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After Surf ...  作者:
24/45

 由比ガ浜を猛ダッシュで逃げる井伊と夏男のちょうど目の前で、「助けてぇー」と若いビキニ姿の母親が狂ったように叫び始めた。もうすぐ由比ガ浜の遊泳時間が終了しようという頃。


「息子が浮き輪につかまったままままままま、海に流されていくぅぅぅぅぅぅぅぅ」と、切れてしまいそうな高くて細い声が辺りに響いた。

 井伊は海に目を向けた。確かに四歳くらいの男の子が浮き輪に浮んだまま、沖に向かって流されている。潮は上げていて、ついお昼まで浅瀬であった場所も子供では足が届かない。

 「私、泳げないんですぅぅぅぅぅぅぅ」と、母親の絶叫は続いた。

 井伊は、波の満ち引きに流されていく子供を見るなり何の躊躇もなく夏男を抱えたまま海に向かって走り出した。夏男は、冷汗をかきながらワンワンワンと井伊に訴えかけるように吠えた。


「おいおいおい、ちょっと待った石頭のお地蔵さん。自分が金槌だって覚えてないの?水泳の時間に一度プールで溺れたことあるだろう、お前さん。やややややややややめろ・・・待て待て待て」


 夏男の訴えを聞く素振りもなく、井伊は服を着たまま、電動ノコギリの入ったリュックを背負ったまま、夏男を抱えたまま、膝まで海水に浸かってるのに気づくこともなく、由比ガ浜の深みに向かって走った。そして、井伊は足が届かないところまで来て、あっけなく溺れた。夏男も一緒に溺れる。海に溺れもがく井伊は沈んでいく。

 夏男は、犬掻きで泳ぎながらなんとか井伊を助けようとした。ガキの頃から海の近くに住んでる夏男にとって泳ぐことは鼻毛を抜くくらいに簡単なこと。でも、犬の姿じゃ力が及ばない。そんな夏男と井伊のことは別にして、男の子はカレント(潮の流れ)にのって流されていく。ただ、流されていく男の子の下には、ライフガードが気づくよりも先に海の家で海水浴の遊泳時間(サーフィンが出来ない時間帯)をくつろいでいた3人のサーファーがボードにのって男の子の救出に向かっていた。

 傍から見れば夏男と井伊の滑稽な有様は、海と戯れて遊んでいるように見えた。男の子を救出に行くどころか自分達が溺れている・・・・そんな二人が本気で溺れているなんてことには、パッと見には気づかない。


「人のことに一生懸命なのはいいけどさ、井伊正義さん。あなたが溺れちゃどうしようもないでしょ・・・・」と夏男は必死に泳ぎながら、井伊の浮き輪になろうとした。でも、なりきれない。井伊は海水を飲み始めていた。しょっぱい現実が目に痛い。


 そんな滑稽な二人の溺れゆく姿を愛らしいものを見つめるような眼差しで見ていた人間がビーチにいた。由比ガ浜の海の家でしこたまビールを飲みながら、巨大なロングボードを海の家の壁に立てかけて、ゴッツイサングラスにアロハシャツを着た中年サーファー。アロハのボタンは全部開けてあって、真っ黒に日焼けしたビール腹が出ている。ちょび髭を口の上に海苔みたいに貼りつけたチャップリンみたいな顔でサングラス越しにオッサンの視線が二人を見ていた。

 オッサンは二人が溺れているのを酔っ払った意識でしっかりと確認し、立てかけていたサーフボードを抱え、アロハを着たまま砂浜を蹴り出し、海へと走り出した。

 波打ち際までやってきて勢いよくサーフーボードに体を預けたオッサンは、出っ張った腹とは違い、筋肉隆々の両腕で海を掻きはじめた。太い腕のパドリングで海を滑るようにして前に進むオッサンが操るロングボードは超光速のジェットクルーザーのようだった。そして、オッサンは井伊を颯爽とサーフボードの上に引っ張り上げ、犬掻きで泳ぐ夏男を救出して、抱きかかえた。オッサンが操るサーフボードはとてつもなくでかくて、まるで船みたいで井伊と夏男が乗っても沈まなかった。

 オッサンはボードの真ん中に跨りながら、サングラスを外して井伊と夏男の顔を何もかもを包み込んでしまうような笑顔で見つめた。二人が溺れるまでの一部始終をビールを飲みながら見ていたオッサンは、深みのある嬉しさをその表情で表していた。


「なかなか粋じゃねーか、坊主達。俺は、できそこないのヒーローって奴が大好きだぜ」


 オッサンは真っ黒な顔をクシャクシャにして笑いながら二人に話しかけた。サーフボードは波の動きに身を任せている。心地良い揺りかごのようだった。

 オッサンは、沖に流されていった男の子が三人のサーファーに助けられたのを確認して、「助かったか。良かった。海は優しく、寛大だが、同時にこの地球上のどんな存在よりも人間に対して厳しい。命を簡単に飲み込んでしまう乱暴なところもあるからな。波に流されるのはやはり子供だ。それは仕方ない。でもあらゆる意味において、人間いつかは波に乗らなきゃいけない時が来る・・・・。波に乗れるか乗れないかは、海と会話ができるかできないかだ。海を知り、自然を知り、自分の力量を知り、自分の可能性を知る。そんな海に愛される夏の男は波に溺れることもない・・・・けっ、意味のわかんねーことを口走らせやがるぜ、海の上で見る夕陽は」とオッサンは酔っ払った言葉をアルコール臭い口から零した。

