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夏男は、二時間程眠った。そして、トゥービーコンティニューだった逃亡劇の続編が始まる。
「いたぞ、人面犬・・・しーーっ、いいか、気づかれるなよ」
小声で喋る声は、夢に包まれる直前まで現実に聞いていた声。夏男は、現実に目を覚ますことの苦しさで、神経性胃炎になりかけの胃の中で胃酸を噴出させる。体が震え、吐き気を軽く喉元に感じながら心を酸で溶かされて失ってしまいそうな感覚を持て余すが、鋭敏に意識は眠りから覚めていた。ただただ狸寝入りならぬ、人面犬寝入りに徹した。
夏男は、薄く瞼を開けて、聞き慣れた声の方向を見た。犬・猫一匹くらいしか入れない横に狭い路地に、三人の保健所職員が一緒に顔を突っ込んでいた。団子のように縦長に並ぶオッサン達の脂ぎった顔・顔・顔。ある種、奇妙で気持ちの悪い光景を夏男は見た。オッサン達の顔から汗とも油ともつかない雫が零れ落ちる。
「お前、行け」
ベテラン職員が若手(といっても、三十代を目前にした職を転々とし続けてきた元フリーター達)に経験を積ませようとする。若手の一人は、ボスの指示に逆らえず、不摂生が溜まった出始めた腹を狭い路地に擦りながら、(なんで、こんな犬を掴まえる仕事してんだろー?)なんて思いながら夏男に近づこうとした。保健所職員は、とても窮屈そう。
夏男は、眠ったフリをしながら、少しずつ後ずさりする。スタックしている保健所職員は、一ミリずつ夏男に近づこうとする。夏男は、それに合わせて一ミリずつ下がった。縮まらない二人の距離。時間をかけて少しずつ動く追跡者と逃亡者。夏男は、少しずつ後退していって、気づけば尻が突き当たりの壁に当たるところまで来ていた。路地に尻を叩かれる感覚。夏男から見て左側に大通りに出る狭い路地道がある。
「尻叩いてやんねーとわかんねーのか?こんな路地裏にいたって一生何もおきねーぞ」
ずっと路地裏に立ち続けている壁が夏男に、そんなことを言い出した。まだ寝ぼけているのか?壁が喋る。リアリティのない夢の続き?
夏男は、尻を叩かれながら、壁の言葉に耳を傾ける。
「こんな糞路地でも、かろうじて左手には大通りに抜ける狭い道がある。大通りを歩けなくなったら、社会的生物は終わりだよ。行けよ、もう十分休んだだろうが。大きないびきがうるさくて迷惑だぜ。俺が眠れねー」
日陰に染まり続けてきた壁が夏男に説教する。夏男は、尻を壁に押し込めないほど押し込み、若手保健所職員が迫ってくるのを何も出来ずに待っていた。
「行けや、こら」
壁が怒鳴った。その言葉を合図に、夏男は左手の大通りへと続く路地に体を捻じ込んだ。そして、体を両脇にある壁に擦らせながら、真っ直ぐに大通りに向けて駆けていった。若手保健所職員は、狭い路地裏に挟まれながら叫ぶ。
「逃げられましたぁぁぁぁぁぁ」
その声が路地裏の壁に反響して響く。白昼の大声に付近の住民は、一斉に窓を開けて、その叫び声の方角を見る。視線は、三人の保健所職員に集まる。
「いや、野良犬を追いかけていまして。すいません、すいません、お騒がせしまして」
保健所のベテラン上司は、近隣住民の視線に謝る。夏男は、その隙に逃げている。挟まる職員、謝るベテラン。余った一人の保健所職員が大通りに向かって走っていった。
夏男は、走りに走った。そして、謝り終えたベテラン上司と窮屈な路地裏から抜け出した擦り傷だらけの職員も夏男を追うのに続く。
夏男は、また走り続けなければならない。
あっちやこっちに逃げてまわる。どこに行っても追跡者は、自分の影のようについてくる。数十分走り回り続け、呼吸器系の器官が苦しさに喘ぎ始めた時、脳内の酸素が薄まって・・・・・夏男は、決定的な判断ミスを犯してしまう。
夏男は鎌倉駅前に出てしまった。鎌倉の人々が生活の中で集中する区域。もっとも注目されるべき場所に、夏男は自ら身を投じてしまう。背後から保健所職員達が叫んだ。
「野良犬です。凶暴につき気をつけてください。噛みつかれないように距離を置いてください」
人通りが多い鎌倉駅西口。夏男を捕まえきれずに人通りの多いところまで来てしまった保健所職員が、手遅れながらも大声であたりに注意を呼びかける。駅前を歩く人達の目が、その注意によって一斉に夏男を見た。そして、誰もが目を疑った。ただの柴犬じゃない。可愛くもなく、愛らしくもない、醜い人間崩れのような顔がその野良犬の顔に淀んでいた。
