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悪魔のいっくんが小田原の山中を徘徊する風景を大仏様は遠く鎌倉から双眼鏡で見ていた。いっくんは、曇り一つないよく磨かれたキザな眼鏡をかけ、学生服を身に纏っていた。そして、単語帳をめくり、ことわざを覚えながら、どこかを目指して歩いていた。寸かを惜しんで勉強する姿は、まさに子供のお手本にしたいところだが、学んでいることは悪事の応用法の基礎の基礎になる格言。狂わんほどのエリートの進学意欲に、双眼鏡を握る大仏様の掌に冷汗が滲んだ。
「猫にマタタビ、悪魔にチキン唐揚げ」
「チキンを制するものは、悪を制す」
「飛んで火にいる夏のチキン(注・飛んで油に入る夏のチキンでも同じ意味。正解)
単語帳をめくるいっくんが、思い込むようにして立ち止まった。いっくんの脳髄にはかぐわしい未来が鮮やかに描かれる。いっくんは、悪魔第一高校指定の学ランの内ポケットから四隅をキチンと折りたたんだ一枚のパンフレットを取り出した。
「超有名大学のエリート悪魔教授達が集う晩餐会。夜空に花が枯れてから一週間後に開催」とそのパンフレットには書かれていた。パンフレットは、人間の血をトナーにしてプリンターからプリントアウトされていた。悪魔は、黒鉛筆、黒ペンでは学ばない。赤鉛筆、赤ペンで学ぶのが基本。
いっくんは、脳内で妄想を膨張させる。
悪魔のエリート大学から名誉教授クラスの有名どころが集まり、年に一回、盛大な学会が開かれる。悪魔社会において、大学教授は権力と結びついている。その教授達が学会終了後に食事会を立食パーティー形式で開く。いっくんが手にしているのは、その晩餐会についてのパンフレットだった。その晩餐会は、優秀な悪魔高校生達の第一次推薦入試の場でもある。高校生達は、肉食獣の悪魔の性質を発揮し、肉を旨く料理して、立食形式の晩餐会に並べることを求められる。教授達は思い思いにその高校生達が料理した肉を食し、旨いと思うも料理を覚えておく。そして、その後、肉を素晴らしく料理できる悪魔に悪魔大学エリート選抜共通二次推薦試験への推薦状が送付される。歴代の悪魔の王は、すべてこの晩餐会を経て大学進学を決めていた。
いっくんは、赤字で刷られたパンフレットを、曇りなき眼鏡の奥の目を細めて見つめては、薄気味悪く微笑んだ。いっくんも、百人しか呼ばれない優秀高校生としてその晩餐会に料理を出すようにと呼ばれている。いっくんは、更にもう一枚の紙切れを内ポケットから取り出した。そこには「超高品質、入手困難な極上鶏肉。立ちも立ったり、バイアグラより強力!!悪魔の快楽の根元まで満たす。インポテンツ治療の漢方薬すら相手にならない。あなたの股間に興奮を呼び起こすのは完全なる無菌のチキン。一度は食べてみたいジューシーな鶏肉が残酷なハイテクを駆使されて生産されているのは小田原養鶏場。ただし、この養鶏場は強力な魔よけが張られているのが問題。特に、養鶏場内のガラスの魔よけは強烈。悪魔が近づくこと、いと難し。はなはだプレミアム」と書かれていた。悪魔グルメ雑誌の切り抜きだった。次から次へと移り変わる食の流行。そんな流れの中で、養鶏場から逃げ出した一羽の鶏をたまたま山中で見つけて食べてみたところ美味だったということで、噂が噂を呼んで巷の好奇心と食欲を刺激していた。
