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After Surf ...  作者:
11/45

高時の腹切りやぐらから逃げてきて、脱水症状で気を失っていた夏男。欲した水分が雫となって無意識の中の夏男の記憶に零れ落ちた。

渇いた体が本能的に思い出す母の残像。

夏男が、薄っすらと意識を取り戻すと、その残像は消えていった。暑い夏に見る蜃気楼・・・・・。心は、少しだけ湿っぽくなっていた。

開いた瞼は瞬きすらできずに、視線を宙に彷徨わせる。消えゆく蜃気楼と一緒に消えてしまいたいと思う。しかし、路地裏で干からびていく人面犬の生存本能は、湿っぽい感傷よりも物理的な水を欲した。そんな夏男を愛しく思いながら鎌倉の大仏様は、両手を合わせて雨乞いをする。

夕暮れの空が急に曇り出して、雷が鳴り始める。そして、稲光とともに夕立がやってきた。激しい雨が降り、夏男は濡れ、まわりには水溜りができる。夏男は、倒れ込んだまま水溜りに口をつけた。渇ききった喉の奥に雨水が伝う。

夏男の心臓がひたひたと湿っていき、潤いを血液にのせて体中に再循環させ始める。

夏男は、叫ぶように鳴る雷の音を聞きながら雨に濡れ続けた。アロハシャツは雨に濡れて重たく皮膚に張りつく。人面犬は、夏の夕立に命を救われた。

夏男は、雷が激しく光る薄暗くなった空の下で、安心しきったようにもう一度、少し眠った。寝息が鼻の下に滴る雨粒を吹き飛ばす。



夕立が止んで、道端の排水口に雨水が飲まれていった。そして、夏男の眠りも雨水とともに排水口に流れ込んだ。夏男は、目を覚ます。時間は、19時半ぐらい。空には、夜の闇が浮かびあがる。

夏男は、起き上がり、腹を空かせて歩き始めた。夜の闇を着こなして醜い自分の姿を隠しながら、鎌倉の街を彷徨う。

道沿いの街灯が点灯していてる。

ぼんやりと発光するその浅い光の周りを蛾が飛んでいた。空を浸食しきった暗闇の中で、次々と虫達が羽音を立てながら光を求めていた。

夏男は自分の醜さを照らそうとするその浅く薄い光を避ける。

夜の暗闇を照らすネオンや電灯は、あらゆる場所で点灯している。夏男は、その全ての人工光を避けて歩く。闇に身を浸し続けることに常に意識する。

民家の軒下にぶらさげられた風鈴の音が響いていた。その風鈴の音の向こうに居間があって、家族が夕食の支度をする声が聞こえる。


「ねぇ、あんた達、ご飯の用意しなさい」


「えー、テレビがいいところなんだけど」


「用意しない人は食べなくていい」


「えー、それも嫌なんだけど・・・。もぅ、やるよ、やる」


「箸とコップ並べて」


「はいはい」


「今日のおかず、何?」


「ホットドッグ」


「欧米か!」


「はは、そのギャグおもしろいわよね、テレビでよくやってる。さすが母さんのボケに突っ込めるところは、私の娘ね」


「いいから、今日のご飯何?」


「BBQ」


「欧米か!」


ゴールデンタイムの食卓に笑い声が響く。明るい家庭が夜に眩しく光って見えた。対象的に夏男は空腹を影のように引きずる。でも、この空腹を癒してくれる筈の帰るべき場所を夏男は持たなかった。ごまかしきれない胃の喘ぎ声を聞きながら、夏男は自問自答した。


「どこに行けばいいんだ・・・・どこに帰れば、ご飯が食べられるんだ」


喉が潤えば、次は腹が減る。腹がいっぱいになれば、一体次は何を求めるのだろうか・・・・。夏男は、生きていくことの難しさを腹をぐるるるるるっと鳴らしながら思う。

夏男はどこに帰ることもできずに、風鈴が響く民家の塀の影にうずくまり、眠る努力をした。でも、さっきまで寝ていたから眠くはなかった。それでも、夏男は、体から力を抜いて、力づくで眠ろうとする。ただ辺りの電灯がチカチカチカチカ光りながら、眠ろうとする夏男の神経を逆なでる。


「空腹も苦しみも眠ってやり過ごすしかないと思ってんだろう?お前は。眠りの中に食い物はないぞ」


電灯は夏男に、そう忠告した。電灯は夜空の下で星になったつもりらしい。チカチカチカチカ・・・・と偉そうな言葉を夏男に吐き続けた。暗闇を照らしている光という自負があるのだろう。電灯は、自分の言葉の正当性を蛍光灯の浅い光りで輝かせようとする。


「そんなことわかってんだよ・・・・」


夏男は、心の中でムカつきながら小さく呟いた。暴れ狂う空腹を抑え込む精神力は、もう限界まで来ていてた。こいつを抑え込むのにどれだけイライラするか。意識を鈍らせながら眠るには程遠いほど鋭敏に神経は尖っていく。

