⑮
一本の電話の余韻が、静かに鎌倉に響いていた。殺しの依頼に、「わかりました」と応えた声。夏男の存在を消そうとする勢力が神奈川県内で鎌倉の地を目指して動き始めた。野良犬夏男の足跡を追うために準備をし始める人間達。手に武器を取る。
夏男は、何も知らずに源氏山を目指して歩いていく。
細い道路にできる影の上に身を隠しながら、四本足を引きずるようにして前へと進んでいた。
虐待を受けた痛みがじわじわと体に染み出し、鼻からは何度もため息が漏れてしまう。
苦し紛れに鼻歌でも歌ってみようかとも思うが、頭にメロディーは浮んでこない。
空っぽ・・・・。
疲れてもいる。
空っぽ・・・・。
でも、そんな何も感じなくなりそうな心身シュチュエーションで、口の中だけは、マズい中華料理の見当違いの味つけがいつまでも残っていた。それは、鍋にこびりつく焦げのように口の中の柔らかい筋肉に付着していた。
夏男は舌で口内を舐めまわして、後味の悪さを取り除こうとする。でも、生ゴミの強烈な臭いや汗ばんだ腋の残り香のようなくさいマズさはどこにも去らなかった。
そこには自分がゴミを漁り、ゴミを食った証拠がこびりついているようだった。
そんな感覚に、夏男は歩きながら何度か吐き気を催した。でも、戻したら勿体ないから喉元に溢れ出した不快感をその都度飲み込んだ。
顔を隠すために下を向いて歩き続けると首が痛い。
それでも、隠れる場所を求めて下を向いて歩き続けなければならない。たまに人とすれ違うが、誰も野良犬に関わりたがらないから、足早に逃げていく。ただの野良犬だと思われるのは、むしろありがたいこと・・・野良人面犬だとわかれば街が騒ぎ出す・・・。
空腹が癒されたことで少し心が軽くなった気がした。それだけが唯一の救い。誰かの残り物を食うことに慣れていかなければならないと夏男は思う。でも、そんなことをあれやこれや色々と考えていたら、頭が疲れてきて、心は空っぽになってしまった。空っぽ・・・。
「参りました・・・・」
夏男は、思わずそんな言葉を零した。そして、「空っぽ・・・・」と続けた。
空虚な感覚ばかり。何も感じないし、何も感じたくない。でも、そんな体の毛穴から痛みが滲み出てくる。体中がちくちくした。こんなちくちく感・・・・人間だった頃は感じなかった。もがいて生きていた中で手にした暴力的な強さ。誰も寄せつけなかった。でも、不良だった夏男の圧倒的で支配的な暴力は今や体のどこを探してもなくなってしまってる。
空っぽ・・・・・。
しかも、ちくちくする。アザがうずき、傷が裂け、流れた血が人面犬の毛を染める。目の上にできたたんこぶのせいで視界が狭まる。それでも、その痛みから逃げる術はなくて、ただ痛みに耐えるしかないんだと気づかされる。
自分が自分である限りこの痛みから逃げることはできない。痛みを持たない他人の体を求めることはできないのだから・・・・。
ちくちくする・・・・・しかも傷口が痒い・・・・。
夏男は源氏山へと続く勾配が急な化粧坂を選んで登る。
険しい坂道。だからこそ、鎌倉好きの老人観光客が避けて通る場所。住宅地を抜ければ、人通りは少ない。自然に囲まれた場所で自然と落ち着きを心に留めながら引きずる足に力を入れる。
「ふん・・・・っ。ふん・・・・・っ」
斜めにせり上がった道を一歩登る度に鼻息は荒れる。何もかもが鼻くそとともに吹き飛ぶ。急な坂道が夏男のぐたぐたな思考を一時的に黙らせた。うだうだした空っぽ・・・な考えはいつしか鼻くそになっていた。
「ふん・・・・っ。ふん・・・・・っ」
ぷぅーーーぅっ・・・・・ぷすっ。
力を込めた時に、鼻息と一緒にオナラが出た。吐いた鼻息を吸い戻す時に、自分の肛門から放出された卵の腐ったような臭いを思いっきり吸い込んだ。
我ながら臭かった。
さすがに生ゴミを食べただけのことはある。夏男は、呼吸困難に陥りむせた。
あああ疲れた。
何もかもに疲れた。
自分のオナラの臭いにすら疲れた。
そう思いながら、高く上げ続けた前足、踏ん張り続けた後ろ足で坂を登りきった夏男の足は立っていられないほどにぷるぷる震えていた。
疲れ果てた夏男と対照的に、山は生気を帯びている。
息を切らしながら耳を澄ませば、辺りにはトビやウグイスの鳴き声が聞こえた。
辺りを見回せばリスが木と木の間を飛び跳ねる。
疲れきっているのは自分だけのように思える。
夏は、その美しさをみずみずしく艶やかに自然の中に含ませている。剥き出しの自然を構成するありとあらゆるものが躍動感をその体内に内在し、弾け飛ばんばかりの活力を表面に浮き立たせている。夏男だけが、しなびていた。
目の前には源氏山公園がある。
