⑲
大仏様は、下界へと夏男の命を連れ戻し、溺れた命に人工呼吸をするように夏男の命を抱きしめた。大仏様は、夏男の命をいい子いい子の撫で撫でをした。夏男の命は、撫でられた摩擦で次第に温かみを取り戻した。そして、夏男は極楽寺裏の山の隅で再び目を覚ました。
折られたアジサイの枝が敷布団みたいに夏男の体の下に敷かれていた。
目を見開いてみたが、夏男には自分が生きているのか死んでいるのかわからなかった。
正直どっちでもいいような気がした。生きながら死んでるゾンビのような気分。訳がわからない。体中がぶくぶくに膨れ上がっている。
醜い姿がより醜くくなっているのをなんとなくアジサイの枝の上で寝転がりながら感じた。でも意識は非常に晴れ晴れとしていた。
何故だかはわからないが、どこかで誰かに見守られている気がした。
夏男の腹の虫が鳴った。その腹の虫は夏に生きる無数の虫の一種のようにも思えた。
蝉が鳴けば、腹も鳴く。
夏男は空腹を感じながら、生きているという実感を捜し求めるように、起き上がり、極楽寺近辺を後にした。
極楽にいては、天国ばかりを夢見てしまう。言うことを聞かない自分の体を無理矢理動かし、夏男は極楽寺坂切通しを下っていった。夏男は、動くことに苦痛を感じたが、夏の太陽の光が夏男のアロハの上に降り注いだ。太陽光に含まれるエネルギーが夏男の皮膚を少し焦がしながらも、夏男の体内に浸透していく。
夏という明るい季節が夏男を少しだけ前向きに前へと進ませた。苦痛は、太陽の暑さにごまかされてぼやけていく。生命に活力を与える夏の不思議な光合成。夏男は、夏の雰囲気に飲まれて、歩きたくもないのに歩いてしまう。夏男の歩く道。雨季を越えた枯れかけた成就院のアジサイをアクセントとし、日向と日陰が一本のコンクリート道路の上に光と影の絵の具をたっぷりと使い、コントラストを描き出していた。描き出された光と影で表現された絵は太陽が角度を変える度に全体の構図を変えた。
夏男は一本の道路が描き出す光と影の絵画の変化を見て、自分の心模様を思った。夏男は、光と影の上をボロボロの体を引きずるようにして歩く。
かろうじて生きている。生きていたいのかどうかも夏男にはわからなかった。哀れなくらい、また腹が減り始める。そして、生きていることを実感する。影が濃い気がする。でも、そこには光もある。何も思えばいいのかは、思春期の人面犬にはわからない・・・・・。
☆
夏男は、自分の行く先すら認識できず、曖昧な足取りで住宅地を通る江ノ電の線路沿いの道を歩いていった。生きていくために何かを口にしなくてはならない。生きていたいのかどうかもわからないが、でも生きている限りにおいて空腹は絶えがたい苦痛だった。
夏男はためらいもなく、ゴミ捨て場のゴミ箱を漁った。腫れあがった目で、ゴミの塊の中から生きていくためのヒントを探し出すように栄養素のありそうなものを見つけ、むしゃぶりかぶりつく。生きていることを実感する瞬間だった。
そんなゴミを漁る夏男の姿を、夏男と同じクラスで七・三分けのガリ勉君が見つけた。
受験勉強から来るプレッシャーで重たい足取り。午前中の塾の夏期講習を終え、午後の違う塾の夏期講習に行く途中だった。クラスで夏男を馬鹿にしたガリ勉君は塾を三つ掛け持ちしている。大仏中では、学級委員の井伊と秀才の座を争うガリ勉君だが、超有名進学塾では、勉強しなくても勉強ができてしまう天才達の前に全く歯がたたなくて、ぷるぷる震える日々が続く。そして、教育パパとママに敷かれたレールの先にある難関志望校の過去問の難しさに縮み上がる。
「努力は報われる」
先生達は、そう言った。でも、その言葉の信憑性に疑いを持たざるおえない現実に直面し、ガリ勉君の体中に屈辱のストレスが溜まる。
「努力は報われることも・・・・ある。報われないことも多い。しかし、何もしないよりは努力した方が少しだけマシ」とは、誰も教えてくれなかった。
微妙なニュアンスを持つそんな難しい教訓は、受験教育の○か×の点数社会では誰も教えてくれない。
誰かが教えてくれないと何も学べない現代っ子。
溜まるのは、思春期特有の切れかけそうな危ういストレス。
