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After Surf ...  作者:
22/45

 由比ガ浜にある海の家『盆バー』


 夏のお盆が最も忙しいバー。バーといっても名前だけで、ただの海の家。メニューにあるのは焼きそば、チキン唐揚げ、レトルトカレー、生ビール、チューハイ、コーラー等等。カクテルは一つもない。台風が来たらすぐに崩れ落ちてしまいそうな木造の小さな二階建てで、由比ガ浜にある海の家の中では一番ダサく、ボロく、売上が少ないシャビーな感じがする海の家。そんな海の家の二階に、若頭といっくんは、人面犬の見世物コーナーを設置した。模造紙に黒マジック書きの汚い文字で広告を作る。


 『鎌倉駅前で噂になったあの人面犬確保!当店二階にて見物可能。このチャンスを逃すな。ほんとーに醜いよ♡♡♡ラブ♥♥♥(見物料千円)』


 その広告は、でかでかと店の一階に張り出された。ラブの意味がわからない。しかし、人面犬確保という謳い文句は、日焼けしたボインな姉ちゃんのビキニ姿の胸の谷間程に刺激的だった。むずむずうずうずするような興奮を誘った。

 辺りの海の家からは夏によく聞かれるヒットソングが流れ、人で埋まった砂浜はうるさいくらいに賑やか。楽しそうな雰囲気以外の何ものも混じりえない夏の海水浴場。

 夏男は、二階の擦り切れた畳の上に置かれた小さな檻の中に閉じ込められた。

 檻檻檻・・・気づいたら檻から檻へと閉じ込められ続けている自分に、夏男は気づく。野良犬の時にもてあましていた自由は、もうない。そんな夏男は、檻の中で静かに耳を澄ませる。

 二階の薄い壁の向こうから、海水浴客のはしゃぎ声に混じって、由比ガ浜の波の音が微かに聞こえた。壁の向こうで、風が無邪気に海と遊び戯れ波を起こす様子が目に浮ぶ。生まれた頃から見てきた由比ガ浜の景色は小さな音を聞くだけで想像できた。だけど、そんな夏男が唯一癒しを手に入れることができた由比ガ浜で、夏男は檻に入れられ、惨めな姿を人に晒さねばならない状況へと追い込まれている。

 階下から、いっくんが唐揚げを頬張るぎとついた音がする。檻には鍵がかかり、逃げられない現実がそこにはあった。ライフガードのお兄ちゃんお姉ちゃんは、海水浴をする人達が溺れていないかを双眼鏡でチェックしている。でも、海の家に監禁された夏男のことは知りえない・・・・。


 壁の向こうで、ざわめきが台風シーズンの頭オーバーの波のように押し寄せはじめていた。盆バーの前にはあっという間に人面犬見物のための行列ができた。誰もが、醜い生き物を見るために胸を躍らせる。騒がしい人間の心の動きが、海が奏でる潮騒のメロディーを完全に掻き消す。人面犬を飲み込むかのように、盆バーの入口から遠く遠くまで長い長い海蛇のような行列ができていた。若頭はそれを見て、「人面犬は、やはりいい商売になる」と大いに笑った。

 夏の太陽は、その眩しさゆえに様々な醜いものをうんざりするくらいに照らし出す。人面犬という存在は、そんな夏の太陽の影に隠れる存在でしかない・・・・・本当に醜くく太陽に照らされているのは、人面犬を嘲笑する人間達の表情だと・・・・騒がしい現実を見つめながら鎌倉の大仏様はそんなことを思った。

 汚らしい光景が、海の家の二階で繰り広げられる。いや、二階だけじゃない・・・・心ない人間がビーチや海にゴミを捨てていく。ビーチサンダルを履かずに波打ち際を歩けばガラスの破片を踏んで怪我をしてしまうのが現実・・・・か・・・と大仏様。

 騒ぎ声は消える気配を見せず、抜けそうにゆるい板張りの階段を軋ませて次から次へと人間が薄ら笑いを浮かべて二階にあがってくる。擦り切れた畳、人間が夏男を見物するために檻に歩みよることでより擦り切れていく。そして、人間達は夏男が閉じ込められている檻の前で足を止める。


