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After Surf ...  作者:
23/45

 夏男は、思った・・・。


 この一週間・・・・何人、自分が過去に叩きのめした人間達が盆バーの二階にやってきては、夏男のことを笑っただろうと。

 愛のない先公達、生きてることがつまらなくて仕方のないクラスメート連中、チワワズに代表されるような半端で格好ばかりの不良ども。そして、生き甲斐もなく目標もない暇を潰すだけに生きているような人間と生きるというその行為の本質から目をそらし続けて上っ面だけで生きている人々。

 夏男は、笑われるのにも慣れてきてしまった。何も考えずに、顔を上げ、無表情な醜い顔を浅はかな人間どもに晒し、奴等を腹の底から笑わせてやれば、朝と夜に夏男を餓死させないための残飯が盆バーの調理場から支給される。

 生きるためだけには生きてはいる。

 無意味でもたった一つの自分の命を失う怖さを受け止められずにいるのなら、意味もなく生きることはできる。憎しみあい、けなしあうドロドロの社会の中で自分だけが生き残ることを考えることは・・・・・意外と簡単なのかもしれない。でも、それは何の解決にもならず、ただ無意味な人生を死の恐怖に怯えながら守っているだけ。

 死ぬということがとても難しく感じる。そして、それ以上に生き続けるということがわからなくなる。

 夏男は混乱していた。そんな夏男の前に、売れ残りの唐揚げを頬張りながらいっくんが毎晩やってきては、「この程度の人生で開き直った方がいい」と言う。

 「今でこそお前は笑われて、心に数え切れない傷を持つ哀れで醜い存在かもしれない。でも、そんなのは時が流れれば、海に沈む鼻くそと同じで誰も気づかなければ、自分ですらその海底に沈む鼻くそである自分の存在を忘れてしまう。今でこそ、お前を苦しめる奴等がいる。でも、そんなのは・・・そう長くは続かないさ。いずれお前は飽きられて、誰もお前のことなんか気にしなくなる。そしたら、きっと気ままに暮らせるようになるよ。人面犬が笑われるのは最初だけ。一度見たら、もう二度とお前のことなんて見に来ないさ。楽になれるぜ。楽になりたいだろ。苦しんだってしょうがねーよな。別に諦めてもいいぜ、俺がお前に出した夏休みの宿題。人間に戻るのも諦めるのならな」


 悪魔のいっくんは、夏男を諭すように毎晩、同じセリフを夏男に聞かせる。夏男は何も言わず、黙って悪魔の言い分に耳を傾けた。人間って何だろうと・・・思ったりもする。そして、考え抜いた末に夏男は思ふ・・・別に人間に戻りたいんじゃない。帰るべき場所に帰りたいだけなのだと。夏男は、何もない空間を見つめながら思う。そして、人間の忌々しい一極集中の行列が消える開店前と閉店後に夏男は、小さな小さな声で遠吠えをする。特に意味はないけど、ため息のような遠吠えが微かに口から漏れる。アロハシャツの色はくすんでいく。


 早朝と深夜の区別がつかない真っ暗な午前四時の空の下、薄い壁の向こうにある由比ガ浜から波の音が聞こえた。夜が明ければ、サーファー達が集まってくる。波を求めて・・・・。だけど、波を求めてるのは、サーファーだけじゃない。醜い人面犬も心から求めている。目を閉じて波音を聞く。そして波音に心を預けると一瞬・・・なぜだろう・・・抱きしめられた気持ちになる・・・。誰も抱きしめてっくれないこの世界で・・・・。

 目と鼻の先にあるその大きな海が湘南特有の細やかで小さな波を打つ。そのささやかな波の営みが夏男の心に届く。寄せては・・・・・返していく・・・・。悪魔の囁きが鼓膜の奥に忘れられない記憶として刻まれる。

 近い筈の波音が遠くに聞こえる瞬間がある。

 そんな時、夏男は、心に溢れている言葉を全て消し去る努力をする。悩みも苦しみも悲しみも何もかも消し去ってしまう。そうすれば空っぽの心に波の満ち引きが染みてくる。海だけは自分から遠ざけてしまいたくはなかった。



翌日、太陽が昇り、いつもと同じ朝がずうずうしくも当たり前の顔をしてやってくる。夏男を馬鹿にする人間達の行列は途切れることなく、その反響ぶりに海の家を訪れたヤクザの若頭は感動すらして、瞳にうっすら涙を浮かべる。なぜ、涙が出るのかはわからないが、これが成功というものなのだろうと、若頭は達成感を味わっていた。汚れることを宿命づけられた顔に生まれて初めて何かを成し遂げた気がするというような安堵の表情を浮かべる若頭を見て、悪魔のいっくんは満足感を味わう。


「誰かを犠牲にしなきゃ成功なんてできないさ。生贄を悪魔に捧げてこそ、この世での快楽を味わうことができる。そして、自己中心的で穏やかな安堵感を得るのさ。素晴らしき生贄、夏男。ハレルヤー」


