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翌日、日本列島はカンカンの猛暑に覆われた。汗が滝のように街を歩く人々の額から流れ落ちる。皆、暑さに喘ぐ。でも、心は興奮を隠しきれない最高の花火日和。いつもと違う平日の風景。浴衣を着た可愛いくてセクスィィーな女の子が鎌倉中に溢れている。涼しげで艶やかな女性の首もとが、夏の暑さを和らげる。男は、祭りに騒ぎ出す。夜を待ち切れず落ち着かない人の波が鎌倉中にうねる。海風がそんな街の熱気を冷やすどころか、より火を注ぎ鎌倉の夏を暑くさせる。心が弾む。突き抜けるような解放感が由比ガ浜の大空から降ってくる。
「今日は花火大会だ。由比ガ浜の海辺に咲く水上花火、大空に咲き乱れる大輪の花が鎌倉の夏夜を彩るんだ。この日ばかりは受験勉強なんてしてられない!」
井伊は、クリームパンをぶちゃいくブラザーズに食べさせ、興奮した口調で二匹に話しかけた。井伊は夏期講習を終えた後、女の子と花火大会に行くらしい。夏男は、それが誰だか知りたかった。クラスメートの誰かだ。からかってやりたくてしかたなかった。そわそわする井伊の姿を見て、夏男も嬉しくなった。
井伊が、夏期講習に向かって行った後、元就と夏男は源氏山に向かった。小さい頃、夏男と母ちゃんが花火を見ていた思い出の場所がある。人の波をかきわけながら、二匹は坂道を歩いた。
元就は、夏男の顔を隠すようにして、ぴったりと夏男の横について歩く。二匹は、首輪はつけてなくとも飼い犬のように振る舞い、辺りに野良犬と悟られないように歩いた。この人波の中で夏男は人面犬だとバレやしないかと緊張するが、元就は下を向いて歩く夏男の前で案内役を務め、人波を極力避け、裏道を使う。
そんな苦労を分かち合いながら、ぶちゃいくブラザーズは鎌倉山から源氏山へと移った。夏男の中で時間が少しずつネジを逆に回していく。そして思い出の場所に辿り着いた時、まだ、陽は高かった。花火が上がるまで時間がある。
悪魔に突きつけられた条件・・・・花火が枯れたその瞬間から一週間の間に100の生命を救う。学校から出された夏休みの課題には重すぎる。悪魔から出された夏休みの宿題・・・・・。花火が夜空に枯れた後、二匹はどれ程の睡眠時間を確保できるか想像もできなかった。一週間以内に100の命。寝てる余裕はないだろう。寝れる時に寝ておく。
二匹は、思い出の場所から少し離れた夏草茂る木陰で体を寄せ合って昼寝をした。長い道のり、急な坂をのぼり続けて辿り着いた思い出の場所に群がる猛暑が、昼寝をする二匹の体から雑巾絞りをするかのように汗を搾り出す。夏男と元就は、熱気に蒸されながら夜を待った。
☆
ドーンという大きな破裂音が鎌倉中に響き、二匹は目を覚ました。寝ぼけた目を擦りながら、夜空に咲く花を見つめた。次々と花が開いていく闇空。ぼやけた視界が鮮やかな色彩に浸されはじめ、角膜を覆う美しさに眠気を見失った二匹は、ついでに言葉も見失った。
夏の夜空に咲く花火・・・・。咲いては散ってゆく花火に見とれながら、夏男の心は震えていた。幼いあの頃見た花火の美しさは、今でも全く変わっていなかった。夏男は、咲いては枯れる花火の花びらの行く先を見つめる、そして、その散っていく花びらが落ちていく先に・・・・思い出の場所に・・・・やつれた夏男の母ちゃんが浴衣姿で一人立っていた。思い出が一瞬の光を帯びて現実になる。
「母ちゃん・・・・」
夏男は、遠くから母の姿を見つめて、小さく呟いた。思い出なのか、現実なのか、区別はつかない。でも、母ちゃんが思い出よりも少しやせ衰えていると夏男は感じた。
「母ちゃん・・・・」
夏男は、もう一度、呟いた。叫ぶことはできなかった。自分がここにいると伝えられない現実に喉の奥が乾く。たとえ、今、この言葉が母の下に届かなくても・・・・必ずいつか・・・・そう思いながら夏男は母ちゃんが花火を見上げる横顔を見つめた。花火のまばゆい光があの頃より少し老いた母の顔を照らし、そして影を作る。
夏の夜空に花は咲き続けた。
夏男と元就は、その奇跡をまばたきすらできずに眺めている。空っぽになった心が満たされていく。乾いた土に雨が降り、水溜りを作る。二匹の心の水溜りに花火の葉を濡らす朝露みたいな水滴が零れ落ちて、波紋を広げ続ける。澄んだ心に溜まった水に花火の雫は美しく広がっていく。そして雫が零れる度に心の水溜りは揺れながら、母の姿を映す。
夏男の母は、無言で花火を見続けていた。痩せた体が、夜の闇でより細く見える。母の左手は、握り締める幼い手を捜していた。迷子になってしまった夏男の右手を、母の左手は夜の闇の中で探し続けていた。夏男は、その左手を愛しく思った。年々、老いてゆき、心配ばかりかけ・・・・・母の顔は本来あるべき美しさを失っていた。夏男は、それを自分のせいだと・・・・自分を責めた。
「夏男・・・・」
母は子の名前を呼んだ。世界で、どんなものよりも大切で愛しい・・・自らの命より尊く思う子の名を花火が彩る夜空に向かって呟いた。