「うわっ、マジだ。人間の顔してんのに、体が柴犬じゃん。キモい。でも、ウケる」


 無数の好奇の目が夏男を食い入るように、はたまたジロジロと舐めまわすように見ては、檻に入れられた哀れで醜い存在を大声で嘲笑した。


 「なんでこの人面犬、アロハシャツ着てんの?似合わない!!可愛くない!!!超うざい、こういう生き物。あははははははははっ」と、一見優等生風でスカートの長い女子高生が何かが切れたかのように大笑いしながら、夏男を罵倒する。

 初めは、何を言われても、何を笑われても、無視しようとし続けた夏男。檻の中にいれば何もできない。それは、自分が一番よくわかっていた。しかし、尊厳を維持しようとする生命体は、ある一定の量の罵倒を受け止めた後、ダムが氾濫するかのように狂ったように抵抗を試みる。

 気持ちを抑え込めば抑え込むほど、反発は激しくうなる。

 夏男は、圧倒的な罵倒の量に耐え切れなくなり、嘲笑される度に吠え始めた。

 声が枯れるまで吠えた。

 喉が痛くて苦しくても、それでも吠え続けた。

 馬鹿にされるのは、もう・・・・我慢できなかった。屈辱の泥を体中に塗りたくられ、尻の穴にまで突っ込まれている気分になった。

 夏男は、吠えに吠えに吠え続けた。目の前で自分をあざ笑う存在全てに対して夏男は吠えこみ、心で何度も同じ呪文を唱えた。「こんな醜い姿になってしまったのは・・・・何もかもお前達のせいなんだ」と。


 だけど・・・・


 切ない想いを吠えることで表現すれば、見物人は大笑いする。新鮮な笑い声が腐ってしまいそうなほど、暑い小さな部屋に充満する。軽蔑は、更に度合を増していく。腐りかけた笑い声が盆バーの二階から絶え間なく響いた。

 檻の中、夏男の周りにまとわりつく腐ったゆで卵に膿をぶっかけたような恥辱に誘われ、蝿が次から次へとたかってくる。浜辺に上がってしまった稚魚に群がるカラスがいるように人面犬の見物客は途切れることない・・・・・。そして、海から無数に流れ着くゴミを終わりのないほどに投げつけられている気分になる。

 夏男は叫び続けて傷つく。そんな嘲笑の嵐の中で死んでしまいそうな醜い生物の周りには微生物がまとわり続ける。死にかけの肉ほど、血が滴る新鮮な味がして旨いのだろう。蝿や虫や微生物は、ぶんぶんぶんぶんと集まり、大群になって盆バーの二階へと群がっていった。それでも、侮辱に半殺しにされている夏男は害虫を振り切ろうとした。


 が・・・・・・


 夏男は、吠えきれなくなり、喉から血を吐いた。吠えすぎて、喉は潤いを失っていた。それでも吠え続けようとはした。だけど、乾いた喉元が、紙の端っこで指を切り裂くような風にして声の振動に震えて切れていく。自分の声が自分の喉を深く切り裂いていく。心の叫びが鋭い響きとなって器官をぱっくりと切り裂き続ける。そして、空気を吸うたびに血が喉を伝う感覚が胃に落ちていく。吠えれば吠えるほどに痛く苦しく自分を傷つける自らの声。夏男が喉の奥から血を絡めた痰を吐く姿を見て、また観客は大笑いをする。


「すげー、この人面犬、血まで吐くよ!!!やべー」


 嘲笑は永遠に終わらないように感じた。なぜ外見だけでこんなにも嘲笑されなければならないのだろうか。なぜ人間は生命の本質を無視し続け、上っ面で全てを判断してしまうのだろう。夏男は、そんな現実を前にして・・・・もう声が出ない。この世界は、人類という害虫が滅亡するまで汚れ続けていくような気がした。本物の美しさを知らないもの達が美しさを語り、ありのままの姿で生きているものを嘲笑しては破壊していく。夏男は、声にならない気持ちを押し殺しながら、皆、死んでしまえと思った。