街中のノイズが夏男の気に触る。それでも、全てをやり過ごすには眠るしかないのだと夏男はもう一度自分に語りかけなおす。

やり過ごす以外に選択肢はなかった。

夏男は、落ち着かない感情が発する言葉で埋め尽くされた頭の中を空っぽにするために無駄あがきをしながら、高鳴っては静まらない神経を必死で撫でまわし、お腹を満たす夢を求め、全てを諦めて眠りについた。何もかもを諦めるまでに4時間以上掛かった。



夜が明けて、朝が来る。新たな一日が始まり、新たな噂がこの世に生まれる。そんな連続性の中で地球は回っている。

 高時の腹切りやぐらで目撃された人面犬の噂が、鎌倉の街に広がりはじめていた。小さな小さな嘘のような話が、消化されないまま、嘘ですまされずに人々の好奇の食欲に食され始める。小さな嘘みたいなげっぷは、口から吐き出された時に脚色され、巨大化し、誤ったクサい真実味を帯びている。そして現実を赤裸々に虚実を混ぜながら暴くワイドショーみたいな一日が、朝とともに鎌倉にやってきた。


「昨日の夜な、人面犬を見たとか言う浮浪者のオヤジが鎌倉駅前で騒いでてよ。なんでもアロハシャツ着た人面犬らしいんだけどさ、そんなんありえねーじゃん。最近、多いんだよなあ、ああいう頭の狂ったような奴。電車の中にたまにいるだろう。なんだろうねー、この弱肉強食の競争社会のストレスに犯された神経がなれの果てに見るのは、そんな幻想なんかねー?」


「人面犬って響きが何だか気持ち悪いよね。そう思わない?」


「考えたくもないね」


 都心の職場に向かう若い夫婦がそれぞれスーツを身にまとい、とりとめのない話をしながら駅に向かって歩いていった。その後ろを歩くバブル後期に青春世代を過ごしたぎんぎらぎんな中年カップルが冷めた口調で前の話題に続く。


「人面犬ってさ、なんかゴミ漁ってよ、声かけると、「ほっといてくれ」とか言うんだっけ。お前と昔ジュリアナ東京でそんな話しなかったっけ?」


「あはは、そんな話もあったわねー、昔・・・。懐かしいけど、もうボディコン着て、パンツ見せびらかしながら、扇子は振り回せないわ、さすがに」


「俺も体力ないわ、あの頃に比べたら。性欲も減退」


「あたし達、どれくらいセックスしてないんだっけ、最近」


「二年」


「ああ、そんなになんのね。でも、あんた、もう私のパンツ見ても発情しないでしょ」


「しないね」


「なんだったのかしらね、バブルって・・・・・」


鎌倉駅からJR横須賀線が次々と都心に向かって走っていく。そんな通勤電車を横目に、駅前のコンビニの店内、レジに立つ二人の地元フリーターが思い出話をする。


「人面犬って東名高速をなんでも・・・どれくらいだったっけ?・・・確か時速100キロくらいで走るんじゃなかったっけ?トラックを追い抜いて、後ろを振り向いて、ニヤっとか笑うんだろう。そんでトラックの運転手、その不気味な笑いにビビって、ハンドル操作間違えて事故ちゃったりとか」


 コンビニ店員の会話の途中、レジに大学生の男の子が携帯で誰かと人面犬について話しながら、メンソールの煙草を買いに来る。会計を済ませ、コンビニから出た大学生は、今買った煙草の封を切り一本取り出し、口にくわえて火を点けた。


「人面犬狩りに行かねー。狩れたら、俺ら有名人じゃねー?」


 携帯に向かって話す声が、スースーするメンソールの煙とともに口から吐き出る。


 そして、夏の入道雲の下、朝早くから海で波を待つサーファー達もまた、人面犬のことを妄想したりしていた。


1980年代から90年代初頭にかけて、メディアを通じて日本中に広がった噂が、鎌倉の朝の太陽の光をスポットライトにして再び照らし出される。

 夏男は、人面犬の噂の広がりを、ゴミの日じゃないゴミ置き場の影に隠れながら聞いていた。スポットライトに照らされぬように、必死に身をかがめ、顔を隠す。

 誰かに、「そこで何やってんの?」と聞かれれば、それこそ夏男はうつむきながら「ほっといてくれ」と突き放すように言い返すだろう。

 ゴミのないゴミ置き場の隅に隠れている夏男には自分が取り残された粗大ゴミみたいに思えた。足音が聞こえて夏男は、身をすくませる。声が聞こえた。


 「ねえ、ママ、人面犬って何?」


 幼稚園に向かう女の子がママの顔を見上げて不思議そうに聞いた。ママは、笑顔で童心の持つ疑問に答えた。


 「人間にも犬にもなりきれない中途半端で醜い、現実には存在し得ない架空の生き物よ」


 「ふぅーん。あたしにはよくわからないみたい」


 「いいのよ、あなたにはそんな意味のない生き物の生態がわからなくても。いい子にしててね、ママはあなたのことが大好きだから」


 「はい、ママ」


 夏男は影からそのやり取りを耳にした。腐って傷んでいく果物みたいに鼓膜が傷んでいく。親子は、ゴミ置き場の前を通り過ぎた。夏男は、身を屈め続ける。親子の会話の残響が夏男の耳穴の奥に水が入ったみたいに抜けない・・・・。


