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After Surf ...  作者:
25/45

 潮騒が、夏の夜の静けさに響く。月光が、騒がしかった夏の太陽の残像を撫でるようにして消していく。

 井伊は海水でびしょびしょの服から磯の香りと水滴を道路の上に零しながら、夏男を鎌倉山まで連れてきた。桜の並木道を抜けた。裏の裏の裏道に、忘れ去られたような小さな小さな墓地がある。そこで井伊は夏男を放した。


 「いいかい?僕がこれから毎日食べ物を持ってくるから鎌倉山でじっとしてろよ。もう二度と心ない人間から後ろ指さされながら生きていくようなことはしなくていいから」


 井伊が夏男とともに歩いてきた急な坂道には、まだ乾ききらない海の雫が点々と連なり、それが線になっていた。井伊の言葉に夏男は素直に頷く。夏男は、素直になれる自分に驚いた。


「じゃ、また明日来るから。それまでここで大人しくしてろよ。今日は疲れただろ?ゆっくりおやすみ」


 そう言って井伊が家に帰っていった後、夏の蒸し暑い夜空の下で胸にじんわりと浮ぶ二つの奇跡の余韻に夏男は浸った。夏男を檻から救い出し、嘲笑する人間を否定した井伊の行動。そして、人面犬を見ても何一つ驚かずに、全てを受け入れて溺れていた井伊と自分を助けてくれた夏の匂いがするサーファーのちょび髭のオッサン。地球上に60億人も人間はいるけれど、たった二人の人間が自分と向き合ってくれるだけでこんなにも嬉しいものなのかと夏男は思った。



辺りは、真っ暗だった。裏道の裏道の奥の山の斜面に沿った場所にある小さな墓地の周りには街灯もなかった。しかし、その暗さが今の夏男には心地良かった。海の家で馬鹿にされ続けた自分の醜さを安全な場所に隠しておける。

 少しだけお腹は減っていた。しかし、そんなものは寝てしまえば明日の朝まで少しの間忘れられると思った。夏男は、ため息を一つつく。

 日が沈む前に起きたことを一つ一つ振り返りながら、「なんだか色々ありすぎて少し疲れたな・・・」と、なんともなく声に出してみたりした。夏男は、軽い疲労に寄り添うようにして目をつぶった。辺りの伸びた雑草が風に揺られる音の向こうでトカゲが虫を食う音がした。眠ろうとしたが、お腹が、ぐーーっと鳴った。夏男は、その腹の虫を意識の中で食べて空腹感を落ち着かせようとした。


「裏飯屋・・・・・」


 眠る努力をする夏男の耳元の辺りを何かが静かに通り過ぎた。声にならないほどの小さな声が聞こえた。夏男は、目を開けて、通り過ぎていった言葉を思い出そうとする。その言葉を思い出せば、誰かが親切にも夏男に残飯のありかを教えようとしてくれた気がした・・・・。

 夏男は、後ろを振り向いた。でも、幻聴なのだろう。あたりには、誰もいない。夏の夜の墓地。振り向いた先の墓地の真ん中に小さな桜の木が一本生えているのが印象的に目に映るだけ。墓地の裏側を見てみても飯屋はなかった。

 墓地には、蚊がうろつき、蝉がなき、夏草の若さが香った。夏男は、気を紛らわすために小さな桜の木の根元まで歩いていって寄り掛かり再び疲れた体を休めようとした。体中の毛穴からじっとりと汗が滲み出る。眠たいのに、暑くて眠れないそんな熱帯夜。それでも夏男の体は、眠りを欲していた。夏男は、もう一度目をつぶる。そして、蒸し暑い夜に聞きなれない声がはっきりと響いた。


「お前さん、人面犬かい?」


 夏男は心臓が口から飛び出してしまいそうに驚いた。声になりきれない絶叫がリンパ腺を震わせている。裏飯屋と言っていたさっきと同じ声。幻聴じゃない。だけど、目をつぶる直前に辺りを見回した時は、誰も自分の側にはいなかった。気配すら感じなかった。

 夏男は、汗がべとつく顔を上げて、自分のいる場所をもう一度確認する。・・・・墓地の真ん中・・・・。ぱっと見回しても誰もいない。しかし、夏男は、視線を感じた。墓石の影から誰かが夏男を見ていた。

 夏男は、おしっこをちびってしまい、尿が桜の木の根元に微かに零れ落ちた。肝が冷えた。いつしか風がひゅるるるると鳴りだす。その誰かが墓場の影から出てくる。首輪のない年老いたラブラドールリトリバーが、夏男の方に向かって歩いてきた。いや、違う・・・・。