 そう叫んで、いっくんは、見世物小屋の開店を告げた。組に雇われた若い従業員達が、お客様をもてなし始める。いっくんの提案で、若頭はマスコミに『人面犬』特集を組ませようとテレビ・新聞・出版各方面に海の家の一階の奥から携帯で電話をかける。目の前にある小さなテーブルの上に、イエローページを広げて売り込む。


「人面犬なんて時代遅れじゃない?」とテレビ局は言う。


「いや、人面犬は普遍的な存在だよ」と若頭は言い返す。


「あっそ。ま、あまりにネタがない時のつぶしとして覚えておくよ。じゃあ」とテレビ局の人間が暇人の悪戯電話を切ろうとした瞬間に、若頭はテーブルの上にいっくんの書いた文字でメモが置かれていることに気づく。目を落とすと、そこには伝言が書いてあった。


「小田原のとある養鶏場の鶏達は、鳥インフルエンザらしいとマスコミに伝えろ」


 若頭は、そのメモに従って投げ捨てゴミ的な情報をテレビ局に押しつけた。あの悪魔があの養鶏場に異常に執着しているのはわかっている。何かしらの悪巧みをしているのだろうと若頭は怪しみもせずにそう告げる。


「あっ、ちょっと待った。小田原のとある養鶏場の鶏達、鳥インフルエンザらしい。覚えておくといいよ」


 そして、テレビ局に悪戯だと思われ続けた電話は切れた。


 メモ・・・・・。


 悪魔は、悪事の記録を残さないために、誰かに何かを伝える時には、紙媒体は決して使わない・・・。若頭が煙草を吸いに海の家から外に出た瞬間に、そのメモは海風にのって、相模湾に向かって飛んでいった。風に舞ったメモは、沖合いまで飛ばされて、力なく海面に落ちた。海水がメモに滲みていき、そして海の底へと沈んでいった。


 ☆


 この日の午前中も、夏男が過去に潰した葉山じゃ名の知れた不良男子高校生が二人でやって来た。


「マジだな。夏男に似てるわ。顔が毛むくじゃらで完璧に人間の顔じゃねーからわかんねーけど、ただの柴犬にしては夏男に思いっきり似てんな。しかもアロハ着てるし」


「あまりの悪事を見かねた神様が夏男を犬に変えたんだろうな。俺、このアロハ見ると胸焼けがして、イライラするわ」


 青いカラーコンタクトを入れた一人が夏男の檻を威勢よく蹴り飛ばした。夏男は無気力に軋む檻の中で、身をかがめた。そして、眉毛を限りなく細くしたもう一人も檻を蹴り飛ばした。

 煙草を吸い終わり、海の家に戻って来ては物音に気づいた若頭が階下からやってくる。粋がる二人の男子高生を人目のつかないところに連れ出し、「俺の商売道具を乱暴に扱うんじゃねーょ」とドスの聞いた声で叫びながら、海岸から少し離れた場所にある事務所に連れ込んだ。そして、組の若い連中に銃を握らせては二人に向けさせ、若頭は震え上がって身動きの取れない二人の不良高校生をボコボコにした。現実、それは殺傷能力の強い武器を持つものが・・・・いいように支配する世界。飛び道具である銃口を向けられれば人間も動物も命乞いをするしかない。


「すみませんでした・・・」


 学生という枠内で調子に乗っていた高校生は、武器を突きつけられながら泣きながらそう叫んだ。そうして社会での現実的な力関係を学ぶ・・・・。


 ☆


 熱っつい一日が少しずつ冷めはじめた夕方、盆バー閉店まで後三十分を切ったところで、夏男のクラスの学級委員、井伊正義が人面犬見世物小屋にやってきた。井伊正義と夏男は犬猿の仲だった。悪魔のような振る舞いをする最凶の夏男と正義感の絶対性を信じる天使のごとき信念を持つ喧嘩が滅茶苦茶弱い井伊。夏男が弱い者イジメをしている現場を目撃すれば、井伊は訳もわからず夏男に体当たりしてくる。腕力ではとても夏男に勝てない・・・ボコボコにされるのはわかっているのに、井伊は夏男に対してタンカを切りつっぱる。


「花成夏男!!弱い者イジメはやめろぉぉぉぉ。力あるものが力なきものを虐げること程、正義に劣るものはない!力に頼るお前こそが真の弱者だ」


 理想論ばかりが口から出てくる学級委員の言葉に夏男は聞く耳を持たずに、井伊をボコボコにする。ただ・・・みぞおちを八分の力で殴り、うずくまり咳き込む井伊をもう一度手加減して殴る。

 井伊を殴る時、夏男は一度として本気になったことはない。体当たりしてきては、やっつけられる井伊正義を夏男は内心では一番信頼していた。

 握り締めた拳に柔らかい感触だけを残そうとする・・・表には決して出さない気持ち・・・・・「俺に構うとお前が馬鹿を見るから、俺に近づくな」とでも言いたげな夏男の力の抜けた鉄拳が華奢な井伊の体の柔らかい部分を加減しながら痛めつける。

