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翌朝、つつじの木の枝が騒ぐ音で夏男は目覚めた。
葉が揺れ、光と影の交錯しあいながら目の前で騒がしく動き続ける。
とっさに開いた瞼、目ヤニだらけの目に太陽の光が眩しく目がくらみ、同時につつじに遮られた光の影が捻り込んでくるように入ってきて目の前が真っ暗になる。
視点は、まだ定まらない。
夏男は、前足で目を擦り、目ヤニを落とした。つつじの枝が揺れ続け、光と影のグラデーションが夏男の視界で様変わり続ける。夏男は、息を潜めて、物音に体をできる限り小さく丸めた。
「いたか、野良犬は?」
人間の声が聞こえた。夏男は、その声の方向に視線を向けた。誰かがつつじの枝をかき分けて、自分を探していることに気づく。ぶ厚い手袋が見えた。姿形までは見えない。
つつじを掻き分ける手袋をはめた二本の手だけが暗殺者の雰囲気を醸し出して、夏男を見つけようとする。手は、掴み取るべき何かを探している。十本の指がそれぞれ独立した生き物のように動く。
夏男は、身を屈めた。
物音ひとつ立たせないように固まった、そして、耳を澄ます。
葉と葉がこすれ合い、枝と枝がぶつかり合う音があちこちから聞こえる。一人じゃない。複数の人間が、自分を探してあたり一面に生えるつつじの枝を掻き分けている。
「いや、こっちにはいません」
つつじの枝が何十本も折れ、地面に痛々しく落ちていた。体の一部をもぎり取られたつつじは、悲鳴を上げているように見えた。あのぶ厚い手袋をはめた手に自分もへし折られる・・・・そんな恐怖が悲鳴のようにして屈めた夏男の心に響き渡る。
「電話の通報では、源氏山に向かっていたと聞いていたんだがな」
3人の保健所の職員達が公園の隅々を調べてまわっている。
夏男の視神経は張り裂けそうなほどに緊張していた。瞬き一つできずに恐る恐る辺りを見渡し、つつじの枝の隙間から公園の端々を見れば、犬が好みそうな食べ物が置かれた檻が要所要所に設置されている。
動物を欺こうとする人間の匂いがプンプンし、夏男の嗅覚はそれを敏感に感じ取った。夏男は、静かに目を細めて保健所職員達を見つめた。
彼らは怪しい薬品や棒などの道具を持っていた。野良犬捕獲のプロ達が夏男の居場所を探し出すために本気になっている。巻き網漁の漁師のように保健所職員達は、夏男のまわりに網を張るようにして獲物を追いつめようとする。山のてっぺんで網にかかりかけている・・・犬・・・。
どうしたらいいのかわからない・・・・・。
文字通り、身動き一つとれずにいる夏男。見つかるのは時間の問題だった。三・・・・・・二・・・・・・一・・・・・
「いたぞ」
保健所職員は、夏男をつつじの植え込みの奥の奥に見つけた。夏男は、見つかったことに気づきつつも保険所職員から目を逸らそうとする。見つかったという事実を受け入れられずに、どうしていいのかわからなかった。小声で素早く他の職員と連絡を取りあうベテラン風の保健所職員。
「俺が行くから・・・逃げられた時は、掴まえろよ」
「了解です」
野良犬捕獲チームが各々ポジションに着く。それを見届けて、ベテラン職員は、忍び足で夏男に近づこうとした。つつじの奥の奥の夏男が隠れている場所に体をねじ込んで来る。
捕まる!と夏男は本能的にそう感じ、逸らしていた視線をベテラン職員に向けてガンを飛ばした。「何見てんだよ、あんっ」と夏男は口にした。犬語では、がるるるるるるるるるるっになる。凄むしかなかった。相手を必死に威嚇しようと夏男は歯を食いしばった。そんな夏男の形相を見て、ベテラン職員は、驚きもせず怖がる素振りもなく静かに呟いた。