 夏男はこっちに向かってくるラブラドールリトリバーの足元を見たが、そこに足はなかった。ラブラは宙に浮いていた。夏男は、縮みあがったちんこからまたおしっこを三滴程零してしまう。ラブラドールリトリバーの後には火の玉が二つ浮かび上がっている。幽霊犬だった。。。。。ラブラは、透き通る前足で夏男に握手を求めた。夏男は、青ざめながら後ずさりする。


「長さんって呼んでくれ」と幽霊犬は唐突に夏男にそう言った。


「いかりや長介の長さんだ。アイーン。」と長さんはつけ加え、夏男に向かって志村けんのギャグをしてみせた。

 夏男の青ざめた顔から完全に血の気が引いた。身の毛もよだつ程に組み合わせが違う・・・・・。

 悪寒を感じる程に寒かった・・・・。

 「いや、それキャラとギャグがあってないんですけど・・・アイーンは、志村けんですけど」と夏男は申し訳なさそうに突っ込むと、「なかなかいい突っ込みだ、オイッス!」と長さんは満足げに笑った。

 一昔前の「8時だよ全員集合」のギャグ・・・・やはり、過去に死んだ犬だということが夏男にはわかった。しかし、妙にフレンドリーな雰囲気。幽霊犬が自分に害も呪いも加えようとしていないことがわかってくると、夏男の震えは少しずつ収まっていた。そして、冷静に長さんの姿を見てみると、なぜラブラドールリトリバーの長さんが首輪をしていないのかが夏男の心に引っかかりはじめた。ラブラと言えば、血統書つきの格調高き犬。夏男の口から自然と疑問が漏れた。


「長さん、あんた血統書付きの犬だろ?なんで首輪をしていないんだい?あんた達みたいな犬は高そうな首輪をしているもんだろ・・・・なんていうか誇り高そうなというか」


 その問いかけが小粒で淡い感慨を長さんの心に零し、少しだけ生前のことを思い出させる。夏男の疑問を静かに聞き入った長さんは、首を微かに傾けて柔らかい声で答えた。


「血統書付きの野良犬だったな、生きている時は。バブルがはじけるまでは首輪をしてたさ」


 夏男は、バブルが何かわからない。ただ、長さんは、まずいギャグは別として、とても知的な顔をしていて、毛並みがキレイで、決して野良犬にされてしまうような犬には見えなかった。


「なんで長さんみたいな優秀な犬が野良になんかならなきゃいけないんだ。ラブラは頭がいいんだろ?頭のいい犬を捨てる意味がわからないよ」と夏男は聞き返した。


「人間は身勝手な生き物だ。小さい時には可愛がってくれるが、体大きくなって犬らしい体つきになると飽きたり、邪魔になったりして、飼い犬を粗大ゴミを捨てるかのように捨てる奴等も多い。わかるじゃろ?私の言っていることが・・・・。私の飼い主がそうだった。土地が右肩上がりの頃の東京郊外の不動産屋で働かなくても金が入ってくるような生活を当時はしていた。楽して手にした金は人間に見栄しか張らせない。この狭い島国では、大型犬は無駄に大きくて邪魔なんじゃよ・・・・。なのに、世の中はブランド・ブランド。日本人は、特に見栄を張りたがる民族な訳だ。血統書付のブランド子犬を飼って、人に自慢して、見栄を張りに張るが、ある程度の自己満足を得ると、体が大きくなって飼いきれなくなったり世話が面倒になった犬を捨てたくなる。そんな目先のきらびやかさばかりを追い求める飼い主どものアホなブランド志向。生命とブランドバックを同じレベルで考えるこの島国の国民どもは、糞ったれてる訳じゃ。そして、バブルってやつが崩壊した。その後、借金を大量に抱えた飼い主が一番はじめにしたことはわしを神奈川の奥の山に捨てることじゃよ」


 若干の怒気を含んだ老いぼれたラブラの言葉・・・・言ってることはなんとなくわかる。ただ、それでも夏男にはこんなに立派な犬を捨てる人間達が理解できなかった。現実とは、そんなものなのか?人面犬を捨てるのならまだしも、血統書付きの犬すら捨てられる。そうなのか?