「人面犬だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
一人の男が叫ぶと、あたりはざわめき始めた。鎌倉中に静かに広がっていた、狂人が叫んだ嘘のような噂が現実のものとしてそこにはあった。
「本当だ、本当に人面犬だ」と、高校生が唖然とする。
「なんて気持悪い生き物なんでしょ」と、買い物袋を下げた主婦が鳥肌をたてる。
「写メしなきゃ。これ、超ウケない?」と、女子高生がすかさず携帯電話で夏男の写真を撮ろうとした。
興味本位の人間達が、保健所職員の忠告を無視して、夏男に近寄ってくる。群衆は、アロハシャツを着て、人間と犬の中間に位置する中途半端な夏男の存在を嘲笑しながら、軽蔑を含んだ好奇の目で夏男を見下ろす。そんな人間の数が一秒毎に増えていき、夏男の周りには大勢の人だかりができた。野次馬に囲まれて夏男は、行き場を失う。
「おい、見えないぞ」とぞくぞくと集まる見物人達は、押しあいへしあい夏男に向かって迫ってくる。その押し寄せる人の波に心が潰れてしまいそうなほどの圧迫感を感じる。夏男は、哀れに体を小さくするしかない。
そんな醜い珍獣を取り囲んだ人々の鼻から笑いが零れる。にたにたにたにたと、人々は笑みを浮かべる。心の中は笑いで溢れているが口元に偽善の同情心を浮べ、「可哀想に。お前はこの世に生きる価値すらない存在なのに、なぜ生まれてきてしまったんだ?可哀想に」と夏男に語りかけようとする。
体温のない同情心ほどにこの世で冷たいものもない。
夏男の周りに集まった見物人達は、処刑されるべき極悪人を見るような冷酷で残酷な視線で夏男を見下ろしていた。
この目線・・・・・。
夏男は、思い出す。生まれてから夏男がずっと闘い続けてきたものは、嘲笑をふんだんに含んだこの目線。誰も本質を見ようともせず、上っ面の夏男の外見や育ちばかりに視線を落とし、陰口を叩き、差別と軽蔑を持って夏男の本当の気持ちを無視し続けた目玉達。見えているのに何も見ようとはしない盲目は、夏男と母、たった2人の家族の全てを否定し続け、馬鹿にし続け、傷つけ続けた。
縮こまっていた夏男は、大きな瞳を細め、自分の周りを囲む憎い敵を睨みつけた。そして、大声で吠えたてはじめ、夏男の存在を笑う全ての人間に噛みつこうとした。
「離れてください。通してください。危険ですから、離れてください」
保健所の職員達が人垣に割って入り、時計台広場の前で力の限り吠えまくる夏男の体を押さえ込んだ。夏男の体に職員達の体重がのしかかる。夏男の体は、押しつぶされていく。それでも夏男は、敵を睨み、吠えるのをやめなかった。職員達に押さえ込まれてはもがく傷だらけの夏男を興奮と絶叫を持って、人ゴミの人間達は笑った。
「ははは、ウケる。キモい顔が押しつぶされて、よりキモくなってる」
夏男は自分を馬鹿にする奴等を睨み続けた。
「つっぱらなきゃ・・・・、つっぱらなきゃ。俺の全てが押し潰される」と、夏男は心の中で必死に自分を励ました。つっぱるんだ、つっぱるんだ。弱気になるな。そう言い続け、夏男は自分を押さえつけるベテラン職員の腕を思いっきり噛んだ。
「痛っ」
根性の入った一噛みに、保健所職員は一瞬ひるんだ。保健所職員の厚手のシャツに夏男の犬歯が突き抜けた。保健所職員が痛みに顔を歪め、腕力を緩めた隙を逃さず、夏男は、自分を押さえ込んでいた腕をふりほどき、人ゴミに向けて思いっきり走りだした。
「嫌だ、恐い」
「うわっ、こっち来る。来んな!」
そんな声を発しながら、人だかりには夏男を恐れて避ける道ができ、夏男はそこを全速力で駆け抜けた。
夏男の瞳には涙が溜まっていた。
泣いてはいけない、泣いちゃいけない、と自分に何度も何度も言い聞かせた。泣いてしまったら負けてしまう。泣いてしまったら、本当の負け犬になってしまう。泣いてしまえば、つっぱった意味を失ってしまう。
つっぱることの意味だけが醜い自分を支える唯一の誇りなのだから・・・・。だから、泣いてはいけない。
夏男は由比ガ浜を目指して走った。御成通りを駆け抜ける。背後には無数のやじ馬を引き連れる。商店街で買物をする人々は、人だかりが走ってくるのを見て、何事かと唖然とする。皆が、携帯電話をカメラモードにし、夏男の走る後姿に銃口を突きつけるようにして、カメラのレンズの焦点を合わせようとした。シャッターを切る音が無数に聞こえる。夏男は、全速力で走る。人間の足では犬の全速力に追いつかない。しかし、力の限り走れば、体力は失われていく。夏男は、喘ぐ。
