⑩
物心ついた時、夏男の家族は母ちゃん一人しかいなかった。初めはそれが普通だと思っていた。父ちゃんっていう存在がこの世界にあることすら知らなかった。でも、保育園に通い出した頃から違和感を感じ始めた。
集団生活を始めて、夏男は、何も持っていない自分に気づいた。同年代の子供達は、父ちゃんと母ちゃんと兄弟姉妹がいて、車があって、オモチャを持っていて・・・何かを持っていた。でも、夏男には母ちゃん以外に何もなかった。
何も持っていないことで馬鹿にされた。
何もないことが苦しくて悔しかった。でも、苦しいからこそ、悔しいからこそ、たった一人の家族である母ちゃんだけは・・・・宝物だった。
昼間スーパーでパートをし、保育園のお迎えはいつも一番最後。そして、家に帰って夏男に質素だけど手作りの温かいご飯を食べさせたら、自分は何も口にせずにエプロンを外し、そのまま鏡の前で化粧をする。幼い夏男を早く寝かしつけ、夜の街へとホステスとして水商売に出る母ちゃん。小さくても夏男にはわかっていた。母ちゃんが必死になって夏男を育ててくれていることを。女手一人で子供を育てることの限界を毎日感じながら、それでもそんな現実に抗いながら毎日働きに出る母ちゃんを見て、夏男は良い子でいなきゃと思った。
我儘を言えば母ちゃんがより苦しむ。幼な心にも母ちゃんの必死さが伝わってくる。夏男も保育園で色々と苦労していたから・・・・これ以上、苦しいのは嫌だな、母ちゃんに我儘を言って母ちゃんを苦しませるのは嫌だなと思った。夏男の脳裏には、保育園の同級生でいつも我儘を言っていて母親を困らせていた子供のことが浮ぶ。あんな風に振舞っては駄目だなと夏男は、小さい心で考えた。
夏男は出勤前のキレイに着飾った母ちゃんに寝かしつけられ、おとなしく眠ったフリをして母ちゃんを安心させた。夏男が寝息を立て始めたのを確認すると母ちゃんは、電気を消して夜の街へと働きに出た。そして、母ちゃんが家を出た後に夏男は目を覚ます。枕元には夏男が目を覚まして喉が渇いたらいけないとたっぷりの牛乳が入ったコップがお盆の上に置かれていて、その脇にはビスコが少し。
毎日、毎日、小さな体と小さな心に、何もないことで・・・何もないからこそ・・・・色んな気持ちを無理矢理詰め込まれるから眠れなかった。
電気の消えた真っ暗な家で一人、夏男は天井ばかりを見つめ続けていた。そして、喉が渇いたら枕元の牛乳を飲み干して育ったそんな夏男の幼年期。皆と同じ様な服を着て、同じ様な家庭が欲しいとも思ったこともあった。夏男が着ている服は、夏に母ちゃんに無理矢理着させられるアロハシャツ以外にはどんなアニメのキャラクターもプリントされていなかった。すぐに大きくなることを見越して、母ちゃんはいつもワンサイズ上の子供服を買った。キャラクター物は、すぐに飽きがくるからといって無地を買う。だからこそ、夏男にとっては夏にだけ着られる柄の入ったアロハシャツがキャラクター入りのTシャツのように思えて嬉しかった。ただ、アロハやらブカブカの服を着て、幼稚園に通う夏男は、集団生活の中で浮いた存在・・・・そして、母子家庭で育つ子供。何もないことが嫌だった。でも、どんなに望んでも手に入らないものがある。
本当は我儘に振るいたい。でも、そんな子供だった小さな夏男の心の裏側で諦めという感情がすくすくと成長していた。誰もいない家で眠れずに天井を眺め続ければ、何もかもを諦める方法がそこには書いてある気がした。幼すぎて字が読めない夏男。でも、その暗い天井に浮かび上がっていた何かを読み取ることができた。諦める。それならそれで良かった。諦めて全てが丸く収まって、母ちゃんと2人の家族が小さな幸せを守って生きていけるのなら・・・・。
鬱子を見て、保育園の母親連中が陰口を叩く。
「花成さんの家には父親がいないのよ。なんでもかなりの遊び人で、サーフィンなんかしちゃったりしてたみたいよ。ほら・・・・いろいろいやらしいことがオス・・・お好きらしいから・・・ふふふふふ、夏男君は、誰の子かもわからないみたいなの。嫌ね尻軽女は、けっ・・・ぺっ・・・今も男に媚び売る仕事を毎晩されているらしいし。不潔ね」
そんな母親連中の陰口を耳にした子供達はすぐに真似をし始める。子供達は、激しく残酷な口調で夏男を馬鹿にし始めた。