 夏男は、いろんな思いを交錯させながら力が抜けたような視線で長さんの姿を見た。それは、信じられない事実を諦めを混ぜながら力なく見つめる視線だった。しかし、ふと気づいた。自分を見つめる長さんは、人面犬の存在に驚く素振りもない。


「長さん、あんたは人面犬を見るのは初めてじゃないのかい?」と、夏男は訊いた。


「初めてじゃないし、別に珍しいもんでもない。珍しがるのは人間くらいなもんさ」


 長さんは、素っ気ないぐらいあっさりそう答えた。そして、長さんは物知り顔で人面犬の生息地域を夏男に説明した。それは日本中に点在していた。ちょび髭のオッサンも言っていたが、夏男には、自分以外に人面犬がいることが信じられなかった。こんなに哀れな存在が本当に自分以外に存在しえるのだろうか。老体は暑さに喘ぎ、長さんはソフトクリームを舐めるように、青白く燃える一見冷たそうな火の玉を舐めた。そして、夏男の疑問を見抜くように長さんは、火の玉の青い炎を舌の上に乗せながら語った。


「誰もが自分を世界中で一番哀れな生き物だと思っている。私もそうだった。人面犬ではないが、生きていた境遇は今のお前さんと何一つ変わらない。生まれてきたことを恨みもした。幼い頃に人間に引き取られたおかげで、両親との思い出は一つもない。そして主人である筈の飼い主は、私を捨てたんだ。完全なる孤独を天から授かった訳だ」


 長さんの生きていた過去を聞いて、夏男は思わず言葉を投げかけた。


「生きていくことが苦しくなかったの?」


ちびっていた夏男の尿道はきゅっと引き締まり、夏男は長さんの生き様を知りたいと思った。


「あらゆるものを憎んだ結果、気づいちまったんだよ。何を恨んだところで、わしが野良犬になってしまった事実は変わらない。恨んだところで、飯にありつける訳でもない。過去を恨んだところで、何も変わらないのさ。ならば、今、目の前にある事実を受け入れるしかないんだ。受け入れて生きていく。そうすると少しだけ視野が広がるかもなって気がしたんだ」


「許せないことを受け入れたり、認めたりすることは勇気がいるでしょ?」


「勇気のいることさ。でも、そうすることで自分は勇気を持っている自分に気づくことができるんだ。全てを認めて受け入れる前は、自分に勇気があるのかどうかもわからなかった」


「それは、長さんが血統書付きの優秀な犬だったからだよ」


「なあ、お前さん。そうやって、また真実から逃げてしまうのかい?勇気に血統は関係ないじゃないか」


 長さんの言葉に夏男は黙った。沈黙が何かを深く考えようとしていた。なんだか難しい沈黙が辺りに広がる。長さんは、その沈黙を笑わせるように、入れ歯が外れるような感じで両目玉を落とした。

 夏男は、びびった。眉毛が上がってしまって、ひくひくする。口元は歪んだ笑いを浮かべる。長さんは、透き通った前足で目玉のありかを探す。でも、目の見えていない長さんは、二つの目玉がどこにあるのかわかっていない。


「お前さん、申し訳ないが、私の目玉を拾って、こっちに渡してくれないか。あれがないと何も見えないんだ」


夏男は、二つの目玉を恐る恐る歯であま噛みして、長さんに渡した。足は透き通ってる癖して、長さんの目玉を口にくわえた感触は夏男の歯に残った。

 蒸し暑い夏の夜なのに、体の芯が冷たく凍るのを感じる。目玉落としは、長さんの持ちネタの一つ、一種のブラックユーモア。難しい沈黙は去り、冷たくて若干ひきつった軽い笑顔が夏男の表情に残る。


「おおお。ありがとう。これで見える。たまに墓場から出てくるとすぐこれだ。お化けになっても歳は取りたくないもんだ」と、長さんは目玉を口でくわえては空に投げて、剣玉を受けるようにして瞼の奥に押し込んだ。夏男は、その一連の動作に身震いする。だけど、胸につかえていたものは、いつの間にかなくなっていた。


「ねえ、長さんは、なんで墓場から出て来たの?散歩?」と夏男は訊く。


「ははは、ジジイは説教好きなんだよ。未来ある若いモンが生きていくことの苦しさに向き合えずに墓場に恋焦がれるようにやってきては寝床にしては自分を否定していく姿を見ていくのがもどかしいんだ。老いぼれは、そうやって若者に説教することに喜びを感じるもんなのさ。墓場に入ってしまった骨には永遠に手にすることができない未来があるってことが羨ましくてな」


 夏男は、長さんには何でも訊いてもいい気がした。霊になるまで生きてきた犬の周りには、経験という柔らかいオーラがもやもやと滲み出ていた。今まで誰にも聞けなかった疑問が心の中で燻っては煙る。少しだけ焦げ臭い感情が言葉に宿ろうとする。