 表面上は全く理解し合えない二人だが、怖がって誰もが夏男を避ける学校で井伊だけは、「夏男、煙草を吸うな!成長期の体に悪影響を及ぼす!!」と叫ぶ。

 誰も夏男の目を見ない。でも、井伊は夏男の目を真っ直ぐに見ることができた。

 夏男にやられるのをわかっていても喧嘩を挑んでくるその勇気と度胸と正義を貫こうとする井伊の姿勢は、悪魔になりきろうとする夏男とは逆のつっぱり方だった。夏男と井伊はお互いの言い分を二人でつっぱりあっていた・・・・・・。

 井伊正義のそのあまりに強すぎる正義感とちょっとした悪事も見逃せないその性格を人は鼻で笑い、厄介者扱いをし、影で『石頭のお地蔵さん』と呼んでいた。井伊は、夏男の悪事を責めはしたが、夏男の存在自体を否定し、馬鹿にしたことは一度もなかった・・・人間だったあの頃・・・・。


 井伊が盆バーの二階にやって来たことに、夏男は悲しみを突き抜けたような失望を感じた。そしてその失望の上には自然と絶望が塗り重ねられる。

 あああああ・・・・遂に、井伊正義までが自分の姿を馬鹿にしに来た。心に刻まれた全ての傷が大きく開き、感情の血が涙のように流れてはポタポタと心の水溜りに落ちていく。夏男は、傷だらけの喉で井伊正義に吠えた。そして、憎しみに呪いを混ぜて井伊を睨みつけた。でも・・・・井伊は自分を睨みつけるそんな夏男の瞳を真っ直ぐに見つめながら、悲しみを表情に浮べ、そして涙を流した。

 夕焼けが海の家の粗末の作りの壁の隙間からオレンジに熱い赤を混ぜながら注ぎ込んでは暗かった部屋に体温と同じくらいの温もりを残そうとする。


「こんなことが許されてはいけない。たとえ人面犬であろうと一つの生命であり、この世界に生まれたかけがえのない存在。生命を嘲笑することは生きとし生けるものが起こしうる最も非道で残虐な行為・・・・・。食物連鎖の過程で動物は他の動物や野菜を食らうことがあっても、それは生命を繋ぎとめる生きるための行為。自分を明日へと生かしてくれる肉や草花・・つまり自然を敬い、決してこの世界に生存する生命を軽蔑することはない。尊き生命を嘲笑することなど絶対に許されない。なぜこんなに卑劣な嘲笑をたった一つの生命に注ぎ続けるような慈悲なき残虐な行為を人間はするのだろうか・・・・人間という動物が作り上げた現代社会は、救いようのないほどに腐ってしまったのだろうか・・・・・」


 一人激しい思い込みの世界で途方に暮れる井伊。そんな沈痛な面持ちの学級委員を睨みつけて吠え続けていた夏男は・・・井伊の言葉にあっけにとられた。

 細めていた大きな瞳が思わず大きく見開いた。さすが『石頭のお地蔵さん』の考えることだった。夏男は感動のあまり思わず井伊を拝みたくなった。そして、ミッキーマウスがプリントされているTシャツに身を包んだ井伊は、意を決し、コミカルにテキパキと動きながら、担いでいた大きめのリュックの中から道具を取り出す。

 学校の技術室に常備されていた小型電動ノコギリ・・・。井伊は手にしたチェーンソーのスイッチを入れる。するとウィィィィィィィンと何もかもを切り刻めてしまえるような音がした。

 井伊は、夏男の檻にかけられた扉錠を火花を散らしながら切りつけ、檻のドアを開ける。そして、夏男を救い出し、華奢な腕に重たい柴犬の夏男の体を抱きかかえて、階下に向かって駆け出した。夏男を抱えてその重みを受け止める井伊の細い腕が震える。全ては一瞬の出来事。

 電話でマスコミ各社に売り込みを掛けていたヤクザの若頭は突然の井伊の行為に対応できず、人で混み合った砂浜に逃げていく井伊と夏男を由比ガ浜の波打ち際で見失った。いっくんは夏男の逃亡劇に気づいていながら、手を貸さなかった。いっくんは、スケジュール表を見ながら逃げていった井伊と夏男の後姿を思い出しては笑う。


「予定通り。夏男が井伊に救われることは想定の範囲内。夏男も馬鹿だが、あの学級委員も馬鹿だ。馬鹿が二人揃うと何かしでかす。馬鹿が二人同じ町に住んでいる現状を考えれば、いずれこうなるんじゃないかってことはわかりきったことだった。さあ、これで飼いならしは終わり。後は野良犬として生きていくんだ、夏男。帰る家はない。そして、お前は人間に戻りたくてしょうがなくなる。そういうストーリーなんだ。人間に戻るには、何をしなければいけないんだっけ?」

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