夏男は、よろめきながら公園内に足を進ませた。そして、疲れきった体を公園の隅のつつじの植え込みの中に隠した。とにかく安静にして体中を覆う痛みと疲れを沈めたかった。そして、空っぽな感覚を消し去り、ぐっすりと眠りたかった。でも、途切れることなく体を切り刻む痛みと悩ましい疲労が夏男を簡単に眠らせてくれない。
体の中も心の中もごちゃごちゃしていた。
「眠ることすら諦めなきゃならないのかよ。そんなことすら諦めなきゃいけないなんて・・・落ちるとこまで落ちたな、俺は」
夏男は、自分にそう言い聞かせると何もかもが、もうどーでもよくなった。そして、どーでもいいやと思って投げやりに勢いよく鼻から空気を思いっきり吸い込んだ。それは、諦めを意味した行為だったが、艶やきながら辺りに生い繁る夏草の青くさい生命の香りが一気に夏男の体に入ってきた。
坂道を登ってくる途中で鼻くそがキレイに取れた鼻の穴。
すーすーするその鼻腔の奥に夏のにおいが吸い込まれる。
諦めた時の大胆な行動がポジティブな結果をもたらすこともある。
太陽を全身にあびた草達の青春の鼓動が、夏男の鼻の奥を抜け、脳みそのど真ん中に吸い込まれた。
生命力溢れる夏の空気が、まるで薬草のようで、麻酔の役割をするように夏男の体中にじんわりと広がった。
体の痛みやうだうだした感覚が少し和らいだ気がした。その瞬間、痛みと和らぎの隙間に落ちるようにして夏男は眠りに落ちた。源氏山に鳴く鳥の声に混じって、大きないびきが山に響き始めた。まるで、空を飛ぶことに少し疲れた鳥が、羽根を休め、木の枝の上で鳴くように・・・・。
☆
月光に照らされる源氏山公園の中央にある源頼朝像。
鎧を纏い、あぐらをかきながら背筋を伸ばして鎌倉の街を見下ろす。
そんな源頼朝の石像の顔が歪む。
夜空を身に纏う悪魔のいっくんが、あぐらをかいた石像の上に座り込み、ローソンから盗んできた「からあげくん」を頬張りながら、つつじの植え込みにかくまわれながら眠る夏男の姿を見つめていた。
「調味料なんかの材料は、ほぼ揃った。しかも最高級品ばかりだ。油もまじりっけなしの純度100%の揚げ油。下味をつける調味料は職人が人生を賭けて作ったものばかり。片栗粉も申し分ないし、隠し味のニンニクや生姜も食欲をそそる香りがかぐわしく、付け合わせのプチトマトとサラダ菜もみずみずしいものばかりにめぼしはつけてあるから後は盗んでくるだけ。お好みで絞ってかけるレモンだってもう手配してある。でも、結局は、素材。小田原の山奥にある強い魔よけの奥で飼われている最高級の鶏肉。夏男、俺はもっとお前を苦しめ、タフに躾けて飼いならすよ。お前が俺のために100のチキンの生命を救うんだ」
むしゃむしゃむしゃむしゃといっくんは、からあげくんを口いっぱいに詰め込み、悪魔晩餐会に出席する超有名悪魔大学の教授陣達のリストを見た。
噛み切った鶏肉からは肉汁が溢れ出し、口内を湿らせる。
リストには偽善の権威がいたり、弱者に対する効果的な暴力行為を研究する残酷極まりない女教授がいたり、憎しみと嫉妬と殺戮を賛美する哲学者なんかもいた。
権力の効果的な活用術や富の奪い合いはもちろん政治・経済・社会を網羅する悪魔先生達がたくさん出席する。その中でも学長クラスになると人と人が正義という名の下に殺しあう戦争について研究しているものが多い。いっくんは、超有名悪魔大学に入り、それらの教授から悪について学べると考えただけで下半身がうずき、エクスタシーを感じた。特に戦争の裏にある悪意について学びたいと思っている。そして、いずれは自分も第二次世界大戦規模の底のない戦争を企画・遂行したいと考えていた。
「結局、この世の全てを支配するのは悪なんだ。そして、俺は悪の帝王になるのさ」
いっくんは、頼朝像のあぐらの上に座ったまま、お化け屋敷のカラクリ人形のように首だけを後ろにひねりまわした。正面を向く体、後ろを向く顔、夏の夜の肝試し。
源頼朝像は冷汗をかく。
いっくんは怯える源頼朝像の目を睨みつけながら言う。
「俺は悪の征夷大将軍になり、この世界をいずれ支配する、わかったか。あんっ?」
源頼朝像は、石のように固まったまま何も言わなかった。
何も言えない源頼朝の顔を睨みつけながら、いっくんの口元は微笑んだ。あたりに広がる冷たい沈黙を飼いならすようにして、いっくんは再び夏男の方に首をねじり戻した。
「夏男、明日はお前の存在を鎌倉の皆に知ってもらおうな。醜い人面犬の姿を、鎌倉駅前で皆に見てもらおう。そうすれば、お前はもっとタフになれる。そして、自分を取り巻く全てに憎しみを持ち、今まで以上に鋭い睨みがきくようになる。現実を睨めば睨むほど、恨めば恨む程、お前は俺たち悪魔のようにタフになれるのさ」
いっくんは、からあげくんを食べ終えて、油が染み込んだ包み紙をゴミにして公園に投げ捨てた。そして羽根を広げ、夜空に飛び立った。
源頼朝像の足が微かに震え続けていた。
フクロウの鳴く声が、震える沈黙に響き渡った