「お前の家、貧乏だろ。お前の母ちゃんがだらしないからだ。ママが言ってたぞ。ふしだらな女だって。発情期のメス犬だって」
餓鬼という鬼達は、母親の言葉をそのまま夏男にぶつけた。ご近所さんという狭い世界に生きるワイドショー好きな女達のヒステリックなうさばらしが間接的に・・・・否、より直接的に夏男の心に深く消えることのない傷をつけた。
夏男は、オモチャがないことには我慢できた。車なんて、もちろんなくてよかった。どこに行くにも歩いて行くことだって乳歯を食いしばって頑張った。
母の疲れた細い腕に「だっこして」なんて言わなかった。保育園のお迎えが一番最後でも夏男は我慢して泣かずに母ちゃんを待った。
夏男の小さな心の裏側で成長する諦めの感情が、多くの我慢を夏男に求め、夏男はそれを素直に受け入れた。でも・・・・・たった一人の家族である母ちゃんを馬鹿にされるのだけは我慢できなかった。
母ちゃんには何もないことが夏男にはわかっていた。それでも何も持たない母ちゃんが必死になって夏男を育ててくれている。母ちゃんはあまり頭が良くないから、色んな世間の常識にはねつけられながら生きるしかない。つらいことばかりの毎日を過ごしているように夏男には思えた。それでも、母ちゃんは笑って夏男を育ててくれた。幼い夏男の心でも母ちゃんが頑張って、永久歯を黄ばませながらも食いしばって小さな命を懸命に育ててくれていることはわかった。
夏男には、痛いほど必死になって自分を育てて、守ってくれる母ちゃんを笑う全ての存在が憎かった。そして、否、だから、幼き夏男は次第に人を殴るようになり、人に吠えるようになった。人に噛みついた。たった2人の花成家を馬鹿にして笑う保育園児を夏男は叩きのめすようになる。夏男は自分の誇りを守るために、たった2人の家族を守るために、嘲笑する視線を容赦なく叩きのめし、自分達を見下す餓鬼の目を涙で濡らせ大声で泣かせた。
夏男は馬鹿にされ、集団で陰湿な苛めを受けても絶対に泣かなかった。
泣いてはいけない・・・・泣いたら全てを認めてしまうことになる。
心は傷ばかりを負って、その傷は癒えることなく深く深く開いていく。やられたらやり返す。人を殴った夏男の小さな拳に痛みが響き、小さな体全部で屈辱に耐えた。大きな瞳に涙を溜めながら夏男は唇を噛み締め、涙が零れないように顎を前に突き出し大きな空を見つめた。
青くて大きな空が涙を隠してくれると信じた。
負け犬になっちゃいけない・・・・・・空が夏男にそう言ってくれているような気がした。
夏男の人生は小さな頃からずっと自分と母ちゃんを馬鹿にした奴等に噛みつくという繰り返しの日々だった。
夏男は、自分と母ちゃんのプライドを守るために闘い続けた結果、同級生からも、先生からも、PTAからも、警察からも、あらゆる存在から「花成夏男は、凶暴で危険で人間に噛みつく狂犬だ」と陰口を叩かれるようになった。そして、夏男が闘えば闘う程、状況は悪化していった。夏男は市中をうろつく狂犬病持ちの野良犬のように扱われ、不良のレッテルを貼られた。不良と呼ばれたって、夏男は自分が何一つ悪いことをしていないと・・・信じていた時期もあった。
家族の誇りを守るために自分は闘っているのだと思っていた。でも、暴力を振るうことで、腕力で自分を守ることで世間の風当たりがより冷たくなる。残酷になる。身を切るような鋭い風が、夏男だけでなく母ちゃんをも傷つけ始めた。世間は、子供の凶暴性を全て母親のせいにした。
花成家は、より馬鹿にされる。
大人の世界のイジメは、子供のイジメよりも何十倍も卑劣。母ちゃんの尊厳も人格も否定しようとする大人社会は、自分達の絶対正義以外を信じない。女手一つで子供を抱えてあがきながら生きてきた。しかし、母ちゃんは生きていること自体を否定される言葉を次々と浴びせられる。
「死ね。狂犬病を持った犬を産んだ雌犬は死んで償え」
見せかけの平和に生きる人々は皆、母ちゃんを嬲り殺すようにそう言い放った。その屈辱に耐えられずに泣く母の姿を見ると夏男は心の指先にある爪を全て剥ぎ取られたような痛みを感じた。
何も掴めない心の手から血が流れ続ける。
母ちゃんに泣かれると苦しかった。自分を傷つけなければ耐えられないような・・・自分という存在が感じうる以上の痛みがそこにはあった。
