③
「花成。小学生でも解けるこのカ・ン・タ・ンな数式を解いてみろ」と数学の先公が挑発的な微笑みを浮かべながら夏男に言った。その微笑は、悪意に満ちており、曇りひとつない眼鏡の奥で、先公が夏男を見下す視線が曇っていた。中学三年生・・・学校は、進学校を気にし始める。勉強のできる生徒への期待は高まり、どーでもいい生徒との区分が明確に分かれる。受験の年になって公立の頭の悪い生徒に勉強を教えることの無意味さを有名校への進学実績を作りたい先公達は痛い程に馬鹿らしく感じている。でも、本当は夏男は馬鹿じゃない。真面目に勉強したことがなかったから、授業はよくわからなかった。夏男は、そんな先公の挑発に無視をかました。しかし、無視をすれば、更に悪意の助長を促し、「おい、花成、聞こえないのか?この猿でもわかるか・ん・た・んな数式を解いてみろ」と先公は更に調子にのった。周りの生徒達は、声に出さずに夏男を笑った。それは、あまりに簡単な数式で、数式というよりも算数のレベルだった・・・。誰かを笑うと気持ちがすーっとする。笑いものを作ろうとする教育・・・いや、社会。くすくすくすくす・・・・抑えの効いた小さな笑い声が教室に満ちる。夏男は、苛立つ。
しつこく自分を呼ぶ先公に、「あんっ?わかんねーよ、そんなもん」と敢えていい加減に力を込めずに無気力に先公に言い返した。ここで強がれば、ちいせぇ男だと思われる。そんな夏男に、「大馬鹿者だな、お前は」と先公はあざ笑って言った。不良で厄介者で偏差値なんて無きに等しい夏男をクラスの中で笑いものにするための見下した教育がそこにはあった。馬鹿にされることを最も嫌う夏男は「てめぇぇぇっ」と吠えながら、机を蹴り上げた。そして、先公に取っ組みに行こうと席を立ち上がった時、クラスの学級委員の井伊正義が大声で夏男を嘲笑する先公に対して叫んだ。
「先生、あなたは本当の教育者なのですか!自分の生徒を馬鹿呼ばわりする、あなたこそ本当の大馬鹿者だ」
井伊の言葉にクラス中の空気が冷たく凍りついた。生徒を馬鹿と呼ぶ馬鹿な先公を馬鹿と呼び返した空気は、居心地が悪そうに青ざめる。そんな冷たい空間に、場違いな夏のそよ風が開けっ広げの窓から教室内に迷い込んだ。
クラスの学級委員の井伊は、真面目で正義感が強くて、いや・・強過ぎて、曲がったことを絶対に許せない性格を持っている。成績は優秀だが、コチコチの石のように考え方が硬く、真面目過ぎるその性格と悪を許せないその気性は職員室でも持て余し気味だった。職員室の先生達も、クラスの生徒達も、井伊のことを「石頭のお地蔵さん」と陰口を叩いた。夏男と井伊の熱いやり取りを数学の先公は鼻で笑った。それにつられ、井伊と直前の一学期末の期末試験学年トップの座を争った塾三つ掛け持ちの髪型七・三分けのガリ勉君も先生を見習って鼻で笑った。夏男は教室の片隅から聞こえた鼻から抜けるようなその嘲笑を聞き逃さなかった。
冷め切った授業を感じ取った先公は、「今日はこれまで」と乾いた声で言い、終業ベルが鳴るよりも早めに教室を出ていった。出ていく直前に夏男という不良を害虫を見るような目で見、頭はいいのに何の価値もない不良をかばおうとする学級委員にもっと賢く生きろという視線を送った。
そんな後味の悪い授業が終わった途端、夏男はガリ勉君のところに行き、「おい、面貸せよ」と吠えた。ガリ勉君は鼻で笑い、「君みたいな暴力を振りかざすことしかできない人間の言うことは聞けないね。この世には暴力より強いものがある。何だかわかるかい?学力だ。あんな簡単な数式すら解けない君は、高校にも行けないであろうさ。そんな君の将来のことを考えると僕は胸が痛むよ」とガリ勉君は、目の前に立つ夏男の目すら見ずに彼が絶対だと信じる学歴主義の観点から完全に見下した語調で夏男に言葉を投げた。
夏男は、ガリ勉君を睨みつけ、右の拳を振り上げ、殴りかかった。ガリ勉君は、学歴こそこの世の全てとは思っているが、やはり目の前の暴力におののき、「ひぃーー野蛮人」と怯えた声で叫んだ。夏男は、容赦なく腕を振り下ろしたが・・・・・殴ったのはガリ勉君の顔ではなく、とっさに間に入った学級委員の井伊の顔だった。夏男に思いっ切り顔を殴られ、痛みに表情を歪めながらも井伊は、夏男の目を真っ直ぐに見つめ、「弱い人間は暴力に頼る。強い人間は・・・」と夏男に吠えた。夏男は、井伊の遠吠えを最後まで聞かず、もう一度井伊の顔を殴った。「俺は弱くねぇー」と夏男も吠えた。
