㉚
夜明けの青空の下、零れ落ちた一滴の冷たい雨のような涙。悔しくて震えている女子中生。
公園で一人ぼっちでどこにも行けない家出女子中学生の孤独を癒すために、二匹は側へと近づいた。寂しさに震えていた女子中生は、二匹を抱きしめて毛皮で暖を取るような格好になった。そして、命の温もりに触れて安心したのか、お腹がぐーっと鳴った。女子中生はお腹が鳴っている自分が可笑しくなった。
「あんた達もお腹減ってる?」
そう言って、女子中生はコンビニに走って行った。そして、女子中生は、ツナサンドウィッチを一つ手に持って帰ってきた。夏男と元就はその女子中生と一緒に朝ごはんを食べた。女子中生が財布に入っている限られたお金で買った二枚一組のツナサンドウィッチ。女子中生は一枚を自分で、残りの一枚をぶちゃいくブラザーズに分けてくれた。
「たった一枚のサンドウィッチか・・・・。もう一枚はあなた達。でも、ちょっとお腹が空いても一人ぼっちで寂しく二枚のサンドウィッチを食べるよりは、誰かと一緒に分けあって食事をする方が、ずっとお腹が一杯になった気がするよ」と女子中生は二匹に言った。夏男と元就は精一杯の笑顔を彼女に見せようと笑った。そして、笑われた。
「はははははっ、いいね。ぶちゃいくな顔が一生懸命、笑顔を作ろうと努力をする。その優しさが可愛いし、嬉しいよ」
女子中生は少し間を置いて、「私もあなた達みたいに、親の前で笑う努力をしてみようかなぁ・・・・・。ちょっとだけそんな勇気が湧いたよ」と女子中生は二匹の頭を撫でて、家路を目指して歩き始めた。二匹の口元にはツナサンドのマヨネーズが若さの余韻のようにくっついていた。
夏男と元就の心には、触れ合った命達の余韻だけが残っていく・・・・・。
この余韻を得ることが、命を助けたということなのだろうか・・・。
確信が持てなかった。命を救うということは、どういうことなのだろう。どんどんわからなくなってくる。
余韻は、やがて消えていき、心に残るのは疑問ばかり。
わかりえないことばかりが目の前に立ちはだかる。二匹は、ため息をつく。ただ、夏男と元就は、疑問を前に立ち止まることは許されていなかった。休むことなく鎌倉の街を隅から隅まで歩き続けた。
☆
絶望がそこに存在するのは、そこにタイムリミットがあるからなのだろうか。時間内にやり遂げられなければ、永遠に同じチャンスはやってこない。たった一度のチャンスを掴むために歯を食いしばる。二度チャンスがあればいいと思う。何度もチャンスがあるのなら、そこには絶望は存在しないだろう。極論すれば、人生は一度であり、人生はこの世界に生きるたった一度のチャンスである。だからこそ貴重で、儚く、愛しい。生命のタイムリミットが生命を苦しめ、生命を輝かせる。
夏男は、目の前にちらつく無限にも思える100という数字に船酔いに似た感覚を抱いていた。大海原でコンパスと地図を失くした航海士達は方向性を見失い、波に揺られて、どこにも辿り着けずに死んでいく。
元就は、助けることができたと思った生命の数を概算した。タイムリミットから逆算すると、100という命の数はあまりに不可能で抽象的な数字の組み合わせに思えた。
相模湾の海岸線に沿うようにして走る国道134号線を当てもなく彷徨うぶちゃいくブラザーズの心にプレッシャーが掛かる。疲れが抜けない体は思った通りに動かなくなり、体中の毛穴が乾いた汗の塩で詰まり、皮膚呼吸をするのが苦しく思えた。でも、体以上に精神的な疲労の蓄積が限界点を越えていた。無気力になってしまう一ミリ手前の状態。
夏の太陽が二匹を強烈に照らし出し、夏男と元就が裸足で歩く焼けるように熱いコンクリート道路に深く黒い犬の影を二つ描き出した。太古の昔から由比ガ浜に寄せては返す潮の流れを思う時、ぶちゃいくブラザーズ達の頑張りは、無意味で、悲しい刹那の努力、もしくは無駄あがきのようだった。
熱せられたコンクリートの道路が熱の上に熱を重ねて暑さを放射し、地表から蜃気楼のようなもやを作り出し現実を歪める。
ミスター絶望が蜃気楼の向こう側から悲劇を観賞するような視線で二匹を見つめていた。
夏男は命懸けでミスター絶望を睨みつけ、ガンを飛ばし、受け入れなければならない現実を否定しようとした。夏の熱気は、容赦なく二匹を蒸し続けた。
そして、揺らめく現実を前に元就が自らの影の上に倒れ込んだ。
あまりの突然の出来事に夏男は言葉を失いながら、倒れた元就の下に駆け寄った。元就の体に触れる。
熱中症だった。
カラカラに渇ききった元就の体から水分は見当たらない。ブルドックの干物になってしまったかのように元就は倒れている。夏男は自分の体が感じる目眩を二度頭を強く左右に振ることで取り払った。
夏男は、頭で元就を押し込んで日向から日陰に運ぼうとしたが、元就の体はびくともしなかった。意識を一時的に失った元就の体は、ただの肉の塊となって重力をたっぷりと含み、大きな石のように重たくなっていた。
「とにかく水を・・・・」と夏男は思ったが、元就を置いて水を探しに行けない。
誰かに助けを求めたいが・・・・人間の言葉が喋れずに今の夏男には「ワン」としか吠えることしかできない。夏男は、何もできない自分を悔しく思いながら、それでも犬として吠え、「助けてください」と声を枯らしながら叫んだ。でも、太平洋から流れ込んでくる風がその夏男の擦れた声を掻き消した。
「もうどこにも行けないのか・・・・」
夏男は心の背骨が折れてしまいそうな感覚に喘いだ。
「元就は、もう動けない。こいつを放って置くことはできない。時間は、過ぎていく。もう・・・俺は人間に戻ることを諦めるしかない・・・・・」
夏男は、唇を噛み締めながら負けを受け入れた。夏男自身、熱中症寸前。そんな水分が不足している体から搾り出るように涙が一筋だけ人面犬である夏男の頬を伝った。
「ごめんよ、母ちゃん・・・・。一人にさせてごめんよ。俺はやっぱり家には帰れないわ」
夏男は、花火大会で見た母の姿を思い出しながら、謝り続けた。後悔することの多さに意識が遠のく。
「もうつっぱり切れなくなっちまった。どんなに苦しくても、馬鹿にされても、負けまいと抵抗してここまで来たけど、元就をここに見捨てて俺はどこにも行けない」
夏男は、倒れる元就の横で力なくうずくまった。夏男の全てが限界を超えていた。
「絶望の勝ちだ・・・・」
負けを認めてうずくまった夏男の体は、干からびてしまって思い通りには動かない。もう二度と思い通りには動かないように思えた。そのまま死んでいく。そういう運命・・・。
ミスター絶望が、蜃気楼の向こうで、なかなか面白い悲劇であり喜劇を観賞できたことに微笑んでいた。