「ねぇ、長さん。生きる意味って何だろう?」


 長さんは、その夏男の質問に思わず笑った。


「死んだ犬に聞く質問じゃないけどな、お前さん。はははは。もう昔のことで忘れてしまったよ。意味なんてないさ。わしらの意志でわしらはこの世界に生まれて来た訳じゃない。そうだろ?雄と雌が本能的に気持ちいいことをしたおまけみたいなもんでこの世に生を受けたんだ。所詮、おまけなのさ。そこに意味なんて初めからない。でも、愛し合う男と女はそのおまけを欲しがるんだ、本能的にな。お前さんも私も気づいたらこの世界で生きていたんだ。でも、老いぼれ果てて死んでからこう思う時がある。生きていくことに意味なんてないことに向き合えたことに意味があるような気がするって。自分の目の前にある全てのものに、正直に、真っ直ぐ向き合うことには常に意味がある。自分の人生に無理に意味を求めなくてもいいんだと気づいてしまったら、妙に心が軽くなって、自由な気持ちになれたもんじゃよ」


 夏男は、耳の奥を伝って心に響いた長さんの言葉の意味を必死に考えようとした。


「長さんが言っていることは馬鹿な俺でもなんとなくわかるよ、難しいけど・・・なんとなく・・・」


「これがわかればお前さんは馬鹿じゃないさ」


「自分を馬鹿にして、否定する奴等が憎くてしょうがない時がある。それだけはしょうがないけど」


「それをも受け入れるんだ。受け入れることから全ては始まるんだ。それに、世の中の全てがお前さんの存在を肯定しようとして誉めたたえたら、それはそれで自分以外の誰かが自分の価値を勝手に決めては無理矢理に型にはめてレールに乗せてどっかに運んで行ってしまいそうな気分になる。そいつらの都合のいいように作り上げられてしまう気がして憎くなるもんさ。肯定も否定も中立も全て受け入れた時、本当の強さを手にいれることができるもんさ。誉められてばかりいる奴等ほど弱い奴等もいない。テストでいい点しか取ったことのない人生なんて脆いさ。人生で一度でいいから0点を取る勇気が持てたならそれは英雄気質。賞賛しかない現実だったら楽だけど、賞賛の裏には常に批判が影のようにつきまとい、その存在に気づけない奴等は生きていても死んでるみたいなもん。墓場へのファーストクラスのチケットを持ってるのと同じ。批判が生存本能を奮い立たせるんだからさ。無茶苦茶言われてるぐらいがいいのさ。野良犬なんて死ねと言われれば言われるほどムカつくから生きて生き抜いてやるってね。まだ、俺は生きてるぜ、ざまーみろって。だけど、そうやって無理矢理に生き続けていく中で、生きていく小さな喜びを見つけることができて、飼われてた頃には気づかなかった幸せを感じるようになれたりもしたもんだ、わしの場合」


 長さんと話をしていると、夏男は何かの催眠術に掛かっているような気がした。幽霊ラブラドールリトリバーの長さんの一言一言が心に染みていく。誰かを尊敬なんてしたこともない夏男だったが、初めて、先輩という存在を知った気がした。長さんは語るだけ語ったら大きなあくびをした。


「そろそろ寝た方がいい。いくら寝苦しい夜だとは言え、あまり夜更かししては明日を生きる力を消耗してしまう。成長期なんだから、お前さんは。しっかり眠りなさい。そして、眠りから覚めた時、もう二度と戻れない過去を少しでも受け入れられるようになっていたら、お前さんは少し未来に向かって歩いていけるようになっている筈だ。たとえ、未来が無意味なものだとしても、墓場でうずくまって隠れているよりはマシさ」


「長さん、ありがとう。ためになる話を聞いたよ。明日は、もう少し人面犬になってしまった自分を受け入れられるようになるかも。そうすれば、きっと未来に少し前進できるんだろうね。受け入れることから始まるかぁ・・・」


「そうだな」とラブラの長さんは肯いた。そして、「おやすみ」と言って、長さんは暗闇の中、墓場に戻っていった。火の玉が夜の闇の中で長さんの後姿を明るく印象的なものにしていた。夏男は、墓石の向こう側に消えていく長さんを見届けた後、ゆっくりと瞼を閉じ、眠りに落ちた。苦しんできた過去が溶けてしまいそうなほど、深く濃い眠りが夏男を柔らかく包む。

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