⑳
生き抜くためにゴミを漁る術を覚えた夏男は、カラスの毛のように真っ黒なくまを目の下につけながら、げっそりと夏の暑さに喘いだ。ゴミの中には、夏の熱気に蒸されて痛んで腐ってるものも多い。夏男は、鼻で嗅ぎ分けて食えるものと食えないものを区別するが、それでも腐ったゴミを口にすることはある。腹は下り、下痢が肛門から垂れ流れる。
犬は、どこで野糞をしても文句は言われない。文句を言われるのは飼い主である。飼い主のいない野良犬は、基本的に無罪でしかない。夏男は、道々にウンコを垂れ流した。胃腸の調子が優れずに肉は削げ落ちてくる。生きてはいるが、疲労と消耗が甚だしい体・・・・。
暑さに痛む生ゴミのように、自分の肉体も痛んでいくのを感じる。吐く息は妙に臭かった。この蒸し暑い現実の中で夏男という存在の色んな部分が腐りはじめているのだろう。痩せ細り骨が剥き出た四本足で彷徨い歩く夏男の肛門まわりにはウンコがいっぱいこびりついてカピカピしていた、それを遥か空の上から双眼鏡で見る悪魔のいっくん。
「夏バテしてきた夏男をそろそろ捕獲して、体調を整えてやるか。そして、次のプランへと移らねばな」
いっくんは、汗に疲れが滲みこむ夏男を空から見下ろした。そして、調教のご褒美だといわんばかりに、空高くからウナギの蒲焼を夏男の前に落としてやった。
夏男は、空からウナギが降ってきたことにビビった。
夏男は、空を見上げた。いっくんは、雲の上にいる。夏男の視力では届かない場所にいる悪魔。夏男には、ウナギが空から落ちてくる理由がわからなかったが、この世には、そういうこともあるんだと思って、目の前に落ちてきたウナギを貪り食った。
目の前の誘惑に抗おうなんて気持ちはさらさらない。
噛み締めたウナギはタレが滲みてて旨かった。土曜日に「うっし!」と気合を入れるような用がある時は、ウナギを食えとはよく言ったもんだ。人間の頃も貧乏でウナギを食ったことのない夏男は、確かに、これで週末はハイテンションだなと思った。ただ、今日は平日。週末でもないのに、夏男の気持ちに若干の余裕が出来た。ウナギの効用。それを見て、いっくんは微笑む。
「油断すれば、罠にかかるということを夏男に調教してやらないとな。気持ちの余裕なんてものは、堕落した怠け者が求めるもんさ。張りつめて勉強してこそ受験は乗越えられる。目の前の誘惑に手を出しちゃいけないんだぞ、夏男。そんなお前に小テストを出すわ」
いっくんは、夏男の目の前にウナギの蒲焼を次々と落とし続けた。夏男は、空を見上げる。道路に落ちてくるウナギにあわせて、見上げた首を何度も上から下へと動かす。目の前には、ウナギの蒲焼が点在し、線で結べば生前のウナギの長くてくねくねしたような形になる。
「不思議なことってあるもんだなー」
夏男は、騙されていることを知らずに見上げた空の青さを信じて、ウナギを食べていった。肉厚なウナギが香ばしく焼かれ甘辛いタレがしっかりし染み込んでいて旨くて、次から次へと食べてしまう。
やめられない。
小骨が軽く喉奥に刺さるが気にもならない。
ただ・・・・小骨も喉奥に刺さりに刺されば、声が出なくなる。現実と幻想の中間点に点在するウナギの蒲焼の存在はあまりに漠然としながらも、妙に意味ありげだった。夏男は、いつしか道路から外れ、鎌倉を流れる滑川の浅瀬の泥の上を歩いていた。
いっくんは、市場で仕入れたウナギの領収書にふと目を落とす。「上様」と宛名に書かれた紙切れ一枚の価値・・・・・いっくんは、出来の悪い悪魔達に自分の答案をカンニングさせてやった上納金で、ウナギを買う金をタンマリ得た。
最も多かった稼ぎは、PTA会長の馬鹿息子のテストを不正に自分の答案と入れ替えた案件。理系の秀才のいっくんは、タレを理科の実験室で薬品を混ぜて作り、ウナギは、アルコールランプで焼いた。「上様」と書かれた領収書がいっくんを思わず微笑ます。
いっくんは、次々とウナギを食べていく夏男を雲の上の空から双眼鏡で見つめて、携帯電話を取り出して、一本の電話を入れた。ガリ勉君のきぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇな会話だけでは全貌が掴めずに、夏男の居場所を把握できない保健所に助言を下す。
