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After Surf ...  作者:
31/45

 喘ぐ・・・そして、夏の空気に蒸されて、意識は蒸発していく。

 意識が遠のき、次第に喘ぐことすらできなくなってくる。

 夏男は、精神と肉体が分離していくのを感じた。自分というものが削げ落ち、あらゆる全てを失っていくことを実感していく。そして、生きる気力をも引き剥がされ、死肉の塊が腐りはじめようとした瞬間、大型トラックが急ブレーキを踏む音が国道134号線に強烈に響いた。

 鼓膜を張り裂くような軋む音に、引きちぎれきろうとしていた精神と肉体がギリギリで繋がったまま硬直した。

 その張り詰めた継ぎ目の弾力に引き寄せられるようにして夏男の意識は一瞬蘇った。夏男は顔を上げて前を向いた。

 目を向ければ、その視線の先には小さな男の子が横断歩道のない場所で道路を渡ろうとしているのが見えた。男の子に向かって大型トラックが突っ込もうとしている。大型トラックの運転席の高い視線は、道路の真ん中を歩く小さな男の子の発見が完全に遅れ、ブレーキを踏み込んだタイミングは既に手遅れだった。

 夏男は、意識と肉体の継ぎ目を手繰り寄せ、死にはじめていた体を起こし、無意識の内に走り出していた。小さな男の子の命の鼓動が聞こえた気がした。ここ数日、命の語ろうとしていることに耳を傾け続けた夏男。命が言おうとしていることが少しだけわかる。小さな男の子の命は、迫り来るトラックに呆然としながら「助けて・・・」とすら言えなかった。でも、男の子の小さな心臓は激しく鼓動していた。助けを求めていた。

 夏男は、その小さな心臓の大きな鼓動に吸い寄せられるように走った。でも、夏男のタイミングも既に手遅れだった。


 耳をつんざくブレーキ音だけが響き続ける現実。止まらないトラック。立ちすくむ男の子。目を覆いたくなる現実がそこある。

 「届かない・・・・」と、夏男の本能が予測できる未来を計算した。

 「でも、行くしかない」と、夏男は本能の計算結果を破り捨てた。

 夏男は、トラックの前に飛び込もうと、車道に足を踏み入れる。覚悟を決めた夏男が男の子を助けに入ろうとした・・・・その瞬間、夏男よりも早くトラックの前に走り出した犬の姿があった。

 元就だった。

 元就はその小さな体に残る全ての体力をかき集め、トラックの前に飛んだ。まるで、一瞬ちいさくてぶちゃいくなフレンチブルドックの背中に羽がはえたように見えた。

 太陽の光が元就の背中で羽ばたく翼をまぶしく・・・まぶしすぎて目がくらんでしまうほどに、美しく輝かせた。立ちすくむ男の子がトラックのフロントバンパーに衝突する直前、元就は男の子を強く突き飛ばした。そして、羽ばたいた元就は後足一本をトラックにぶつけ、道路脇に転がりこんだ。子供も元就も生きていた。でも、元就の後足は、完全に折れているのが明らかにわかった。関節が逆に曲がっていた。


 トラックは、その後20メートル程前方まで走り続け、そして止まった。運転手が急いでドアを開けて、子供の下に駆けて行く。夏男はそれよりも先に子供と元就が倒れ込む場所へと走っていた。


 ☆


 危うく大惨事が起こりかけていた場所で、夏男は興奮を抑えることができずに目元に力みをいれたまま眼前の光景を見つめていた。そして、「なんで道路なんかに飛び出したりしたんだ」と大声で子供に向かって怒鳴った。興奮が冷静な感覚を消し去っていた。子供に問い詰めようとする夏男を見て、体力を失いきった瀕死の元就は途切れそうな喘ぎ声で言った。