いっくんは切り抜きを読みながら目を細めて微笑んだ。悪魔はチキンの唐揚げに酔う。酒にもたいして酔わない。ドラッグにもそんなに酔わない。セックスだって、唐揚げを食すことに比べればたいしたことはない。悪魔の世界における最高の快楽とは極上のチキン唐揚げを食すことである。そう・・・・鼻を抜けていく揚げたての油の香りと噛んだ鶏肉から溢れ出す肉汁が口中に広がっていく瞬間、男悪魔はビンビンに勃起し、女悪魔のあそこはぐしょぐしょに濡れる。チキンの唐揚げがもたらす幻想と妄想の融合が脳内中枢を激しく刺激し、体中に広がっていく快楽に悪魔はいきっ放しで理性を失い、絶頂に達する。悪魔を狂わせるもの、それは鶏の唐揚げ。極上のチキンの唐揚げを食った後、快楽から醒めるのを恐れて自殺する悪魔すらいるくらい。永遠に続くエクスタシーとは、チキン唐揚げを食し続けることなのかもしれない。そして良質の鶏肉を手に入れられるのなら、悪魔はどんな悪事でも働くだろう。伝説の小田原の養鶏場で育った鶏は、どんな快楽をもたらしてくれるのか。それは、悪魔達の間で流行りのグルメの関心事の一つではあった。
小田原の山道を歩くいっくん。そのいっくんの耳に犬の遠吠えが聞こえた。その遠吠えは山という山の斜面に反響し、やまびことしてこだました。四方八方に響き渡る反響のせいで、その犬が近くにいるのか遠くにいるのか距離感を感じるのは非常に難しかった。いっくんの目的地の方から聞こえてくるようでもあるし、全く検討外れの場所から届く吠え声のようにも聞こえた。余韻が夜の闇に染み渡る。そして、余韻が消えた時にやってくる山の静けさは、夏の夜とは思えないほど冷ややかなものだった。いっくんは、鼓膜に響いたその遠吠えに一瞬、自分の心の秩序を乱されたような気がした。何か胸騒ぎがした。いや、寒気と言った方がよいだろう。身が悶えた。この世界のどこかで吠えてる犬が悪魔を噛み殺す風景が、一瞬、遠い昔に読んだおとぎ話の一場面のようにいっくんの脳裏をかすめた。目に映る小田原の山々の風景をどこか遠くの未来で見た気にもなった。今、その場に立ち導かれる運命を予見する逆デジャブを見ている感覚が脳の中枢にもやをかける。静けさに隠れた遠吠えの余韻がまだ鼓膜に響く。
「馬鹿らしい・・・・犬に何ができる」
いっくんは、首を横に何度も振って、自分の感覚を鼻で笑った。
「俺の未来はただただ輝く。その輝く未来を邪魔するものは皆殺し。それが、例え自分の飼い犬でも俺は殺す」
いっくんは、犬の遠吠えが呼びおこした未来への不安を噛み殺し、受験勉強用の単語帳をめくった。「犬も歩けば、悪魔に当たる」とめくったカードには書かれていた。
☆
金髪坊主の夏男が歩く。ド派手なアロハシャツに身を包み、指定学生服のズボンは履かずに、ノータックのボンタンでキメる。革靴は履かず、ビーチサンダルで街を徘徊するその様は、完全にイカれた中学生。そんな夏男が鎌倉のお寺街を意味もなく睨みをきかせながらガニ股で歩けば、その存在は鬱陶しい湿気のようにまわりに汗をかかせた。一人涼しげに肩で風を切り、大股広げてかったるそうに体を揺らす夏男を、通行人は皆、避けて歩いた。夏男は大きな瞳を無理矢理細目にして、目の前に広がる光景を首を傾げて斜めに睨みつけていた。人は、夏男を悪魔に飼われた狂犬のような目で見た。夏男は、その目を睨み返す。行くあてもなく彷徨う野良犬のように、夏男は鎌倉市街をうろつく。かーっ、ぺっっ、と夏男は、痰を切って通行人のオッサンの革靴に吐きつけた。痰を吐きつけられたオッサンは、苦い顔をしながらも夏男と関わることを恐れて足早に歩き去っていった。オッサンの焦って逃げていく後ろ姿を見て、夏男は大声で笑う。怖いもの知らず真っ盛りの反抗期が、夏の鎌倉に蒸し暑く漂っていた。だけど周りがかくのは、冷汗ばかりだった。