「どこに行ってしまったの?夏男。夏男、お前がいないと母ちゃん、本当に一人ぼっちになってしまうよ。こんな孤独は、10代の頃に感じて以来・・・・。瀬戸内海の波が静か過ぎて、広島から家出同然で鎌倉にやって来た。孤独を忘れさせてくれる何かが、鎌倉にはあると思った・・・・。たくさんの友達もできたし、多くの恋もした。毎日、サーフィンをして波に揺られながら孤独を忘れようとした。でもね、孤独はずっとずっとどこにも行ってはくれなかったの。ただ、私にまとわり続けたのよ。何度も自殺しようと思ったわ。意味のない人生にウンザリして、誰もいない深夜の由比ガ浜に何度も足が向かった。何度死のうとしたのかわからない。でもね、海の波は私を死なせてはくれなかったの。びしょ濡れになって、溺れても、波は私を岸へと押し返し続けた。そんな時よ、誰の子供かわからないけど、夏男、私はあなたを身ごもったの。私は、あなたを育てていく自信がなくて、駄目な母親になるのはわかっていたから・・・つわりが強くなっていく度に、何度も中絶してしまおうと思った。あなたを殺そうと考えたのよ。でも、それができなかった。あなたを殺して、自分一人が生き残るなんてできなかったの。あなたが・・・・母ちゃんを呼ぶ声が・・・・小さいけど、確かにお腹の中から聞こえたの。でも、どうしようもなくて・・・母ちゃん、お前に明るい未来を見せてあげられる自信がなくて・・自分すら幸せにできなくて・・・母ちゃん、あなたと一緒に死んでしまおうと考えたわ。本当に苦しかった・・・。どうしていいのかわからなかった。でもね、夏男、あなたがお腹にいることで、母ちゃんにつきまとっていた孤独は少しずつ消えていったのよ。あなたは、私のお腹にいる頃から弱いこの私のことを支えてくれていたのよ。あなたの小さな小さな心臓の音が母ちゃんのお腹で響く度に自分は一人じゃないんだって思えたの。あなたがそう思わせてくれたのよ。あなたが、無邪気に母ちゃんのお腹を蹴る時、母ちゃんはあなたを育てたいって強く思ったの。お腹の赤ちゃんと一緒に生きていきたいと思ったの。あなたがいてくれたから私は勇気が持てたの。この子のために私の未来を変えたいって・・・。だから、この意気地なしの母ちゃんが、あなたを産むって覚悟を決めることができたのよ。生きていく決心がついたの。夏男、あなたは私の全てなのよ。あなたがこの世界に生まれてくれなかったら、私は今頃、海の底で永遠の眠りについているわ。夏男・・・・どこに行ってしまったの?母ちゃんを一人にしないで・・・・。駄目な母ちゃんでごめんね。本当に、駄目な母ちゃんでごめんね。お前は、いつだってこの駄目な私を守ってくれてたね。小さかった頃からずっと苦労かけてごめんね。夏男、母ちゃん、もっといい母ちゃんになれるように頑張るから、お願い、帰って来て。お願い、帰って来て・・・・・・。夏男・・・・。一人で見る花火程悲しいものはないわ・・・。寂しさに張り裂けてしまいそう・・・。夏男、母ちゃん、またお前とこの夜空に咲く綺麗な花火が見たいよ」
夏男の母は、花火を見つめながら泣き崩れた。夏男は、うずくまって静かに、苦しそうに泣く母の姿を涙を堪えながら見つめていた。後悔とともに震える夏男の心が自分を罵倒する。母の側にいてあげられない自分の罪の重さを感じる。夏男は自分が許せなかった。母の頬を濡らす涙・・・・母を泣かせる自分の愚かしさにもっと早く気付くべきだった。でも、もう過去には戻れない。その事実に夏男は苦しむ・・・。人面犬へと変わり果ててしまった自分・・・・・。
夏の夜に咲いた花達は、最後の一輪をあでやかに空に咲かせ、静かに散っていった。夏男の母は、その最期の花火の余韻を遠い涙目で見ていた。
「夏男・・・」と枯れ果てた空に向かって息子の名前を呼ぶ。子を呼ぶ母の声が静かに夜空に溶けていった。
心の水溜りは静けさに満ちる。水面に広がっていた波紋は消え、水中まで届いていた光は枯れた。闇が辺りを覆っていく。眼球に微かに残った花火の残像すらもう消え果た。
「行こう」
夏男は母ちゃんの前に飛び出して、自分がここにいることを伝えたい衝動を奥歯の奥で噛み締めながら元就に言った。もう過去には戻れない。ならば未来を変えるしかない。
「俺には時間がない」
夏男は、焦るようにして雑草をかきわけ、せわしなく山を下り始めた。思い出の場所を離れる夏男。
「ごめん、母ちゃん。でも、待ってて。必ず帰るから・・・」と夏男は離れゆく母の姿に謝った。
「必ず帰る」、夏男は何度も自分に言い聞かせた。元就は、山を下りていく夏男の後姿を見つめながら、帰る場所のある男のオーラを感じた。
「時間がないっていう仕組み・・・・:」と言いながら、元就は、目の前の闇をほのかに照らす蛍の光に祈った。
「ちっぽけで儚い生命の輝きを一層強くするためにある。永遠を手にした時、おいら達は輝けなくなるんだろうさ。おいら達は限られた時間の中で眩しいくらいに輝かなければならない」
元就は、遠吠えをしながら、全速力で走り、先を行く夏男を追い抜いて源氏山の急な坂を全速力で駆け下りた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」と元就は叫ぶ。夏男はそんな相棒を頼もしく思った。
夏男も負けじと、「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」と叫びながら、全速力で坂を駆け下りた。 ぶちゃいくブラザーズには時間がない。だからこそ蛍よりも強く、強く強く輝かなければ闇に迷ってどこにも行けなくなってしまう。