「睨んじゃ駄目。その子の目を真っ直ぐ見て、理由を聞いてあげて。そういう仕組みじゃないとうまくいかないんだ」


 元就は折れた後足と危険な状態に突入した熱中症に苦しみながら、震える声で夏男を叱った。

 夏男は、自分が知らず知らずの内に男の子を睨みつけていたことに気がついた。夏男は、元就のことが心配だった。でも、そんな夏男を元就は力強い視線で見つめる。元就は、夏男を叱る。

 夏男は、軽くため息を一つついて無理矢理自然体になろうとした。力を入れることより抜くことの方が難しい。純粋な心を持つ子供は動物の喋る言葉がわかる。夏男は恐る恐る子供の透き通る瞳を真っ直ぐ見つめた。水分を失っている筈の人面犬の額に冷たい汗が滲み出る。


「どうしてだい?」


 夏男は子供の心を包み込むようにして訊いた。夏男の後ろにはトラックの運転手が走ってくる足音、耳をつんざく急ブレーキを聞いた海岸の遊泳客達が集まり始めていた。でも、辺りの景色は、スローモーションのようで、時空が夏男の周りとそれ以外の空間を完全に真っ二つに割っていた。


「にわとり・・・・」


 男の子は夏男の目を見て、そう言った。


「にわとり?」


 夏男は、子供が発した言葉を繰り返し、今、自分が耳にした言葉を確認する。


「そう、ちょっと風邪をこじらせた鶏達が鳥インフルエンザと勘違いされてみんな殺されちゃうの・・・・」


「ちょっとした風邪?」


「うん。ちょっとした微熱。それを誰かが鳥インフルエンザって決めつけて殺そうとするの」


「それは本当なの?」


 夏男は信じられない思いをなんとか隠して、男の子の話しを真剣に聞こうとした。


「うん。テレビで観た鶏達の目が、僕にそう言ってたんだもん」


 夏男は、完全に混乱した。常識では考えられないことを子供は言う。苦しみに悶える元就が、疑心暗鬼の夏男に「信じろ」と目で訴えていた。夏男は相棒の言う通りにする。


「その養鶏場はどこにあるの?」と夏男は訊いた。


「この道路をずっと行ったところ。小田原っていうところ」


 小田原と平然と言ってのける男の子。その姿が・・・・夏男の過去とダブる。夏男は、自分の頭に思い当たる感情を信じられずに、頭を振りながら冷静になろうとした。でも、訊かずにはいられない・・・小さな男の子が真剣に考えていることを。


「君は、そのにわとりを助けに行こうとした訳なの?鎌倉から小田原まで・・・」


 子供は、「うん。だって誰かが助けてあげなきゃ」と無邪気に答えた。同じだった・・・。夏男が子供の頃、小さな体と豆粒くらいにしかない脳みそで考えたことと全く同じだった。


「母ちゃんは俺が守る」


 夏男は、小さい頃、真剣に自分にはそれができると信じていた。子供にそんなことが出来る訳がない。でも、子供は不可能という言葉の意味を知らない。全てが可能だと思い、無邪気な行動を起こす。小田原まで鶏を救いに行こうとした男の子は、アニメの見過ぎなのかもしれない。でも、彼はそれを不可能だとは思っていないようだった。


 痛みに耐える元就の顔がひん曲がる。それでもぶちゃいくで苦々しい顔を無理矢理優しく見せて、元就は男の子に訊いた。

「何羽くらいいるの、そのにわとりさんって?」


「100」


 子供は事もなげに言った。いや、子供は100までしか数えられないのかもしれなかった。子供の言う100という数字は、彼の中では無限という意味なのかもしれない。でも、その「100」という数字に夏男と元就の眉毛がぴくりと動いた。

 トラックに轢かれる寸前だった子供に向かってスローモーションで動く人の波がやじ馬に乗って押し寄せてきていた。先頭は、取り乱して必死な形相のトラック運転手だった。その風景は、未だに一人の子供と二匹の犬のまわりの風景とは分離していた。子供が発する無邪気で柔らかい空間の中で、元就は、男の子に笑って言った。