でも、そんなつっぱりることしかできない中学三年生の心は、実は誰よりも悟りを欲していた。何も考えていないフリを装い、そんじょそこらの中坊よりはずっと悩みが多い。勉強はできないけど、生きていく苦しみは知っている。お寺だらけのこの街で悟りたいことは星の数程あるのに、何一つ悟れやしない夏男の思春期。鎌倉に住む仏様達は何も教えてくれやしない。それでも夏男は、行くあてもなく鎌倉のお寺街を歩き回る。いつか救われますように・・・・・と。
「おい、あれ、大仏中の花成夏男じゃねー」
「うわっ・・・やべーな噂どおり」
「今時ボンタン履いて、アロハシャツ着てる金髪坊主の不良とは聞いてたけど、近くで見ると危険過ぎるくらいデンジャラスな迫力があるな」
「絶対に関わりたくねーよ、あんな馬鹿とは」
夏男が鎌倉の大通りである若宮大路を、相模湾から吹いてくる風を切って大股びらきで歩けば、他校の生徒は蚊の鳴くような小声で夏男の陰口を叩いた。首輪のない野良犬が街を徘徊するように、夏男は街をうろつく。行くあてもないそんな野良犬を所謂普通の人間達は心から恐れる。凄みのある夏男の姿は、夏男は本心では望んではいないのに、存在感だけが一人歩きをし、恐怖を街中にばら撒く。嘲笑を一切許さない刃物のように研ぎ澄ました夏男の鼓膜には、恐怖に恐れおののく蚊の羽音さえ聞こえてしまう。夏男の噂をする男子高校生二人に、夏男はガンをくれて、「あんっ?」と顎を突き出して、小さく吠えた。
「すみませんでした」と2人の男子高校生は頭を下げて、逃げるように夏男の前から姿を消した。蚊の額に大粒の汗が滲んだ。蒸し暑い夏の空気の中、ブンブン飛び回る蚊の頬を冷たい水分が伝う。夏男は逃げていく蚊達の後姿を睨みながら小さくため息をついた。若宮大路を歩く夏男を観光名物の人力車を引くお兄さんが、肝を冷やしながら避けて走っていく。参道に飾られる獅子舞の石像すら夏男が若宮大路を歩くと嫌な顔をする。夏男は、そんなのシカトで、暑さに耐え切れずにアロハシャツのボタンを全て外した。喧嘩で作ってきたアザだらけの体が剥き出しになり、その肉体は大粒の汗をかいていた。しかし、夏男の周りの人々は、冷たい汗をかきっぱなしで凍えて震えている。
夏男は由比ガ浜を目指して歩いた。街のど真ん中で着るアロハシャツは、現代社会の中で完全に浮いた衣装。しかし、海に近づくほどに、そんなド派手なアロハも夏空の下に自然と馴染んでいく。由比ガ浜までやってくると夏男は砂浜にビーチサンダルを脱ぎ捨てて、裸足で水平線と向き合った。海を見て、そして海の向こうにある空を見て目元に込め続けた力を少しだけ抜いた。目元の筋肉が痙攣しそうなほどにつりあがっていた睨みを緩める。苛立ちで支配された心を持て余しながら、由比ガ浜を歩けば少しは癒されるような気がした。葛藤の波が満ちては引いていく。夏の夕陽が果てのない水平線に沈んでゆく光景を、緩めた視界に焼きつければ、自然と瞳はぬるい涙に濡れる。夏男の救われない心が海に溺れていく。心が窒息死してしまいそう・・・・。「誰か、助けて・・・・」と深い海の底で夏男が叫んだところで、誰にもそんな声は届かない。だから誰かが助けてくれるなんて考えもしない。そう、誰も助けてくれやしない。でも、そんな海に溺れた夏男の言葉を何気なく聞いている仏が鎌倉にはいる。