母ちゃんと夏男の2人しかいない家族をあざ笑う奴等、いじめ抜く奴等と闘っている筈なのに、その夏男の闘いがより母ちゃんを苦しめて傷つける。精神的苦痛に耐え切れずに、日に日に老いては、水分を失いつつある母の頬の上を涙が流れ続ける。母ちゃんの体中の水分が、瞼に集まって、流れ続ける。
母ちゃんが、必死にパートに出て、水商売までして自分を育ててくれていたのはわかっていたから・・・・どんなことがあっても母ちゃんが泣くと胸が裂けて、焼かれるように苦しく・・・耐えられなかった。
どっかの裕福な専業主婦や苦労知らずの餓鬼共に鼻で笑われたくなくて夏男が闘えば、母ちゃんはその度に悲しみに暮れる。夏男はやるにやるせなかった。母ちゃんの涙が夏男の心のダムに降り注ぎ、そして溜めきれずに溢れ出した。やり場のない悲しみが夏男の純粋な心の水溜りで洪水を起こした。夏男は、その押し寄せる悲しみに溺れてしまわないように、寂しさを浮き輪にして外へ飛び出し、万引き、かつあげ、イジメをして本当の悪になろうとした。自分の正義を貫くことに限界を感じ始めた夏男は涙を瞼の裏側にためながら、鼻水をすすった。
夏男は寄せては返す湘南のさざ波に問いかけた。海を見つめる目が濡れる。どうせなら、本当の悪になってしまって、誰もが夏男に言い放つように「不良」になれば、現実は何もかもが常識的に動きはじめて、世界は毎日無駄に回り続け、自分はこれ以上傷つかなくていいのだろうか・・・と。
母ちゃんを泣かす理由が「不良である夏男」であるのなら良かった。波が静かに崩れていく音が耳に響き続ける。母ちゃんを守ろうとする「正義を貫こうとする夏男」の闘いを泣かれるとやり切れなかった。
家族の誇りを失わないための闘いは終わりがないように見えて・・・・終わりがないのなら、母の瞳は永遠に涙に濡れたままのような気がした。そして、母の笑顔は水分を失い干からびていく。そんな母の頬を流れる涙の意味を変えてしまえば、自分の瞳が濡れてしまうことはない。
悪魔になれば、誰もが納得のいく不良少年になれる。
父親のいない貧乏な家庭の息子が非行に走るなんて話は日本列島の隅から隅までよく知られている話じゃないか。自分がその一人になれば、世界中の全ての知識人達、夏男と鬱子を馬鹿にする全ての人々は納得してくれるだろう。夏男は、そうすることで自分自身も納得がいくような気がした。どうせ誰もわかっちゃくれないんだ。諦めちまえばいい。悪魔になって、悪魔の自分を軽蔑する奴等を叩きつぶして、悪魔である自分を母ちゃんが泣く。そうすれば繊細で脆い夏男の心は、もうこれ以上傷つかない・・・・。正義なんて貫けない・・・。物事には限界があるのだ。
「悪魔になるしかないんだ・・・・」
夏男は、由比ガ浜に広がる水平線に向かって呟いた。そして夏男は、覚悟を決めて、自分の無意識の奥の奥にある言葉で表現しきれない複雑に入り組んだ感情のプログラムを粉々に破壊した。もう二度と何も感じないように、もう二度と感情が理路整然と組み立てられないように、夏男は心を壊した。
壊れゆく夏男の心は泣き叫んだが、夏男は自分の心を殴り続けた。
悪魔になろうと決心した日、夏男は上級生から金をカツアゲた。その金でバリカンと金髪用のブリーチを買った。そして、鏡の前で長かった髪を5厘まで刈り上げ、青々として剥き出しの頭皮にブリーチをぶちかけた。薬品が染み込んだ頭皮が燃えるように熱かった。髪の色が変わっていく。夏男は金髪坊主になって、悪魔に出家し、自分の人生を諦めた。
鎌倉の寺という寺には悟りを開こうとする坊主達が多くいたが、その中で唯の一人も金髪の坊主はいなかった。でも、その不良で悪魔のような金髪坊主が誰よりも仏が住む街で悟りを欲していた。
夏男が悪魔になった日、母の心からあらゆる全てが消え失せた。一本の張り詰めていた細い糸が切れるように鬱子は鬱病になった。瞳は涙で濡れながらも息子の前でだけは笑おうと努力していた母は、二度と笑わなくなった。笑えなくなった鬱子は働いていたスナックを追い出され、スーパーの調理場で朝から晩まで機械のように唐揚げを揚げ続けるだけの毎日を送るようになった。そして少ない生活費の大半を精神安定剤と睡眠薬に費やし、受け入れきれない現実をぼやかすために服用するようになった。