「閻魔橋に向かって、滑川の浅瀬を野良犬が歩いていくのを見たけど・・・・」
それだけ言って、いっくんは、あっさり電話を切った。一度逃がした悔しさが保健所職員達の心には焦びりついている筈。保健所職員がすぐに動き出すのは、計算上よくわかる。夏男を保健所に入れて、少し休ませて、その上で処分される恐怖を存分に味あわせて調教しよう・・・・・それが、悪魔エリート高校生が生物拷問学の時間に学んだ飴と鞭の犬の調教方法。
夏男は、何も知らずに、若さゆえに何も疑わず、空から降ってきたウナギを食べ続けながら、自分が川の上を歩いていることにも気づかずに鎌倉の閻魔橋に向かって行った。先回りしようとする保健所職員達。閻魔橋の真下に、夏男捕獲のための罠を仕掛ける。川の水はせせらぎ、罠の仕掛けは進んでいく。夏男は、閻魔橋に導かれる。いっくんは、保健所職員と夏男の両方の風景をそれぞれ左目と右目で分けて見ながら、なんとなく空の上で独り言を呟く。
「まだまだ道半ばだな、夏男の小田原への道は。どうやら、俺の企みはパンチパーマの大仏には気づかれてないようだし、まあいいか。あいつは、俺が悪魔ながら善の心を持つようになったと信じてやがる。はははははははっ、これだから性善説を信じる奴等は馬鹿を見る。世界の歴史の中でも最も優れた思想は、性悪説だよ。見てみろ、俺が鎌倉の守護神大仏を欺き、根性のない坊主達を堕落させ、そして欲深い人間達の狂気を狂喜に変えている現状を。悪魔教の信者は増えるばかり。世界に悪のウィルスが伝染し、どんな抗生物質も通じない。なぜなら、悪を少量、ワクチンとして免疫をつけるために人間の体内に打っちまえば、悪へ抵抗する免疫を体内が作る前に、悪は全ての神経を食い殺し、人間の理性という制御システムを破壊する。そうして、ウィルスに犯された人間は他人を傷つけ、他人を欺き、他人を恨み、自らの快楽のためだけに生きるロボットになる。悪へのワクチンは存在しえない。ここまで俺の成績は文句なし。悪魔晩餐会で、アピールするまでもなく、超有名大学に入学できるだろう。だが、入学するだけでは駄目なんだ。教授に気に入られ、とりあえず媚びを売っておき、いずれ自分に力がついた時に悪の権威の教授達を全て食い殺し、そして悪の全てを支配する悪の王になる。それが弱肉強食、強き者チキンを食すの真理であり、それをこの世で実行できるのは、いっくん。俺唯一人だ。俺の耳には欲望のままに良心を犯す悪の鼓動が聞こえる。憎しみに我を忘れ、破壊を繰り返す押さえのきかない人間達が、あやまちを犯していく歴史の音色が聞こえる。この瞬間にも人間はどんどん悪魔になっていっている。俺の兵隊が増える。悪が完全にこの世界を支配する時、その玉座に座るのは俺だ。なぁ・・・・夏男?俺の可愛い可愛いペット。こんな俺の受験。なんならこそこそ唐揚げを作る努力なんてやめて・・・・この世の悪意が凝縮する戦争でも企画してやろうか・・・」
そこまで言って、いっくんは戦争はまだ早い・・・と思った。戦争は一流悪魔ビジネスマンが仕掛けるビッグな案件。まだ、自分にはその力はないといっくんは、妙に謙虚に思い返した。おもむろにいっくんは、人面犬になる前の夏男の人間の肉体を背負っていた風呂敷から取り出して、抜け殻を撫でた。夏男の目は見開いていたが、マネキンのように何も見ていなかった。
人面犬の夏男は、何も知らずに閻魔橋に向かって歩いてくる。
保健所職員達は、閻魔橋の中央に犬取り用の檻を置いた。そして、橋の陰には六人の保健所職員を待機させた。保健所職員達は、ドッグフードを餌として檻の中に入れた。その安易な考えを吐き捨てるようにして、いっくんは空から降りて来て、犬取り用の檻の中に、人間の夏男の体を置いた。そして、子供だましのドッグフードを空へと投げ捨てた。
「腹一杯にうなぎ食わせてやったんだ。この期に及んで、安いドッグフードなんて俺のペットは食わねーよ」
