした。それでも夏男は小田原まで駆けてゆかねばならない。強い想いが胸の中にある。
「人間に戻って、母ちゃんを守るんだ。そして、飼い主から捨てられた元就を家族の一員として花成家に迎えるんだ。きっと三人で暮らしたら俺は今までよりもっと素直になれると思う。母ちゃんを泣かせずに、きっとみんなで笑って暮らせるようになる。諦めない。例え、この先の道で全てを失うことになったとしても、この強い想いだけは守り通してみせる。諦めちゃ駄目なんだ。歯を食いしばって、今、自分の目の前にある道を走り続けなきゃ。行き止まりがあれば、また別の道を探せばいい。でも、俺が走る道は必ず小田原に繋げてみせる」
夏男の思考回路が必死に自分を励まし続ける。
脆く崩れ落ちそうな根性に勇気を与えようとする。震える足を前に進めながら、稲村ヶ崎の緩やかなカーブを走り抜け、夏男は慣れ親しんだ由比ガ浜を後にした。自分の過去が由比ガ浜の海面に映る。振り返る暇はない。
稲村ヶ崎。
湘南サーファー達の伝説の場所。
数十年に一度、北緯20度線付近を駆け上がる荒れ狂う台風の進路と海面を吹き荒れた風がうみだす海流のうねりが完璧な進路を保ってやってきて、無風の青空とその海底にある岩場に当たって美しいビッグウェーブが起こることがある。
その日を、人はTHE DAYと呼ぶ。そして、そのTHE DAYが起きる日に開催されるサーフィンの大会は『稲村クラシック』と呼ばれている。しかし、その大会は約二十年に渡って開催されていない。伝説が起こす奇跡、自然の怖さとその美しさを孕んだビッグウェーブはもうそんなにも長い期間鎌倉にはやってきていない。
夏男は波がさざめく静かな稲村ガ崎近辺のお洒落なレストラン&バーの前を重い足を引きずるようにして走りながら、「俺がやらなきゃ駄目なんだ。俺がこの現実を変えなきゃ駄目なんだぁぁぁぁ」と一度大きく叫んだ。
奇跡も伝説も起こらない世の中になってしまった時代・・・・。でも、奇跡を信じて海に入り、波待ちをしなければ伝説なんて起きやしない。夏男は、稲村ヶ崎を後にする。夏男はボロボロの心も体も疲労という海に浮かべている。そして、本能的に根気強く待っている・・・・一歩一歩この時代を生き抜きながら・・・・遠くの水平線上を見つめて、この疲弊しきった海面に伝説が起こる奇跡を。
稲村ヶ崎は夏男を見送る。風もうねりもない日に一瞬だけ少し高い波が立った。