「あああ人面犬か、久々にお目にかかったな」
夏男は、少しずつ自分に近づこうとするその呟きに今にも噛みつこうとした。呟きは、それで終らない。もう一歩夏男に近づいて、補足説明が続いた。
「人面犬のような醜い生物は、ド田舎の山奥の影の影で誰にも気づかれず、迷惑もかけずひっそりと暮らしてるもんなんだが、何かの間違いで鎌倉に来ちまったんだな。かわいそうに。ただ、俺らは俺らの仕事をするだけさ、悪く思うなよ」
保健所職員にとって夏男が人面犬であろうが、ただの野良犬だろうが関係はなく、市民からの通報を受けたら、捕まえて檻に入れ、3日以内に飼い主が見つからない場合は、その犬を殺すだけだった。狂犬病を持っているかいないかは問題じゃない。狂犬病を人間に伝染させないために・・・というお題目の下に、次から次へと野良犬を処分していく。悲しいが、それが背負わされたお仕事。その仕事に疑問を挟めば自分が生きていけない・・・・。
「飼い主はいないのか?」とベテラン職員は、夏男の神経を逆なでないように静かに訊いた。そして、もう一歩足を進ませる。残り二人の職員は夏男が逃げ出した時のために後ろで待機する。夏男とベテラン保健所職員の距離は、目と鼻の先程にまで近づいていた。
夏男は、狂ったように吠え始めた。喉の粘膜を渇かせ、器官がぱっくりと切れてしまいそうな程な大声で吠えつけ、興奮と恐怖を抑えきれない心臓が激しく高鳴った。夏男は、自分を捕まえ殺そうとする人間達を憎しみを持って激しく睨みつけた。その吠え様を見て、「飼い主はいないようだ」とプロは冷静に言った。そして、一呼吸おいて、ベテラン職員は夏男に向かって突進してきた。
つつじの枝が踏み込んで来た職員の体に当たって無残に折れる音がする。
夏男は、吠えた。そして、強く睨みつけながら、噛みついてやろうと覚悟した。しかし、プロなベテラン職員は犬に噛みつかれても怪我をしないような特殊な作業着を着ていて、夏男がいくら噛みついたところで歯が立ちそうにもなかった。
夏男は、逃げたくなかった。
自分を捕まえようとする全ての力に反抗して、噛みついてやりたかった。でも、本能が体を動かして、とっさに夏男は逃げ出した。姿勢を低くして、全速力でつつじの根元から飛び出した。体中が軋む。昨日までに痛めた関節が叫ぶ。夏男は顔を歪めながら、必死に走り始めた。ベテラン職員は、夏男を取り逃がした。しかし、逃げ出した夏男をバックアップの職員二人が捕まえようとする。しかし、「えっ・・・・・・」っと二人の職員は、驚きを口にした。まだ野良犬捕獲の経験が浅く、人面犬を見たことがなかった。つつじの奥から飛び出してきた犬の顔を見て、一瞬たじろいでしまった。その瞬間に夏男は、一気に二人の間を駆け抜けた。
「追え、追うんだ、あの人面犬を追え」
ベテラン職員が、若手を叱り飛ばす。若手は、開いた口を塞ぎ、驚きを飲み込み、夏男を追うために走り出した。しかし、ベテラン職員の方がスタートが早く、一気に若手を抜き去って先頭を駆けていった。
源氏山公園を一気に駆け出た夏男は、源氏山の急な下り坂を転げ落ちるように走る。歯が食いしばれない。自然と口が開き、舌を出してしまう。熱くなりはじめの体を舌を冷やすことで冷まそうとする犬の体温調整。
走りながら犬の体に馴染んでいる自分を夏男は悟る。
勢い余る四本足がもつれないように前傾姿勢のバランスを取りながら、夏男は銭洗弁天の脇を通り抜けた。すぐ後ろには保健所職員達の足音が追いかけてくる。追跡者達の靴底は、夏の朝の熱しかけの道路に乾いたテンポを響かせた。