「安心して。そのにわとりさん達は、おいらの相棒が助けに行くから。その100の命は、アロハシャツを誇らしく着こなす夏に生きる人面犬が助けるから」


 元就は、夏男の目を見た。

 夏男は、ボロボロの元就の視線を見て、「死にそうなお前を置いて俺はどこにも行けない。足だって折れてる」と目で語った。

 そんな夏男の視線に向かって元就は「馬鹿だなぁ・・・」と言った。

 元就は、わかっていないブラザーに教えてやらねばならないと思った。


「おいら、つっぱるっていう仕組みが好きなんだ。誰もがくじけてしまうような現実にでも、つっぱって、不可能なことに睨みをきかせて、根性で前に進んでいく奴の後姿を見送るのが好きなんだ。アロハ着て、人面犬で、人間だったのに中途半端な柴犬になってしまって、今となっちゃ力なんて鼻くそ程もないけど、絶望の睨みにつっぱってガンを飛ばし返せる・・・そんな男のブラザーになれたことを誇りに思ってるんだ。

 ねえ、おいらが、ここで生き残ってたら・・・・夏男を待ち続けていたら、人間に戻った夏男はおいらのことを迎えに来てくれて、花成家の家族の一員とし受け入れてくれるかい?

 今、おいらの夢はそれなんだ。人間に戻った夏男が野良のおいらの飼い主になってくれることを夢見ているんだ。その夢がある限り、どんなに死にそうでも、どんなに傷を受けても・・・・・・どれ程生きていくのが苦しくても、歯をくいしばって耐えてみせる。生き残ってみせるから・・・この道を真っ直ぐに走っていってくれないか?100の命を救って、おいらを迎えに来ておくれよ。お願いさ、おいらの夢を叶えておくれ。

 さあ、時間はないよ。おいらの好きなつっぱりっていう仕組みを見せておくれよ。鎌倉一のつっぱりを見せてくれよ、ブラザー・・・」


 元就は、体も心も痛いだろうに平気そうな素振りで夏男を前に進ませるために、下手な演技を精一杯演じた。夏男は、元就の歪んで震える顔を見つめた。夏男の心に揺ぎない覚悟が生まれる。

 夏男は、アロハシャツの袖を歯で噛み切り、「必ず迎えに来る。俺たちぶちゃいくブラザーズだから・・・。兄弟との約束の証としてこのアロハの袖を置いていく」と言い、痛みを必死に隠す元就にアロハの袖を渡した。


「夏男、極楽寺で待ってるよ。迎えに来てくれる日を夢見てるよ」と元就は言う。


「まかせろ、ブラザー。お前の夢は俺の夢だ」と夏男は、元就の夢を叶えると約束した。そして、夏男は国道134号線に沿って小田原方面を見つめた。

 夏男は男の子の顔を見た。そして、「にわとりさん達は、俺が助けるから、これから道路を渡る時は、右見て、左見て、手を挙げて渡りな」と夏男は、小さな男の子の無垢で世間知らずの瞳に染み入るような声で言った。小さな男の子の心にさわやかなつっぱり文句が刻み込まれる。それだけ言うと夏男は前に向かって走り出した。


太陽の光を思いっきり浴びるアロハシャツを身にまとう夏男の後姿は、つっぱる美しさで輝く夏の男の逞しさに満ち溢れていた。

 甘いそよ風が夏男に寄り添おうとする。

 しかし、夏男はそのそよ風を突き抜ける。無数の人達が死亡事故現場になりかけていた場所にいる男の子と元就の周りに群がった。元就は、人垣の向こうに消えていく夏男の後姿をずっと見つめていた。


「おいら、やっぱり、つっぱるっていう仕組みが大好きだなぁ」と元就は笑顔を浮べ、大空に響き渡るような小さな声でつぶやいた。海岸線を吹き抜ける夏の熱い風が、走り出した夏男を追いかけていく。

 元就は、空を見上げた。その空の大きさに少し安堵する。

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