その処理の仕方も知らずに泣きべそをかいているガリ勉君の勝負の夏は、成長期を妨げる寝不足生活。学んだ内容よりも勉強していた時間が重要だと思う非常に危険な勘違い。
たいして勉強しなくてもテストで完璧に近い点数をなんなく取ってしまう天才と呼べるような人間達は確かに存在する。要点だけを一瞬で飲み込む奴等はいるのだ。なのに、糞みたいな知識まで丸暗記させようとする非効率教育の信奉者であるように育てこまれたガリ勉君は壁にぶち当たっていた。
見当違いな(どーでもいい知識の)丸暗記勉強法ばかりを繰り返しながら、「努力は才能に勝る」という言葉を信じ、寝不足な体で単語帳をめくり続けるガリ勉君。しかし、才能に勝れない努力もある。世の中には覚え切れないことの方が多いのに・・・・。
幼くともその事実に気づけないのはあまりに悲しい。何もかもを記憶する必要はない。キッズはロボットでもPCのメモリーでもないのだから・・・・。
あああ、努力が華々しく成就するには、受験勉強の期間はあまりに短期的な時間軸。悲しいほど機械的で純粋な努力のみが成功するようなことを短絡的に塾のコマーシャルは歌う。
そんな既に腐りきっている商業主義が見せる妄想の成功に酔いしれたがる思春期は「自分が本当に成し遂げたいこと」を真剣に考えることなく流されていく。そして、溺れていく。
志望校・・・・?
志望校が何もかもを手取り足取り教えてくれて、人生の面倒を見てくれる訳ではないし、志望校が、夢を叶えてくれるわけでもない。
夢は、自分が自立していく過程で苦しんで喘ぎながら掴むもので、決して教育の中で勝ち取れるものではないのに・・・・・とりあえず受験・・・・。有名校・・・・。そんな社会が生み出すストレス。とてもじゃないけど、機械になりきれない子供達には抱えきれない。そして、子供は機械になる必要なんてない。
社会の部品になるにはまだ早すぎる・・・・。
夢を見て、夢を見て、夢を見て、夢を見て、夢を見て、、夢に破れて、人生を諦めてからでも社会の部品になれるのだから・・・・。
初めから社会の部品になるための教育がどーして必要なのだろうか・・・・・。
現実は厳しい。そして、大抵の人間はその厳しい現実下で夢に敗れる。でも、夢に破れた人達ほど、強くたくましい人達もいない。部品にするならこの強度が必要なのに。
社会が脆くなっている二十一世紀・・・・部品の強度があまりにも足りなさ過ぎる。耐震偽装。現実の激しい震度に向き合わず、子供達に避難訓練ばかりをさせようとする大人達。まずは、震度に立ち向かえるだけの強度を社会基盤に構築しなくてはならない筈じゃないか・・・・と、そんな色々なことを大仏様は、思ったりする。
社会情勢を見つめながら、大仏様は収拾がつかなくなりそうになった思考を一時的に抑え込んで、自分に問いかけるように呟いた。
「年老いたせいなのか、愚痴ばかりが頭をよぎる。年のせいであって欲しいとは思うが・・・・」
現代社会がキッズに強要するストレスが溜まりに溜まった時、子供達はどうするか。幼くとも男は、どうしようもなくせっぱ詰まった時には、下半身のあそこを利き腕で擦るしかない。オナピーで体内に抑圧されたストレスを発散する。納得できない見せかけの真実を象徴するかのような真っ白なティッシュにドピュっとイクっ本気な純白な気持ち。儚い充実感を得て、色んなことを納得するための心の余裕を持つ。だけどガリ勉君みたいにまだ皮の剥けていない子にはそれが何のことだがわからない。
小五の頃からワキ毛もチ○毛も生えていた、成長早き夏男は、小学生の頃から擦ることの意味に気づいていた。むしゃくしゃした時はこれに限る。夏男は右手でも左手でもいけるくちだった。
ゴミを漁る夏男の後姿、股間で揺れる大きなふぐりが夏男の力量を物語る。
行き詰るガリ勉君は、ゴミを漁る汚く惨めな犬の姿を見て、道の脇に落ちていた石を拾い上げ、「きぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」と気持ちの悪い裏声を張り上げ、ゴミを漁る夏男の後姿にその石を投げつけた。
男としてのストレス発散の仕方を知らないガリ勉君は、自分で抱えきれないストレスを人に押しつけ、他人に切れることしかできない。