 「私だったら耐えられないな。こんな醜い人面犬に生まれたら、絶望のあまりすぐに自殺するだろう。犬なのに人間に似ていて、人間なのに犬に似ている。あまりにも半端過ぎる。仕事ができない典型的なタイプだ」


 エリートサラリーマン風の人間が軽々しく何千年も前の先祖から受け継がれては授かった命について自殺を口にする。偉ぶってる奴が語る生死の論理ほど信憑性がないものもない。所詮口先。自分が夏男の立場に置かれても自殺などはしないだろう。口先の論理に命が宿る人間にとっての自殺というものの意味は、所詮にっちもさっちもいかなくなった状況で黙ることでしかない。死ぬ訳じゃない。死ぬことすらできない。ただ黙るだけ。その黙りながら沈んでゆく論理が一見エリート風のサラリーマンにとっての自殺になるだろう。そして、最後にはその沈黙に耐えかね、命乞いをする。現実の有りようと自分の語る言葉の意味の薄さの乖離に気づかない典型的な観念論者。

 大仏様は、盆バー内の光景を見つめては、胃がムカムカしてきた。胃薬を取り出す。実体験に基づかない口先だけの論理で自分が優秀だと思い込んでいる人間には吐き気がする。何もできやしないくせに・・・・人を見下す。大仏様は、それでも夏男を馬鹿にする人々を見て見ぬフリをし続けた。エリートサラリーマン風な男は、まだ言う。


「所詮、負け犬ということだ・・・・こういう無様な存在は」


 吠えることすらできなくなった夏男は、そんなエリートを自称する人間の目をただ睨みつける。そして、そういう人間ほど、相手の目を見ることすらできない。他人と視線を合わすことすら恐れ、目をそらしたまま、自分の正当性を愚痴とともに主張する。エリートサラリーマン兼ただの雇われ使われ労働力とは所詮そんなもの。夏男は、自分に対する嘲笑に睨みをきかせ続ける。視線は最後まで噛み合わなかった。


 蝿は次から次へとたかってくる。


 「人面犬って醜いな。もし俺が悪魔に呪いかけられて人面犬になってしまったらどうする?」と、熱々の手をつないだカップルの彼が彼女に訊く。


 「別れると思う」と熱々カップルの筈の彼女が言う。


 「そんなもんなの愛って?」と若干背筋に寒気を感じノ彼が訊き返すと、「そんなもんでしょ、愛って」と冷めた口調で彼女は言い返す。


声の出なくなった夏男は、吠えることすらできず・・・ただ人間達を睨み続けた。大きな瞳を目一杯細くして、自分を嘲る濁った視線を睨み返し続けた。負けまいと夏男はツッパった。でも、無限にも感じる多くの人間達が夏男の前に現れては、夏男のことを批判する。

 夏男の気持ちは、生まれてからずっとまっさらな砂浜のようにきれいだったのに、そこにゴミを捨てていく奴等がいる。そして、ゴミが散乱した夏男のことを汚いものを見るような目線で見る。そんな無数の視線に次第に耐えられなくなり・・・少しずつツッパりきれなくなる。

 ゴミは拾いきれないほどに心に散乱し、キレイな心にはいくら小さなゴミを一つ一つ拾ったところで戻れないと感じる。

 終わりが見えない。しわのよった目の端の筋肉が痙攣する。そして、何もかもを投げ出すように、海に沈んで死んでしまいたいと思いながら夏男が顔を覆い隠すようにうつむくとヤクザの組員が二階にあがってきて夏男を閉じ込めた檻を蹴り上げる。恐怖心を煽り、夏男に顔を上げさせる。うつむいていた瞳に涙が水溜りみたいにたまっている。夏男は、涙目で顔を上げることを強いられて、その健気な姿がまた笑いの的になった。涙で視界がぼやけた。夏男に出来ることは心の中で繰り返し呪文を唱え続けることだけ。


 「呪ってやる。この世の全ての人間を呪ってやる。悪魔になってやる。悪魔になって、俺をこんな姿に変えた全ての人間に復讐してやる」と夏男は悪魔になるための呪い文句を心の中で繰り返した。そんな夏男の道徳観に悪魔教育センターの先生方はオール5を与えてくれるかもしれない。そんな日々が一週間近く続いた。

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