夏男は、走っても走っても追ってくるその単調なリズムを振り切れないでいる。プロの野良犬捕獲者達は、夏男を捕獲した後の決め台詞を心の中で準備し始める。
「もう一度聞くが、お前には家族も、飼い主もいないんだな?じゃあ、死ぬしかない。保護者のいない狂犬はこの社会では生きていてはいけないんだよ。悲しいけど、それが現実なんだ・・仕方ないことなんだ・・・君は死ぬんだ」
夏男は、追跡者との間を犬の毛一本程の差で、間一髪、源氏山を下りきった。どこを目指していいのかわからないまま、夏男は全身の毛を風になびかせて逃げ続ける。顔面の毛穴という毛穴から大粒の汗が出てくる。軟らかくて生温い夏の向かい風が夏男に向かって吹いてくる。そんな向かい風が鬱陶しかった。
なぜ追い風じゃない・・・・・。
目の前には赤信号。夏男は、目をつぶって小さな交差点に飛び込んだ。車が二台、急ブレーキを踏んだ。轢かれる寸前で、夏男は交差点を渡りきった。
保健所職員達は、赤信号で止まったまま。夏男は、そのまま住宅街に走りこんで、狭い路地に逃げ込んだ。夏男は、暴れる肺をなだめるようにして、ゆっくりと深呼吸をしようとする。でも、酸欠状態の体は一刻も早く大量の酸素を求め、呼吸の乱れはおさまらなかった。
「この辺りだ。この地域を隅から隅まで徹底的に探すぞ」
赤から青に変わった信号を確認し、交差点を渡ってきた保健所職員達の声が聞こえた。
夏男は、息を無理矢理止めた。気配を消さなきゃと思った。肺が真空状態になり、外気圧との空気バランスが崩れ急激にしぼんで、一気にはじけ飛んでしまいそうになる。
保健所職員達は、夏男が隠れていた路地を通り過ぎて、200―300メートル先を探し始めた。もっと遠くに逃げたとの推測を持ったのだろう。
夏男は、音を立てないように少しずつ空気を吸い始める。一気に酸素を求めたい衝動を押さえ込む。そして、一息ついた後、夏男は、急激な運動で一挙に溜まった体中の乳酸を取り除くために路地裏で体を横たえて休めようとする。若さだけはあるから・・・・疲れは、そんなには後は引かない。体を少し伸ばして、ストレッチをする。
保健所職員達は、見当違いな場所を探しているようで、いつしか3人の声は聞こえなくなった。少し安心する。伸ばしてほぐした筋肉が一瞬のリラックスによって緩む。そして、夏男は、まどろんで眠ってしまった。
気持ちよく眠っていたのにつつじの枝を容赦なく折る音で目を覚ました今朝は、寝ぼけた体を無理矢理起こした。本当は、もっと寝ていたかった。夏男は、犬になってしまったといえ成長期。いくらでも眠れる。逃亡者である夏男。目が覚めたら、また逃げなければいけない現実がそこにはある筈。もっと成長して、もっと強くならなきゃ潰されてしまうタフな世界。生き抜かなければ、人面犬のままで死んでしまう。小さな寝息を立てながら眠っている夏男の関節が音を鳴らす。ボキボキボキ。体格が少し大きくなる。成長期。
☆
きゅん・・・・・・。
胸が締め付けられた・・・・・。
夢を見ていた。
でも、現実とはあまりにかけ離れた夢のようなぼやけた幻想を眠りの中で見ることがつらくなった。
きゅん・・・・・。
リアリティのない夢の中には、自分の望むものは何一つなかった。
きゅん・・・・・。
ああ、何もいらない・・・夢も希望も青春も恋愛もお金も名誉も知識も何もいらない・・・。
だから、神様、仏様・・・・家に帰りたい・・・・ただ、それだけが望み・・・・
きゅん・・・・・。
眠りは浅くなっていく。そして、現実へとウェルカム バック