一般人には、悪魔の姿がうまく見えない。もやがかかった現実で、ドッグフードが消えていることに保健所職員達は気づかない。彼らの目には、置き換えられた餌である人間の夏男の体も見えない。ただ・・・・夏男には見えるだろう・・・・罠として置かれた蝉の抜け殻のような人間としての夏男の体が。川はせせらぎ、空気は、どんどん夏の太陽に熱せられていく。
閻魔橋・・・・・夏男は、汗を川に滴らせながらウナギに導かれてその橋の下をくぐろうとした。近くにある女学校からはチャイムの音が聞こえてくる。その音で、ふと注意力が喚起された。
目の前に檻があるとこに気づいた。そして、すかさず夏男の鼻には、それが罠であるというくさい臭いがした。夏男の心は、お腹いっぱいで気持ちのゆとりがあった。
「誰がこんなチンケな罠に引っ掛かるか」
夏男は、橋の真下に設置された大袈裟で幼稚な檻を鼻で笑った。夏男は、自分が今、川の浅瀬を歩いていることにも気づいた。水が、膝あたりまで深さで流れている。夏男は、水に浮いては漂うウナギを食べられるだけ全部食べて、檻を横目に橋を渡ろうとした。しかし、檻の脇を通った時に、気持ちに余裕がなくなる。罠の中にある自分をおびき寄せるための餌が何かわかる。自分の人間だった頃の体が檻の中に横たわっていた。
「罠だ・・・・」とは、夏男も思う。
川は、せせらぐ・・・・胸が握りつぶされるように痛くなる。
油断してまさかの状況に余裕を失ってしまった夏男の思考は急激にしぼんでいく。檻の中にある体が死体であるということは周りの雰囲気が微動だに動かないことでわかった。川の流れが人間の夏男の側を避けて流れていく。夏男は、そんな川の流れのない溜まりのような場所に置かれた檻の中の自分の体を立ち止まり凝視する。
マネキンのような夏男も自分の方を見ていた。
あの日、悪魔に殺されて失った自分の体が目の前にある。狂おしいほどに分離した魂と肉体が、生命の磁力のようなものに引き寄せられて一つになりたがろうとする。
吸い寄せられるように夏男は、我を忘れて、檻の中へと足を進ませる。視野は狭まり、そこにある檻の存在はいつしか目に映らなくなっていた。清流は、夏男を海へと流そうとするが、夏男はそれに抗い檻の中へと足を進ませる。
夏男の目玉に映るのは、失った自分。
自分が求め続けた人間としての自分の体がある。夏男は、自分の体を懐かしく想い、愛しく想い、悲しみにも似た切ない想いを持ってその体に触れたがった。そして、夏男は、檻の中でずっと取り戻したかった自分の肉体に触れた。
その瞬間、檻が閉まった。
夏男は捕らえられた。檻が閉まった時に初めて夏男は、自分が捕らえられた感覚を広がりゆく羞恥心と共に実感した。それに、夏男が触れた自分の肉体は・・・・・自分の肉体ではなく、悪魔のいっくんが用意した欲望を映しだす手鏡だった。その鏡に映っていた、夏男が心から求めた自分の体は消え果ててしまって、そこにあるのは醜い自分の姿を映しただけのただの鏡だった。傷だらけで腫れあがった、たんこぶだらけでびしょびしょに濡れた痩せこけた醜い人面犬の顔がそこに映しだされる。
現実が鏡に左右逆さまに映る。そんな現実を映しだす鏡を夏男は心の底から憎しみ、恨んだ。
「くそ・・・・・・・。ちくしょぅ・・・・・・」
言葉にならない悔しさを夏男は心の奥で響かせた。
夏男は暴れ始め、檻の柵を犬歯で噛みつけた。歯が欠ける・・・でも、夏男は鉄柵を噛んで離そうとはしない。狂犬と化す。幻想に弄ばれた夏男の周りを、保健所職員達が囲んだ。そして、鉄の檻を川から引き上げ、閻魔橋の上に停めてあった保健所所有のトラックの荷台にのせる。夏男は、気を失うような感覚で興奮から冷めていく。
熱い血の気が抜け、寒気とともに自分が見た幻想の余韻から目覚め、現実を認識した。もがくだけ無駄な現実がそこにはある。そんな、夏男を見て閻魔橋の端に腰をかけた悪魔のいっくんが、冷たく微笑んでいた。そして、大笑いを始めた。
「ひっかかったーーー。ははは、夏男。だから油断は駄目だって言ったろう。お前の本当の体は、こっちだよ。欲望を満たすために罠にかかるのは馬鹿犬のすることだ。保健所で頭を冷やせ」
いっくんは、そう言いながら、風呂敷の中に包んだ夏男の人間の体の頭を檻の中の夏男に見せてやった。本当に手にしたかった本当の自分の体が、檻の中にいる夏男を生気を失った目で見ていた。夏男は、言葉を失う。