決して自分には責任はない・・・・・・責任転嫁ばかりを覚えていく。
夏男の体に石が当たる。でも、夏男にはそれが痛くもなんともなかった。
今までの人生、ありとあらゆる痛みのフルコースだった。前菜からメイン、デザートまで。三ツ星クラスの極上の痛み以外は体が受付けない。
ガリ勉君は、あたりに落ちている石を拾いまくり、細くて白いガリガリの腕で夏男に石を投げ続けた。細く白い人間の腕と太陽に焼かれ体毛がちぢりあがるように真っ黒に焦げた犬の体が鮮やかなほどに対照的。
夏男は、痛い素振りすらみせない。それが、ガリ勉君のプライドに触る。男は、ここっていう時には飛び道具じゃなくて、拳と拳で殴り合う。夏男は、男としての譲れない誇りをかけた決闘を過去に何度となくこなし、今まで生き残ってきた。そんな男としての闘争本能と生存本能を教科書という小さな世界に自分の居場所を見つけるガリ勉君が学べるわけもない。
ガリ勉君は、ゴミを漁る肉付きの悪い惨めな犬にすら強気に出れず、距離を十分に取りながら、安全な場所から飛び道具を振りかざし続ける。内申点を取るためだけの浅はかで弱弱しい根性を先生に見せつけるように・・・ガリ勉君は石を夏男に投げつけ続けた。
夏男は、全く何も感じなかった。ガリ勉君が、石を投げつけてきていることにすら気づかなかった。こっちは、腹が減って、食わなきゃ死ぬって時に、食うに困ったことのない奴の存在なんて完全にシカト。頭の中、将来役に立たない栄養ばっかり溜め込む根性なしに関わってる暇はない。今日を生きていく栄養を探しだすのに精一杯。そんなみすぼらしい存在に無視され続けたガリ勉君は、もう一度、「きぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」とキモ悪く発狂し、カバンの中から教育ママから持たされた携帯電話で保健所に電話した。保健所の電話番号は104の電話番号案内サービスに電話をして聞いた。
「もしもし、保健所ですか?」
「はい」
「街にゴミがいます。排除して下さい」
「ゴミ?」
「はい、顔を腫らした傷だらけの汚く醜い・・・・この世に生きる価値もない野良犬です」
保健所職員は、ため息を一つついた。
「いいですかぁ・・・・。私達も可能な限り尊い命をこの世から消し去るようなことはしたくない。それが例え、哀れで、飼い主のいない、生きる価値もないかもしれない犬でも」
「学校の先生からゴミを公共の場に投げ捨ててはいけないと教わりましたけど」
保健所職員は、心の底から呆れたようなため息混じりの声で、「・・・・その野良犬の命がゴミだというのなら、あなたは一体何なんですか?あなたの命は、ゴミじゃないのですか?」と訊いた。その保健所職員の質問に対する答えは返ってこなかった。携帯電話の電波は一方的に切られていた。
教科書にのっていないことは答えられないのだろう。こんな難しい問題、文部省が推薦する教科書レベルの知識ではわかるわけがない。保健所職員は、一方的に切られた電話での会話を情けない気持ちで振り返る。
受話器からツーツーツーと繋がっていない電話線を知らせる音が、切れた会話を象徴するように鳴り続けていた。
「野良犬の命が、ゴミだと言うのなら、お前の命は、ツーツーツーだ」と保健所職員は、受話器を握りながら、命を命と思えない救いようのない人間に吠えた。
生き物として未熟な少年は壁にぶち当たるとすぐ逃げ出す。黙り込むツーツーツーな逃げ腰でプライドばかりが高い少年が一方的に切った会話の余韻を保健所職員は怒りに震えながら聞き続けていた。
しかし、保健所は市民から野良犬の情報を与えられては、動かない訳にはいかない。そして、その通報された野良犬が、前回取り逃がした人面犬であることは・・・・・保健所のベテラン職員には感覚的にわかった。
今度こそ逃がす訳にはいかない。それは犬捕獲のプロとしてのプライドに関わる問題だった。「悪いが今度こそお縄に掛かってもらうぞ、アロハな人面犬・・・・」とベテラン職員は受話器を置き、作業着に着替えた。
警察官が犯罪者を追うように、消防士が火事現場に向かうように、救急隊員が救急車で消えかけた命の下に駆けつけるように、犬管理事務所職員は野良犬を捕まえなければならない、