井伊はもう一発殴られながらも、夏男に向かって遠吠えの続きを口にした。「強い人間とは、どんな苦しみや屈辱にも耐えることができ、それを乗り越えていける者のことを言う。そう歴史小説に書いてあった」と、読書好きな井伊は夏男の目を見て大声で吠えきった。
夏男と井伊のやり取りは犬の喧嘩のようで、教室の誰にも理解できない。二人の語る言葉は犬語のようですらある。そんな夏男と井伊がお互いに吠え合うやり取りを脇で見ながら、ガリ勉君は青春をあざ笑うかのように鼻で笑った。二匹の犬の喧嘩をクラスの誰もが持て余し、気にかけまいと努力しているようだった。
「ただでさえ夏は暑いのに、これ以上熱くなられちゃたまらない」と教室にいる他の生徒達は涼しさを求めた。
「わんわんわんわん、勘弁してくれよ」といった表情がクラス中から夏男と井伊に向けられる。夏男はそんな教室の空気を苦しい程敏感に感じ取り、やり切れない気持を抱え、奥歯で自分の気持ちを噛み締めながら教室を出た。井伊は、教室を出て行く夏男の寂しそうな後姿を見届けた後、ガリ勉君の胸倉を思いっきり掴んで吠えた。
「頭がよけりゃいいってもんじゃない。それが全てじゃない。そんな机上の空論に陶酔する者達がこの日本を滅ぼすんだ」
石頭のお地蔵さんの説教に皆はうんざり。まだ中学生の癖に国家論を論じるのは気違いじみている。歴史好きの父親の書斎に積まれた司馬遼太郎著の本やら古典の読み過ぎだった。湿気がむんむんする教室の中、誰もが石頭に向かって「うぜぇ」と陰口を叩いた。ガリ勉君は、井伊の手をはねのけ、「僕は君よりいい高校を出て、いい大学を出て、偉くなってみせる。その時にその言葉をもう一度聞かせてくれよ。どっちがこの国を動かすエリートであるか、その時に証明される筈さ」と言って、自分の机に座り、休み時間なのに塾のテキストを広げて、勉強を始めた。
☆
夏男は、学校を抜け出し、由比ガ浜を見つめながら好きでもない煙草を一本ふかした。悔しさがもたらす寒気に体は震える・・・・だけど、裸足で踏みしめる砂浜だけは熱く熱く夏男を焼こうとした。思い出したくないのに、思い出してしまうことの多さに自分でもうんざりする。忘れたいことほど忘れられないという脳の仕組みが、よく理解できない。夏男は、煙草の煙を吸い込んで息を止めた。根性を見せれば何かが変わるのだろうかと思った。しかし、肺に流れ込んだニコチンは、あっさりとそんな馬鹿な望みを捨てさせてくれる。夏男の口は、体内に押し込め切れない煙草の煙を力なく吐き出した。海鳥が飛び交う大空に煙草の煙が静かに昇っていく。穢れなき青い空気に煙は溶けていく。夏男は、まるで雪山に遭難した登山者の気分に浸る。生きる希望の全てを賭けて、枯れ果てた木々を広い集め、誰かに気付いて欲しいと大空に狼煙をあげる。でも、誰も気付いてくれやしないことは雪山に遭難した自分が一番よく知っている。海鳥達は気づかない。あとは、凍えて死んでいくだけ。腹を空かせ、過去を振り返り、あの世に持っていきたい思い出と廃棄して忘れたい記憶を整理しながら、生きてきた意味を捜し求めて死んでいく。夏男の心は凍傷にかかりかけているが、夏男の皮膚からは夏に蒸された汗が滲み出てくる。
夏男は寒さと熱さの区別をうまくつけられずにいる。吸いきった一本目の煙草を持ったまま砂浜を後にし、コンクリートの上で吸殻をビーチサンダルの裏で踏みしめた。そして、二本目の煙草に火を点ける。煙を吸い込んで、思いっきりむせた。由比ガ浜の上にある空に向かって苦しげに咳き込む夏男。いつも二本目の煙草で咳き込む。煙草を拒む思い通りにならない自分の肺にすら嫌気がさす。
☆
「何もわかっていない餓鬼が学歴を誇る時代。勉強さえしていればいいと甘やかす親達。そして、進学率だけを争う教育者や塾の経営者ども。時代は、そうやって腐っていく・・・・・。そんなもん将来たいして役に立ちやしないのに。問題はタフかタフじゃないか。糞ったれ始めた世界で強い気持ちを持って生き続けられるか、現実にくじけてしまうか。ただ、それだけ・・・・。テキストに書いてあることだけを覚えて、要領よく生きる術ばかり学ぼうとする餓鬼ども。本当の強さを吐き違える餓鬼の多さに吐き気がする。これも人生の合理主義ばかりを説く悪魔の仕業・・・」と鎌倉の大仏様はまた夏空の下で鬱っぽくぼやいた。
「うぉぉぉえええっっっぷぅぅぅ」