「これが欲しければ、タフで利口な人面犬になって、ご主人様のためにならなきゃな。100の命を救うんだ、忘れてないよな、夏男、お前の使命を」
いっくんは、それだけ言うと夏男の体を再び風呂敷の中にしまって、空へと飛び立っていった。
車に乗せられ連れていかれる夏男。犯罪者が現行犯で逮捕された時と同じ風景が鎌倉の街に広がる。荷台に乗せられた夏男の目の前に、黒か白かで識別できる情景が広がる。そんな中で、自分の心だけが灰色に少しブルーを混ぜたような色をしていた。
夏男は手錠代わりの檻に入れられる。自分は無実だと思った。何も悪いことはしていない。でも、世の中が、夏男を黒としてしか認めない。ここに存在することを認めてはくれない。いや、許してくれない・・・・・。檻に閉じ込められた夏男の目には、色彩のない現実だけが映る。
☆
トラックの荷台から見た流れる街の景色。夏男はどこにでもあるような普通の一軒家の玄関前に犬小屋があるのを見つけた。鎖につながれた血統書付きの雄犬がその犬小屋の脇から夏男を見ていた。飼い犬は、犬語で夏男に話しかけた。遠い場所から声は届かない。でも、夏男はその唇の動きで彼が何を言おうとするのかを理解する。
「野良犬として・・・・・捕まってしまったんだね、君は。気の毒に思うよ。鎖につながれているってのは、一見不自由のように見えるかもしれないけれど、自由を失うかわりに自分の居場所を手にしてるのさ。鎖に繋がれたままで動ける範囲の小さな居場所だけど・・・。だけど、朝と晩にお決まりの散歩コースには行ける。たまに、自由に生きている野良犬、あなた達を羨ましく思うこともある。本当だよ、嘘じゃない。でも、僕は保健所で閻魔様の裁きを受けるリスクを犯してまで自由に憧れたりはしないんだ。今ある全てを受け入れようと努力しようとしてるし、それが幸せだと信じてる」
血統書付きの雄犬は、そうワンワンワンと語った。夏男は、声は出さずに唇だけを動かし、犬語を喋り、その鎖に繋がれた血統書付きの雄犬に言葉を返した。
「生まれた時から鎖も居場所もないん・・・・だ」
夏男のその言葉に血統書付きの雄犬は驚き、「えっ、そうなの?飼い主から逃げ出した訳ではないの?」と夏男に聞き返した。夏男は、静かにうなずいた。
「それは悲劇だね・・・・。苦しくないかい?」と同情を混ぜて鎖に繋がれた血統書付きの犬は言葉を返す。夏男は、冷めた口調で返す。
「あるのは、憎しみだけだよ。俺を野良犬にして、人面犬にした全てに対しての・・・・。人面犬を可愛がる奴等なんていないよ。わかるだろ?だから居場所なんてどこにもないのさ。野良にならざるおえない運命なのさ」
アクセル踏みっぱなしの車は、鎖に繋がれたハウス犬をあっさりと過去の景色に押し流した。夏男は、鎌倉から見知らぬ街の保健所に搬送された。途中何度も国道一号線の大渋滞に捕まり、嫌というほどに排気ガスを吸い込んだ。
鎌倉には保健所はなかった。渋滞の末に神奈川県のどこかの街にある保健所の檻に夏男は放り込まれた。縄張りを離れた犬はどこに小便をしていいのかもわからない。慣れ親しんだ街を離れて、尿が破裂しそうなほど膀胱に溜まりに溜まりまくる。夏男は膀胱をぷるぷる震わせ、いずれ毒ガスを吸わされ処分されていく運命を受け入れることを強要される。
三日以内に飼い主が現れない時には、檻の中に毒ガスが充満し、そして殺される。統計によると日本全国の保健所では年間に処分される犬猫の数は50万匹を軽く越えるという。人間に見捨てられた犬達がかき集められては人間に害を加えないようにという名目に殺される施設・・・・。人間の身勝手さを処理する工場のようなもの。このシステマイズされた社会という金持ちのために作られた社会という構造の中で、見放された人間も年間50万にくらいは処分されているかもしれないが・・・・しかし、人間の都合で処分されなければいけない犬の悲痛な泣き声は苦しいくらいに悲しく聞こえる。
保健所の中は、叫ぶ気力すら湧かない夏バテの夏男を思ってかどうか、寒気がするほど空調が効いていた。夏男は、凍えた。お腹が冷えて、また下痢が出る。暑さも寒さも、夏男を苦しめるためにそこに存在しているような気がした。