「もう走れない」
夏男は、足を一歩踏み出す毎にそう思った。痛めつけられ、押し潰された体に体力なんて残ってない。鎌倉駅前に出てしまう前だって数十分も走っているのだ。四本の足はぷるぷるぷるぷるいっている。それでも前に向かって、未来に向かって走らなければ、捕らえられ、馬鹿にされながら死んでいく。それだけは嫌だった。
夏男は、もう走れないと思い続けながらも、走り続けた。御成通りを駆け抜け、左に曲がると江ノ電の踏み切りにぶちあたる。踏み切りは降りていて、電車が来る直前に夏男は、江ノ電の踏み切りの中に飛び込み、そのまま線路に沿って走り出した。やじ馬は、犬に追いつけず、踏み切りの前で立ちつくす。江ノ電がそんな人だかりの前を通過し、線路脇を走る夏男の小さな体に触れることもなく和田塚駅を目指して走っていった。
夏男は、江ノ電が自分を通り過ぎた後、安心したように歩き始めた。線路の上までは誰も追ってこない。夏男は、鎌倉駅前で起きたことにショックを受け、うなだれながら歩き、目には涙を溜めた。
声に出さない嘆きが頬を震わせ、一滴の涙が線路に零れ落ちてはじけた。その時、夏男の目の前に由比ガ浜が広がった。
傷つくことしか知らない夏男の心が波音に癒しを求める。
由比ガ浜から傷心が消えることはない。誰もが自分に正直に生きていけない苦痛を、鎌倉に響き続けるこの海の歌を聴きながら和らげる。
夏男は、走り始めた。由比ガ浜海水浴場に来る人の波の隙間をうつむきながら全速力で走った。夏男は海水浴場の端の端の坂の下海岸の砂浜の端まで駆け抜け、荒い息を必死に静めようとしながら、砂浜にうずくまり、醜い顔を砂だらけにして隠すように砂浜に擦りつけた。そして、大声で泣いた。
「ずっと変わらない。今、気づいた。俺が人間だろうが、人面犬だろうが、そんなことは奴等にとって知ったこっちゃないんだ。奴等は、人間だろうが、犬だろうが、夏男という俺の命そのものを見下して笑うんだ。あの視線・・・・今も昔も俺を笑う人間達の瞳の奥に映る嘲笑と軽蔑、差別が許せなくて、小さな頃から吠え続け、噛みついて、睨みつけた。ああああ、なんで、こんな醜い姿に生まれてしまったんだ・・・・・。誰もが持って生まれた俺の上っ面だけを見て、俺の全てを判断しようとする。上っ面で判断されることに慣れすぎて、自分の内面を人に知られることを恐れるようになった。奴等は俺の純粋な心なんて笑うだろう。それを笑われたら・・・・・俺の全てが破壊されてしまう。純粋な心なんて弱さだと思った。その弱さを隠すために、守るために、絶対誰にも見せないためにつっぱり続けて、奴等は俺を鎌倉の悪魔と呼ぶようになったんだ・・・・・そして、本物の悪魔が俺を人面犬に変えた」
砂浜に顔をうずめ、叫ぶ夏男の口の中は砂でいっぱいになる。砂浜に流れ着いたガラスの破片が、夏男の右目の下を切った。真っ赤な血が頬を伝い砂浜を赤く染める。満潮に向けてあげてきた潮がその血を洗う。夏男は、ただただ波打ち際の砂浜の上で崩れ落ちる。波がここではないどこかへさらっていってくれることを望みながら・・・・。
「いいぞ、夏男。いい。非常にいい」と悪魔のいっくんが空から夏男の姿を見下ろし、興奮しながら拍手している。
相模湾に満ちる潮は寄せては引いていく。でも、夏男は、どこにも行けやしない。
静かな波音に混ざり、遠くから聞こえる海水浴を楽しむ人達のはしゃぎ声が夏男の耳に切なく響く。心が海の浅瀬にすら溺れ死んでしまいそうになり、苦しくなって「この世には、神も仏もありゃしねー」と、夏男は叫んだ。それが、犬の遠吠えになってあたりに響く。わぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん、と。
悪魔のいっくんは、それを聞き、「ブラボー」と盛大な拍手を夏男に送った。「この世で真に偉大なる者は悪魔だ、夏男よ」と、いっくんは悪魔の正当性を高々と叫ぶ。
「神や仏を信じる奴は、現実的ではないよな」と続けた。
そう・・・確かに、神や仏がこの世にいるのなら、悪魔を放っておかないだろうに。そして、純粋な少年を悪魔と呼ばせないだろうに。
人面犬は悔し涙に濡れた。
夏男の遠吠えが空に響き、海と戯れる夏のそよ風がその気持ちを大きく包み込もうとしたが・・・遠吠えは、そよ風に慰められるのを拒否した。風は寂しげな顔で青空に溶けていく。そして、遠吠えの余韻は相模湾に溺れた。