 水平線に夕陽が浮ぶ風景が、磨きこまれて艶のあるサーフボードに映る。オッサンは、サーフボードの上で、冷静さを取り戻した井伊の背中をさすり、「大丈夫か?」と訊ねた。そして、抱きかかえた夏男の顔を見る。そして、驚きを隠さずに、自分が抱きかかえている存在の真相に気づく。


「お前さん、噂の人面犬じゃねーか?」とオッサンは言った。

 夏男は、とっさに身構えてオッサンを睨みつけようとした。でも、ガンを飛ばしきれなかった。オッサンのちょび髭がそよ風にゆれると笑えてしまって、憎む気になれない。オッサンは包容力に溢れるオーラをちょっと年老いた顔の皺一本一本にまで刻みこんでいた。真っ白な歯で笑うけど、その歯と歯の間には優しさが食べかすのように詰っているように見える。只者ではないのだろう。オッサンの周りには、ぬるくて、あたたかくて、気持ちのいいトロめな風が吹いている。彼の前では何を粋がっても受け入れられてしまうような気がした。オッサンは夏男の顔を何の偏見も持たずにジロジロ見ながら隅々まで観察した。


「おい、ワンワン坊主。なかなかいい面構えしてるじゃねーか。えっ?人間だってお前さんみたいに精悍な顔つきをしている奴はそうそういねーよ。人面犬でもいい面構えをしてる奴の顔を見ると気分がいいぜ。胸がスカッとすらぁーなぁ」


 オッサンは、そう言うと一瞬、間を置いて、波に揺られながら大きな空を見上げた。


「まあ俺はよ、人面犬を見るのはこれが初めてじゃねーからよ。別に見世物小屋で飼われていたところで興味も湧かねー訳。この世に人面犬なんて奴はいっぱい、いっぱいいるぜ。ただ皆隠れて表に出てこないだけよ。人里離れた山の中とかでひっそりと犬の尻尾を力なくふりながら自己嫌悪とともに生きている。別に珍しいことじゃねー。人間っていうチンケな存在が珍しいと思うことが自然界では全然当たり前で常識だったりすることは数え切れない程だ。大空に浮ぶ星の数ほど、この世には不思議なことがあるもんよ。理解できないことに目をそむけ、上っ面の事実だけで生きてるのが人間って奴だ。俺も10代の頃はよく自分が野良犬になった夢を見たもんさ。朝起きたらこのまま犬になってたらどうしようって怯えながら生きてたぜ、あの頃」


 オッサンの言葉が浮ぶ夕方のオレンジ色の空に、闇が浸食し始める。オッサンは、夏男がアロハシャツを着ていることに気づく。一日が終ろうとしている時間。夜の眠りに向けて、時の潮目が変わり始めている。そんな夕焼けと夜の処女闇が交わろうとしている空の下でくすんだアロハシャツが蛍の光のようにほんのり輝く。


「へへへへ、ワンワン坊主。お前、いいアロハ着てんなぁ。俺は夏が好きな男が好きだ。粋だからなぁ。夏が好きな男達ができそこないのヒーローだったりするとたまらなく愛らしいな。そういう男に女は惚れるもんさ。女だけじゃねぇ、男にも惚れられちゃう。湘南のビーチにゃ、男女のカップルばかりじゃないからな。禁断の愛を貫こうとするカップルもたくさんデートに来てるし、同姓のパートナーとの出会いを求めに来てる奴等もいっぱいいるからな。粋なだけにモテモテな訳だ、男女問わず夏に生きる男って奴は、はははは、いいんだか悪いんだかわかんねーけどよ。そう、そして、アロハは、夏に命を捧げてもいい男が着る服だぜ。冬には死ねない男達の勝負服だ」


 オッサンは、サーフボードの上で乱暴に夏男の頭を撫でた。その撫で方には、荒々しいが男のリスペクトが込められていた。井伊は、つられるようにして夏男の体を撫でた。滅茶苦茶な撫でられ方だったけど、夏男は、なんだか嬉しかった。


 少しずつだけど確実に時は流れていく。止まることは一瞬たりともない。いつしか遠い昔に遊泳時間は終わり、海には夕方の波を楽しむサーファー達だけが残り、砂浜は徐々に冷え始めていた。

 夏男と井伊は、サーフボードの上で波に揺られながら、水平線に暮れゆく陽の光を名残惜しそうにオッサンと一緒に眺めた。夏男には見慣れた筈の由比ガ浜の水平線。人間だった頃、数え切れない程一人で眺め続けた。でも、男達三人で見つめた水平線は今までよりも、ずっとずっと大きくて、無限の広がりを持っているように感じられた。今まで一度として感じたことのない一体感が夏男の体を痺れさせる。じーんときて涙が出たけれど、その涙は陽が沈んだ後に生まれる、もう処女じゃない闇に隠された。

 オッサンは、二人がヤクザの若頭に見つからないように、バージンを失った経験豊富な夜の闇に身を預けて、こそこそと隠れながらサーフボードを漕ぎ、人目につかない坂の下海岸の端っこまで乗せていってくれた。そして優しさを持って二人を解放してくれた。

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