 時計が午前9時を指し、朝の通勤、通学ラッシュは終った。張り詰めていた夏男の緊張が一瞬緩む。人通りが一気に減る。

 縮み上がっていた血管に凝固しかけていた血が流れ出す。

 血液は、心臓ではなく胃に向かって流れていった。

 いっくんの下から逃げ出してから、まだ何も口にしていない胃は貧血状態。目眩にも似た症状が胃腸を襲う。

 隠れているだけでは飢えて死ぬ。死は、やはり恐怖。

 胃に血がドクドク流れ込む。空腹は、増大する。

 夏男は、食べ物を探しに出ざるおえない。

 夏男は、爪先立ちで裏通りを歩いていく。こそこそこそこそとゴキブリのよう。誰にも見つからないように音を立てずに抜き足、差し足、忍び足。


 「人面犬やぁぁぁぁぁ」


 昨日、自分の姿を見られた時に叫ばれた言葉が、耳から離れない。そして、その言葉を聞いて高時の腹切りやぐらから必死に逃げた自分が忘れられない。


 「悪魔。クズ。ゴミ。不良」


 ずっと後指を指されて生きてきたから、何を言われても無視することには慣れていた。気にしない素振りは得意技だったし、夏男をそんな風に呼ぶ奴等を暴力で叩き潰すことはもっと得意だった。

 大抵の人間は、夏男が睨めば黙って無言になった。でも、「人面犬」と呼ばれたことに、体の震えが止まらない。その「人面犬」という言葉の響きが鼓膜に届いた時、夏男の耳の根元で、透明なガラス作りの夏男の誇りが床に強く叩きつけられ、粉々に砕け散る音がした。ガラスの割れる音はよく響く・・・・。痛いくらい鋭い音を立てて割れたガラスの破片が夏男の心に次々と突き刺さった。


腹を空かせたゴキブリのような人面犬。そんな自分に何を思えばいいのか。

 抜き足、差し足、忍び足をする自分のステップ。身をかがめているのに爪先立ちの夏男。醜い上に滑稽な自分自身。何を思えばいいのだろうか。


 食べ物なんて、街中どこを探しても落ちてやしない。

 ゴミの日には、カラスがいち早く空から大きく黒い翼をばたつかせてゴミ袋を破り、中にある生ゴミ、否、食べ物を食べてしまう。

 夏男はゴミ置き場を転々と歩く。

 真っ黒な体で鍛え上げた筋肉を誇らしげに見せつける朝食を終えたカラス達が電線の上に何羽も止まっては飯にありつけない夏男を見下ろしていた。

 野良犬のために残される食べ物なんて街にはないのだろう。カラスの知能は恐ろしく高いと言われている。皆、馬鹿な野良犬が飢えて死ぬのを待っている。カラス達は、アホーを見るような視線を夏男に送る。

 夏男は残り物すらもらえない運命を背負いながらよろめきながら歩き、小さな公園の前で足を止めた。水飲み場の蛇口があいたまま、水が地面に零れ落ちていた。誰かが水を飲んだ後、蛇口を絞め忘れたのだろう。

 夏男は、空腹をごまかすために水でお腹をいっぱいにしようとした。夏空の下、苦しい程に喉も渇いていた。地面に溜まった水溜りに口をつけ、夏男は水を飲んだ。かなり年季の入った古い水飲み場の蛇口から、配管の膿を搾り出すように流れ出てきた水溜りの水。

 夏男の喉を通っていく水は、錆びた味つけが施されていた。更に、湿る地面に溜まる水は泥が混ざり合い、苦い味がした。

 水を舐め続ける夏男の目から一滴の涙が水溜りに零れ落ちた。

 涙が水面に吸い込まれ、水溜りに波紋が大きく広がっていく。その様を見て、一滴の涙が持つ大きな意味を知る。夏男の心の水溜りの水かさが増したように感じた。


 「泣いてはいけない」


 夏男は小さな頃から自分に言い聞かせた、強くなるための呪文を自分にかけようとする。でも、瞳からは雫が流れ落ち、水溜りはそれを受け止めた。涙は、止まらなかった。


「帰る場所がない」


 一心不乱に意地を張るように飲みすぎた水が、胃に入りきらずに胃から戻ってきた。唇の端からは飲み込んだ筈の水が力ないよだれのように垂れてくる。


水飲み場で放心状態の夏男の耳に足音が聞こえた。

 とっさに我に返り、心臓の鼓動を早めながら、公園の脇にある茂みの中に自分の体を苦しげに引きずりこんだ。

 誰にも見られたくない醜い自分の姿。

 見つかれば、また笑われ、軽蔑され、馬鹿にされ・・・・・イジメられるだろう。

 腹は減る。

 でもどこにも行けない。

 そして・・・・今はもう嘲笑に抗うための暴力を振るう力がない。あまりに無力な自分に何を思えばいいのか・・・・それすらわからない自分の脳みその馬鹿さ加減がむなしかった。

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