「母ちゃん・・・・」
夏男は涙が滲む心の奥底にある透明で澄んだ水溜りを振るわせるような声で母を呼んだ。でも・・・・自分の声は母には届かないのだろうと思った。
母は生きている・・・でも、この社会の中では処分された存在。
生きていても生きていない命は、自分に繋がる命の温もりを感じえることはないだろう・・・・あるのは死んでしまった感情だけ。
夏男は、押し込まれた保健所の檻の中で、死と向き合わなければならなかった。
「殺される・・・・」、それは本能的に強すぎるくらいに感じる。
その極度のストレスが夏男の体に心身症を誘発し、夏男は死を恐れるあまり檻の中で吠え始めた。閉じ込められた空間で叫び続ける。
夏男はどこにも行けない自分の心に鎌倉の由比ガ浜の景色を思い浮かべる。そして、閉塞感に首を絞め殺されそうになる保健所の中で、「風の音が聞こえない。波の音が聞こえない。見上げても大空が、そこにはない・・・・・耐えられない」と吠え続けた。
心が狭まっていくのを感じる。閉塞感が体内の酸素を全て奪おうとする。腫れあがった夏男の傷だらけの体が膨張して破裂してしまいそうに思えた。
破裂して・・・・膿が飛び出し、自分がその大量の膿に飲み込まれるような錯覚が・・・・夏男の視覚神経の中枢を襲う。
システムの海に溺れて死にかけている・・・そんな息の切れかけた極度のストレスは、夏男の脳に病的に狂った幻想を見せる。
「助けて・・・」と夏男は、保健所の中で吠え続けた。そして、吠えれば吠える程、閉じた筈の古傷が開いていく。血だけが流れ、救いはない。
狂犬病・・・・都合のいい獣医はそう診断するだろう。
鎌倉に吹き抜ける風の歌声が聞こえない場所で死を受け入れることを必死に拒むために夏男は吠え続けた。吠えたところで何が変わる訳ではないのに・・・夏男には吠えることしかできなかった。
狂犬病です・・・人に感染したら死をもたらすでしょうと獣医は言うだろう。そして、野良犬は思う。誰も自分のことなんかわかってくれない・・・わかろうとしてくれない世界なんだ・・・・ここは・・・と。
夏男は、暗く重たい空気が充満した保健所内で、犬として本能的に鋭い嗅覚を働かせてしまう。自分が閉じ込められた檻の中には、死んでいった無数の野良犬達の冷汗や脂汗がこびりついていた。処刑されていった命の歴史が強烈に夏男の鼻腔を刺激した。その強い臭気に、夏男は何度も吐き気を催した。
臭いが鼻の奥にどんどん入ってくる。そして、夏男は檻の中で吠え続けた。吠えたって何も変わらないことはわかっていたが、吠えずにはいられなかった。そのうるささに閉口した保健所の職員は、夏男に口輪をはめて、静かに、黙るように強要した。そして夏男にできることは何一つなくなる。冷たい汗だけが何かを悟ったかのように流れ落ちた。
三日以内に飼い主が現れなければ、夏男は殺される。夏男は、鎌倉の貧乏アパートの一室で、未来に希望を持てずに、現実を嘆くしかない精神安定剤漬けの鬱病の母を思い出した。
毎日が昨日と同じことの繰り返し。そして、繰り返す時の中で、何もかもが奪われていく。
時の流れに逆らえずに流されていると、体から血液が全部洩れ落ち、抜け殻になってしまったような気になる。そして、全てを失われ損なわれていくような嫌悪感を覚えながら鬱子は、自分が生きているのか、それとも生きながら死んでいるのかわからなくなり、果てていった。
自殺未遂は何度もある。ただ、苦しみ果てる・・・繰り返されるだけの日々が、鬱子を苦しめている訳ではない。夏男は、母の鬱病の原因の多くの部分は、自分が良い子になれないことだと知っている。夏男は、保健所の中で悔いる。悔いることの多さに気が滅入る。心臓も胃も握りつぶされるよう・・・。夏男の母は、保健所に閉じ込められている夏男を見つけることはできないだろう。いや、見つけようともしないかもしれない。例え夏男を探しあてたとしても、人面犬のような醜い姿に変えられてしまった夏男を引き取るかどうかわからない。もう母に会うこともない・・・・・夏男は、三日後に死ぬのだと思った。




